8.「仕込み」の成果
第36話
鉛色の空は今にも泣き出してしまいそうなほどに暗い。
出かける時、傘を持ってきて正解だったなと思った。この分だと目的地に着くまでに降ってくるだろう。
案の定、駅まで歩いている間にポツポツと雨粒が落ちてきた。雨粒は次第に量を増やし、あっという間に本降りの雨となった。
持って来た傘を開く。傘に弾かれた雨粒がバラバラと音をたてるのが心地いい。
私は通学カバンの口を開けて今日のために持って来たものを確認した。それはカバンの中で光を受けて銀色に反射する。
「よし、やるぞ!」
気を引き締めて直してカバンを肩にかけ直した。
今日は土曜日。本当なら今日は天原さんと一緒にアントリアのライブに行くはずだった。しかし今、私が向かっているのはライブ会場ではない。『仕込み』の結果を確認しに行くのだ。上手くいけば今日ですべての仕返しが完了する。
実のところ私は今日のライブを楽しみにしていた。だって、今若者を中心に人気が急上昇中のアントリアだ。見たいに決まってる。天原さんが誘ってくれた時は天にも登る気持ちだった。でも数日前、私は彼との関係を切ってしまった。
すべては彼が悪い。私が仕返しするのを天原さんは邪魔をしたのだ。せっかくのチャンスが、彼のせいで台無しになってしまった。そのことで私が怒ると彼は「やりすぎだ」と偉そうに説教をはじめた。それで私はついカッとなって言ってしまった。
「友達もいないくせに」って。
言ってから口が過ぎた、と思った。天原さんは親友の石山さんに裏切られたばかりだったと思い出したからだ。
気丈に振る舞っていたが、まだ心の傷は癒えてなかったのだろう。あの時の天原さんの青ざめた顔は今でも忘れられない。
私はなんて酷いことを言ったのだろう。私だって似た経験をしたことがあるのに……。
後悔したが言ってしまったものはどうにもならない。引っ込みがつかなくなった私はさらに酷いことを天原さんに言った挙句、学生証を彼に返して一方的に関係を終わらしたのだ。
去り際、天原さんに悲しそうな声で呼び止められたが、その場の勢いで私は冷たい言葉を投げつけてしまった。
そのあと一人で家に帰るとスマホに一通のメールが来ていたことに気がついた。それは天原さんからで、私の帰りを案じる内容だった。
熱いものが頬を伝う。
私は知っていたのだ。天原さんが優しい人だということを。喧嘩した相手のことを心配するほどに思いやりがある人だということを。
私は学生証をモノ質に取って彼を従わせていた気でいたけど、所詮は男と女。力の差は歴然のはずだ。やろうと思えば私を組み伏せて学生証を取り返すのなんて造作もないことだっただろう。しかし天原さんはそんなことしなかった。ぶつくさ文句を言いながらでも必ず私の仕返しについて来てくれた。
だから私は甘えてしまったのだ。ちょっとくらいキツいことを言っても見逃してくれるだろうと。
その夜は激しい後悔に苛まれた。何度も謝ろうとスマホを手に取った。でも、あれほどのことを言った後に、なんて謝ればいいか分からなかった。
たぶん天原さんは私がどんなメールを送っても許してくれるだろう。でもそれではダメなのだ。きっと仲直りしても彼につけた傷を消すことは出来ない。
それなら私が悪者になって天原さんに嫌われたほうが彼のダメージも少ないはずだ。
私はあの夜、河川敷で言った通り天原さんとの関係をなかったことにした。
ライブには行きたかったが今さらそんなことは許されない。それに彼との関係をなかったことにしたのはもう一つ理由がある。
それは天原さんを「共犯者」にしないようにするためだ。
天原さんにはこんな酷いことを言って約束を破るような女のことは忘れてもらおう。
そんなことを考えているうちに駅に着いた。雨で電車は少し遅れていたが、余裕を持って家を出たので影響はない。そこから何度か路線を乗り換えて府県境を越えた。
大津駅で降りると雨は本降りを通り越して土砂降りに近い状態だった。傘をさすと、ザザザと大きな音がする。心なしか風も強くなっている気がする。これは早く仕返しを済まさないと帰れなくなるかもしれない。
降りしきる雨の中を歩いて約十分、目的のマンションに到着した。
エントランスに入ると、当然だが私たちがばら撒いた告発書のビラは綺麗に片付けられていた。エレベーターに乗って四階で降りるとそこも同じだった。外廊下にはビラは一枚も無く床のタイルがむき出しになっていた。
果たしてこの前の「仕込み」は効いているだろうか。もしかすると引っ越しをしているかもしれない。そうなら転居先を見つけるのに骨を折りそうだ。
しかしそれは杞憂に終わった。外廊下を一番奥の部屋の前まで進むと『奥本』の表札が見えた。
あんなビラを撒かれても平然と住んでいられるなんて、どういう神経をしているのだか。それに、まったく「仕込み」が効いていないじゃない。
インターホンを押すと奥本はすぐに出てきた。私の姿を見ると少し驚いた顔をした。
「野宮じゃないか、どうした?」
「実は先生に相談したいことがあって……」
相手を油断させるため、できるだけ弱々しく伏目がちになるように意識して言った。
奥本はまんまと策に嵌まり「まあ、入れよ」と私を部屋へ招き入れた。
私は閉じた傘をドア横の鉄格子にかけて部屋に入る。もちろんか弱さを演出することも忘れない。
玄関まっすぐ延びる廊下の奥には洋室、左右には風呂とトイレが見える。家の中は掃除の手が行き届いていてホコリ一つ落ちていない。
奥本に案内されて突き当りの洋室に通された。部屋の中にはダイニングテーブルやキッチン台、冷蔵庫などが並べられている。どうやらここはダイニングキッチンのようだ。
廊下から入ってきた体勢のままで左を見ると、玄関から見えなかった部屋があるのに気づいた。ここがキッチンなら隣の部屋は寝室だろうか。
奥本はお茶を用意しながら私にテーブルに着くよう勧めた。
言われた通り四人掛けのダイニングテーブルの席に着く。カバンはすぐに中のものを取り出せるように横の椅子に置いた。
お茶を二つ持って来た奥本は一つを私にもう一つを向かいの自分が座る席に置く。
「で、相談したいことって?」
向かいの席に座ると奥本は両手を組んで私を見つめた。
私は話し始める前に目の前のお茶に手を伸ばした。一口飲んで喉を潤す。
「あの……。前に先生の要求を呑めばいじめを止めてくれるって話、まだ生きてます?」
「ああ、もちろんだ。もしかして気が変わったのか?」
目を細めて言う奥本に私はうなずいた。
「じゃあ、さっそく俺の要求を聞いてもらうとするか」
奥本は立ち上がると私の方へ歩いてくる。
今だ。
カバンに手を突っ込んで中のものを握る。引き抜かれてたそれは鋭く光る包丁だ。あとはこれを奥本の胸に突き刺すだけ。
その時、急に瞼が重たくなった。頭がくらくらする。体の動きが緩慢になり、まるで体中が鉛に変わってしまったように重く動かせない。
意識を引き留めていくのも難しくなりついにはそれを手放した。
薄れていく視界の端で奥本が気色の悪い笑みを浮かべているのが見えた。それを最後に私の視界はブラックアウトした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます