第8章 空種

第28話 一ヶ月

 拓真君との約束の日、私は墓前に供える花束を持って朝永屋敷を訪ねた。白い菊と百合の花が、私の胸元で甘くつんとした香りを放っている。すぐに拓真君も玄関ホールへ下りてきて、驚くほど綺麗に背筋を伸ばし、「行きましょうか」と言って私を案内をしてくれた。先立って歩くその背中が、どことなく大きく見えた。

 屋敷の裏口から森へ入り、人の足で踏み固められた土の上を歩いていく。細い枝が頭上に折り重なってトンネルのようになり、森一面、湿った日陰が広がっていた。所々、枝葉の僅かな隙間を縫って、侘しい薄日が差している。

「里奈さん、大丈夫ですか? 足元に気を付けて下さい」

 拓真君は振り返りながら私を気遣ってくれた。この森は拓真君にとって、裕次郎と散歩した思い出の場所でもあった。梢の絡み合う木々のトンネルを見上げながら、拓真君は思い出話を聞かせてくれた。

「裕次郎さんとはよくここで散歩をしました。将来のことや学校のこと、色んな話をしました。里奈さんのことは訊いても教えてもらえないだろうと思ってあまり詮索はしなかったんですけど、裕次郎さんにとって大事な人なんだってことだけははっきりと教えてもらいました」

 拓真君はそう言って、あどけない、柔らかな笑顔を浮かべた。私も気恥ずかしくなって誤魔化すように笑った。

 やがて、薄暗い木々のトンネルの先に、一ヶ所だけ、トンネルの途切れている場所が見えた。その空間だけ樹木が一本もなく、日差しが雨のように降り注いでいた。丸く刳り貫かれた空間だった。

  拓真君の背中に導かれてその日溜まりの空間に入ると、空間の真ん中に、一つの石碑が佇んでいた。石碑の表に『ALICE』と刻まれている。

 拓真君は振り返って言った。

「ここがアリスと付き人のお墓です。どうぞ、お参りして下さい」

 拓真君に促されてゆっくりと前に進み、白い菊と百合の花束を捧げた。日溜まりに包まれて、肩が暖かかった。目を閉じて、静かに手を合わせる。

 あれから一ヶ月。何が起こって、何をしてきたのだろう。思い出そうとすると案外何も思い出せない。真っ暗な目蓋の裏で、一ヶ月という言葉だけが妙にくっきりと浮かぶ。

「……もう、一ヶ月も経ったんだね」

 目を開け、手をほどくと同時にそんな言葉が出た。薄い板状の石碑に手を伸ばし、縁の部分を撫でる。石の冷たさと日差しの暖かさが同時に手のひらに伝わった。

「里奈さん」

 拓真君が私の背後で言った。

「寂しくなったり心細くなったりしたら、遠慮なくここへ来て下さい。里奈さんなら、自由にしてくれて構いませんから」

 私は石碑を撫でながら小さく頷いた。

「……ありがとう、拓真君」

 供えた花束を持って、私たちは屋敷へ引き返した。

 森へ行っている間、アリスちゃんは佳歩さんと一緒に私たちの帰りを待っていたようで、拓真君の姿を見るなり、子供のように腕に縋って笑顔を浮かべた。言葉には出さないけれど、『お帰りなさい。遅くて待ちくたびれたよ』とでも言っているんだろう。

 アリスちゃんと一緒に私たちを出迎えてくれた佳歩さんは、お供えの花を花瓶に移し変えてくれた。アリスちゃんが目を輝かせてその様子を見ていたので、花はアリスちゃんの部屋に飾ってもらうことになった。拓真君のアリスちゃんは歴代のアリスたちが使ってきた部屋を受け継いだというので、お供えの花を飾る場所としてはちょうどいいのかもしれない。花瓶を抱えながら踊るように階段を上っていくアリスちゃんを、私は呆然と見送った。裕次郎のアリスは音もなく影のように歩いていたのに、拓真君のアリスちゃんはまるで正反対だ。アリスちゃんが胸を躍らせながら、自分のお気に入りの場所に花を飾る、その様子まで、ありありと想像できるようだった。

「アリス、嬉しそうでしたね。あんなに飛び跳ねて階段を上っていくなんて」

 私の隣で、拓真君が笑った。

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