9.誕生日石のブレスレット

第40話

 後頭部が燃えるように熱い、それに生暖かいものが頭から垂れてくる。たぶん出血しているんだろう。

 野宮に会えたことで油断しすぎてしまった。まさかコップを使って殴ってくるなんて思いもしなかった。それにしてもすぐに気を取り戻せたのは幸運だった。

 残りの力を振り絞って奥本の腕を掴んだ。奥本はたいそう驚いていたが、すぐにこちらに向き直って揉み合いになった。

 しかし無傷の奥本とあちこち打身だらけの僕とでは戦力の差がありすぎた。どんどん攻撃してくる相手に、僕は防戦一方だ。それを奥本も理解しているようでどんどん押しまくる。特にケガが集中している顔と腹部を狙って打撃を繰り出してくる。

 こちらも負けじと両手で防御するがすべてをカバーできるわけでもない。取りこぼした拳が頬や腹に食い込む。そんな状況にじりじりと後退するしかなかった。

 気が付くとキッチンまで押し込まれていた。もう逃げ場がない。どうやら戦うしか残された道はないようだ。

 奥本の攻撃を避けながら、こちらも攻撃に転じる。だが奥本もその攻撃を受け止めた。

 しかもその拍子に腕につけたブレスレットが切れてしまった。バラバラと音をたてて誕生日石の玉が散らばっていく。

 反抗期の妹がくれた大切な誕生日プレゼントだ。嬉しくて肌身離さず身につけていたのが仇となった。

「大事なブレスレットを! この野郎!」

 怒りに任せて奥本の胸倉を掴もうと踏み出した時、何か柔らかい物を押しつぶした。にゅるっとした感触のそれに足を取られて僕は盛大に転んでしまった。転ぶ瞬間視界の端で黄色い物が飛んでいくのが見えた。

 ──あっ、バナナ!

 漫画のようにバナナで滑った僕はキッチンの床に頭を強打した。しかも傷口のところだ。

「ああああ!」

 痛みにのたうち回る僕に奥本は馬乗りになった。そして左手で首をガッチリと掴んだ。

「馬鹿なやつめ。自分の武器で窮地に陥るとはな!」

 首を絞める手がきりきりときつくなった。その手をはがそうと抵抗するが上手くいかない。

 息が苦しくなるなか、視界の端に倉井が倒れているのが映った。

「倉井! 動けるか!」

 その呼びかけに倉井はせき込みながら起き上がる。

「なんとか……」

「……野宮を……連れて……逃げろ!」

「でも……」

「いいか……ら」

 そこまで言うと倉井は「分かった」と野宮の元へよろよろと歩き出した。

「そうはさせるかぁ」

 奥本は僕の首から手を離すと野宮の方へと踵を返した。

 呼吸が自由になった僕は咳き込みながら大きく息を吸う。しおれた植物が水を得て元気になるように僕の意識もはっきりとしたものになった。そしてその瞬間、あることを思いついた。

 離れていく奥本の肩を僕は掴んだ。さらにもう片方の手で散らばる誕生日石の玉を集める。

「しつこい──」

 奥本が振り返った瞬間、彼の顔面目掛けて誕生日石の玉を投げつけた。

「うわぁ、なんだ!」

 怯んだその一瞬、僕は奥本にアッパーを打ち込んだ。本日二度目の命中に奥本は倒れ込んだ。

 転ぶ奥本を横目に僕は野宮の元に駆けつけた。

「野宮、逃げるぞ!」

「す、すいません。腰が抜けちゃったみたいで」

 へたり込んでいた彼女を倉井とともに両脇を抱え、玄関ドアから脱出した。

 蛍光灯が照らす薄暗い外廊下をエレベーターに向かってひた走った。

 背後では奥本の怒鳴り声がする。振り返ると奥本は鉄格子に掛けてあった野宮の傘をこん棒のように振りまわしながら迫ってくるのが見えた。

「天原、エレベーターはダメだ。待ってる間に追いつかれる」

「じゃあ、階段か!」

 エレベーターの手前で左に折れて、階段を駆け下りた。二段飛び、三段飛び、とほぼ野宮を引きずるような形で乱暴に地上を目指す。

 上の方からはドタドタと足音と奥本の「待て!」という咆哮が降ってくる。

 転がるようにエントランスに出ると乗ってきたスクーターも無視して道路へ飛び出した。あんなに降っていた雨はすっかりやんで、空には星が出ている。

「天原さん、もう大丈夫です。自分で歩けます」

 そう言う野宮から手を放し、僕と野宮と倉井は夜の住宅街を街路灯から街路灯へ当てもなく走った。濡れた道路は滑りやすくて走りにくい。

「これからどうするんだよ」

 倉井が金髪を揺らして訊いてきた。

「どうするって、逃げるしかないよ」

「逃げるってどこに?」と野宮。

「分からない。だからやみくもに走ってるんだよ」

 後ろを向くと傘を振り回しながら怒鳴り散らす奥本が見える。怒りのせいか喋る言葉は言葉になっておらず、吠える姿はクマのようだ。

 夜も随分深くなっている。こんな時間では住宅街を通る人の姿もなく、助けを求めることもできない。まるでここは僕たちと奥本のために用意されたフィールドのようだ。

「ひとまず、奥本を撒かなくちゃ」

 野宮と倉井を連れて角を右へ左へ、水たまりの水を跳ね飛ばし逃げ惑う。奥本もしつこくそのあとをしっかり追いかけてくる。

「天原さん! 奥本がまだ追いかけてきます!」

「ホントにしつこいやつだ。おい、天原。もっと人通りの多いところに向かえ!」

 言われみればそうだ。奥本から距離を取ることばかり考えていて、住宅街の中ばかり走っていた。奥本に捕まりそうでも人通りの多い場所に行けば誰か助けてくれるかもしれない。

 倉井の提案に乗って進路を駅方向に定めた。こんな時間でも駅前なら誰かいるだろう。

 記憶を頼りに何度か十字路を曲がって駅前につながる太い道路が先に見えた、その時。

 倉井が突然、アスファルトに転がった。濡れたマンホールに足を取られて滑ったみたいだ。靴が脱げて道の真ん中に転がっている。

「倉井! 大丈夫か!」

 僕と野宮は足を止めて振り返った。

「転んだだけ。あたしのことはいいから早く逃げて!」

 倉井の奥には獣と化した奥本が迫ってきている。倉井を助けに戻ったら確実に追いつかれる。それよりは早く助けを呼んだ方がいい。

「分かった。人を呼んで来るから、お前も逃げろ」

 野宮、急ごう。そう言いながら彼女を見下ろすと、野宮はてくてくと来た道を倉井の方へ歩き出した。

「おい、野宮!」

 野宮を呼び止めようと手を伸ばすと彼女は叫んだ。

「嫌です! 仲間を見捨てたりなんかできません!」

 野宮の真剣な眼差しが僕を貫いた。そうだった。彼女は猪突猛進、一度決めたら止まらない猪だった。

「僕も手伝おう。もしもの時は僕が盾になるから野宮たちは人を呼んできてくれ」

「それも嫌です。言ったじゃないですか、仲間を見捨てたりなんかできないって」

「分かった。もしそうなったら全員で全力を尽くして逃げる」

 倉井の元に駆けつけると、野宮は手を差し出した。

「なんで戻って来たんだよ。奥本はすぐそこだぞ」

「莉奈を見捨てるなんて選択肢にない。私をいじめたことは許さないけど命を張って助けに来てくれたのも事実だし、仲間だと思ってる」

「ありがとう、優月。それにあたしのこと仲間って……」

「ほら倉井、靴だ。逃げるぞ」

 僕は回収した靴を倉井の足元に置いた。後ろを振り返ると奥本は疲れたのか走るのをやめ、それでも傘を振り上げながら一歩一歩と近づいてくる。

「お前らぁぁぁ! 許さぁぁぁん!」

 そう奥本が吠えた時だった。太い道路の方から明かりがぱっと差した。

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