第15章 新年

第52話 大晦日

冬休みになってから、僕らはアリスが再び言葉を取り戻せるよう練習を始めた。練習と言っても僕らは医者ではないので何をすればいいのか分からないし、アリスがアリスである限り喋ることはできないのかもしれない。全くの手探り状態のまま、言葉を発するための舌の動きを何度もアリスに教え込む。『れんにいさん』と言うことが目標だ。

「耳が全く聞こえない人でも舌の動きさえ覚えれば言葉を発することはできる。きっとアリスも発音できるようになるよ」

 蓮兄さんにそう応援されるたび、アリスは強い意志を秘めた目で大きく頷くのだった。

 僕らの冬休みは静かに過ぎていき、気が付けばもう十二月三十一日の夜になっていた。里奈さんの仕事も休みに入り、森の中の石碑に年内最後のお参りも済ませ、今日から実家の家族と過ごしている。歩いて二十分ほどの場所にあるから会おうと思えばいつでも会えるけど、アリスは寂しそうだった。

 今年はよく雪の降る冬で、クリスマスに続き年末年始も雪の予報だった。僕はきんと冷える付き人の部屋で日誌をつけた。二シーズンぶりに纏まった雪が降ったこと、言語を取り戻そうとするアリスの挑戦、蓮兄さんのこと。書き始めたら切りがなかった。

 蓮兄さんが種を引き継いだら、この部屋も蓮兄さんが引き継ぐことになるんだろう。付き人たちの日誌を見たら蓮兄さんは僕以上に切ない気持ちになるに違いない。僕は静かに部屋を出て、部屋の入り口と階段の昇り口のドアに鍵を掛けた。そして、みんなが待っている応接室へ下りていった。

 応接室はファンヒーターで暖まっていて、窓硝子が曇るほどだった。蓮兄さんとアリスが並んでソファーに座って、五百ピースもある大判のジグソーパズルをやっていた。

「やぁ、拓真君も手伝ってくれる?」

 蓮兄さんは僕を見るなり向かいのソファーに座らせて、小さなピースを手の中で転がしながら、鱗雲のように千切れ千切れに組み合わされた、まだほとんど絵柄になっていない絵柄を見詰めた。

「今日、柊吾と出掛けたときに買ってきたんだけど、なかなか難しくてね。三百ピースはやったことがあったから五百ピースも何とかなるだろうと思ったんだけど、僕の見通しが甘かったかな」

 そう言って笑った。アリスも何が描かれているのかさっぱり分からないピースを握って、これはどこの何のピースなのか考えるように視線をあちこちに動かした。

 手伝ってくれと言われても、まだ二、三十ピースくらいしか嵌まっていないし、箱の中に山ほど詰まっているピースをどう扱っていいか迷った。取り敢えず、角や縁のピースだ。僕はそういうピースを手近に集めて、机の上の千切れ千切れの絵柄に合わせていった。

 三人ともが無言になって懸命に正解のピースを探していると、ふいにドアが開いて佳歩さんが「まぁ」と笑いながら入ってきた。

「みんなずいぶん熱心ですね。少しお休みになられたらいかがです? 年越し蕎麦ができましたよ」

 その言葉に真っ先に顔を上げたのはアリスだった。手に持っていたピースを箱の中に戻し、「食べたい!」と、輝く目で訴える。僕と蓮兄さんは、もうちょっとで正解のピースに辿り着けそうな気がしてなかなか目が離せない。

「お二人とも、お蕎麦が伸びますから早くいらっしゃいまし」

 佳歩さんにぎろりと睨まれながらそう言われては僕たちも敵わない。『佳歩さんもああ言ってくれてるし、一旦休憩にしよう』『うん、そうしよう』というような無言の会話を視線で取り交わし、僕と蓮兄さんも席を立った。

 都会の方では除夜の鐘を鳴らさなくなったところもあるらしいけれど、妃本立では透き通った鐘の音が家々の隙間を縫って響き渡り、一年が終わろうとしていることを告げている。

 蓮兄さんにとっては久々の妃本立での年越しで、懐かしく思う部分もあるらしかった。

 朝永屋敷の大晦日は、柔らかく和やかに過ぎていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る