第39話 覚悟
蓮さんが帰ってきてからも私は変わらず仕事帰りに朝永屋敷を訪ねた。早番の週だったから佳歩さんに使ってもらう夕飯の食材をスーパーで買って、五時には屋敷にお邪魔する。拓真君とアリスちゃんは明後日から冬休みだけれど、今日は六時間授業で部活もあるからまだ帰ってきていない。私が屋敷を訪ねると蓮さんが出迎えてくれた。黒淵の眼鏡を光らせながら「いらっしゃい、里奈さん」と言ってにっこりと微笑む。
「佳歩さんは今忙しいので私がおもてなしします。不慣れなのでご不便をお掛けするかもしれませんが、ご愛嬌ということで」
蓮さんは私の持ってきた食材を受け取って人懐こく笑った。あとのことは蓮さんに任せて私は応接室に向かった。
応接室は既に暖められていて、一日中働いた体を癒してくれた。ソファーに凭れると心地のいい睡魔がとろとろと頭に纏わり付いてきた。眠気を吹き飛ばすように頭を振り、東向きの窓を見ると、寒気に包まれた寂しげな杉の森が見えた。今年もあと十日足らずで終わる。つい数ヵ月前の出来事である裕次郎の死や拓真君たちの継承、柊吾さんとの出会いが、何年も前の出来事に感じた。
細かいシルエットを浮かばせる杉の葉をじっと眺めていると、蓮さんがティーセットを持って応接室に入ってきた。淑やかなノックも、「失礼します」という声も、静かなドアの開け方も、全てが新鮮味を帯びて私の目や耳に入ってきた。優しい人も丁寧な人も私の周りにたくさんいたけれど、蓮さんのように頭の先から足の先まで全く隙のない紳士の鎧を嵌め込み、舞台に立つ演者のように整った所作を見せる人なんて見たこともなかった。恋情とは違う、憧れの芸能人に思い掛けず出会ってしまった奇跡のようなものに触れて、私は落ち着かなかった。
もてなしは不慣れだと言いながら、私にカップを差し出す蓮さんの手は恐れも怯えもなく堂々として、どことなく誇りを宿しているように見えた。
「蓮さん、ありがとうございます」
私がぎこちなく頭を下げると、蓮さんは親しみを籠めた笑顔を浮かべ、私の向かいに腰を下ろした。自分の分のカップにもお茶を注いで僅かにレンズを曇らせながら、音もなくカップに口をつける。あまり遠慮していると却って失礼になるので、私も黙って呑んだ。いつも佳歩さんが入れてくれるのと同じ味だった。
「やはりこういうお茶も、不慣れな人が入れるより、慣れた人にやってもらう方がいいですね。佳歩さんが入れてくれるものは何でも美味しい」
白い頬を子供のように綻ばせながら蓮さんは言った。
「あの……蓮さん、帰国されたばかりでお疲れじゃないですか?」
私が訊ねると、蓮さんは発条を弾くように元気に首を横に振った。
「疲れるどころか何もやることがなくて退屈しています。佳歩さんは私に遠慮してあまり家のことをさせてくれませんし、拓真君とアリスは学校。荷物の片付けは終わってしまいましたし、友人や知人もなし。仕方なく本ばかり読んでいます」
「拓真君たちは明後日から冬休みだそうですから、賑やかになりますね」
「そうですね。二人と一緒にいられる時間も限られていますし、私も楽しみです」
「蓮さんはまた外国へ出られるんですか?」
「いいえ。私はもうどこへも行きません。ここが終の棲家です」
蓮さんはカップを置いて立ち上がると、窓の外に広がる寂しい杉の森を眺めた。
「拓真君が種を継承したと知ったとき、私は思いの外、動揺しました。会ったこともなければ声を聞いたこともない。ただ話に聞いただけの血の繋がらない弟に対して、自分でも思い掛けない情が湧いていたようです。この子を死なせてはならない。私は自分の生まれや育ちからもう目を逸らしてはいけないと、ようやく覚悟ができたんです」
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