2.一人目

第5話

 聞きなれない音楽が意識を暗闇から浮上させた。僕は眠気まなこをこすりながら音楽の発生源へと手を伸ばした。このスマホに電話がかかってきたのはいつ以来だろう。

 ディスプレイは知らない番号を表示していた。もしかしたら石山かもしれない。はやる気持ちを抑えて電話に出た。

『もしもし、私です』

 電話口から聞こえてきたのは少女の声だった。

『今日の午後一時、昨日の公園に来てください』

「…………」

 その声で僕は昨日の出来事が現実であったことを思い知らされた。そして同時に石山じゃないことに落ち込んだ。

 よく考えたら石山のはずないじゃないか。彼の電話番号はスマホに登録してあるから着信時に『石山基樹』と名前が出るはずだ。起きたばかりだったとはいえ自分の鈍い判断力を恨んだ。

『もしもし、ちゃんと聞いてます?』という彼女の声で通話中だったことを思い出した。

「ああ、聞いてるよ。午後一時に昨日の公園だろ?」

『わかってるならいいです』

「ところでさ、もし僕が君の言うことを無視して公園に行かなかったらどうするんだ?」

『来ないつもりなんですか?』

 少し怒気の含んだ声にあわてて「もしもの話だよ」と付け足した。

 彼女はしばらく無言になってそれから

『そうですねえ……。昨日、公園であなたに暴行されたと警察に言いつけます』

 彼女はそう言うと、『めんどくさいことになるのが嫌ならちゃんと来てください』という言葉を最後に通話を切ってしまった。

 通話の切れたスマホの画面を見ながら、ふと無視してしまおうと一瞬思った。もし警察が来ても、そもそも僕は何もしていない捕まることはないだろう。

 しかしその説明に貴重な残り時間を使うのは不本意だ。一回付き合えば向こうも気がすむだろう。今日だけの我慢だ。

 スマホの時計は正午前を指していた。昨日、公園から帰ってきてから十時間以上眠っていたことになる。

 どおりで背中が痛いはずだ。それに体がベタついているし汗くさい。まず目覚ましにシャワーを浴びるとしよう。

 シャワーを終え新しいシャツに着替えた僕は次にヤカンで湯を沸かした。それから流しの下にある収納を開いた。中にはダンボール一箱分ほどのインスタント食品が入っている。

 本当は自炊をしたほうが経済的にも健康的にも良いのだろう。

 そう思って一時期自炊をしていたが、いちいち材料を揃えて調理するのはめんどくさい。次第に調理する回数は減って今では三食、インスタント食品か出来合いの惣菜で済ましてしまうまでなった。

 インスタント食品の山からカップ焼きそばを一つ取り出して湯を注いだ。

 三分待ってから湯を捨ててソースを絡める。これだけで立派な一食になるのだからカップ麺を作った人はすごいと思う。ただ具がキャベツだけなのは少し味気ない。

 朝食兼昼食を終えると十二時四十分を過ぎていた。

 そろそろ出かけよう。遅刻なんてしたらあの女に何をされるか分かったもんじゃない。

 ジーンズに履き替えて、ポケットに財布とスマホを突っ込んだ。

 部屋を出ると、じわっと暑い空気が体を包んだ。ギラギラと眩しい太陽が肌を焼いているのを感じる。

 この分だと公園に着くころには汗だくになっているだろう。せっかくシャワーを浴びたのに無駄になってしまうな。


 午後一時になる五分前に公園に到着した。園内はがらんとしており、ベンチに座っている制服の少女以外、人気がない。滑り台やブランコが日光を浴びながら暇そうにしている。

 僕は、公園の隅に設置されたベンチに腰掛ける少女に声をかけた。

「僕を呼び出したのは、君か?」

 僕の声に少女は顔を上げた。切り揃えられた髪が揺れる。

「約束の時間の五分前に来るなんて、天原さん、優秀じゃないですか」

「五分前行動は当たり前だ。君と違って僕は常識人だからな」

「私のどこが非常識なんですか。天原さんより先に来て待っていたのに」

 少女が不満そうに言う。

 命の恩人に難癖つけて呼び出すとことかじゃないの? と出かかった言葉を飲み込んだ。こんなところで言い争いをしている暇はないのだ。さっさと用件を済まして彼女から解放されないと。

「で、用件はなんなんだ? 悪いが僕は忙しいんだ」

 少女は「せっかちですね」と息を吐いた。

「それでは本題を話します。どうぞ、掛けてください」彼女は右手で自分の隣を指した。

 言われた通り、彼女の隣に座る。太陽に照らされた座面が熱い。

「天原さんはいじめにあった経験はありますか?」

「なんだ、藪から棒に」

「いいから、答えてください。あるんですか? ないんですか?」

 そう詰め寄られて、小中学校時代のことが頭をよぎった。クラス全員からの無視。机への見るに耐えない落書き。思い出すだけで胃が潰れてしまいそうに痛む。

「……あるよ。小中学校時代、いじめられていた。だからってなんか問題あるか」

「いちいち突っかかってこないでください。話が進まないじゃないですか」

 彼女の怒り口調に思わず、謝罪の言葉が出た。

「それで僕のいじめられた経験が君にどう関係あるんだ?」

「いじめられたことがあるなら話は早いです。私の〈やりたいこと〉は、いじめてきた人たちへの仕返しです。いじめ経験者ならこの気持ちわかるでしょ?」

「それはわからないでもないけど……。ひとついいか? いじめてきた人『たち』ってなんだ? 今日一日で終わるのか?」

「そんなの終わるわけないじゃないですか。絞りに絞って三人には絶対仕返ししなくちゃいけません。一人につき最低でも一日は必要ですから、単純計算で三日はかかりますよ。それに順調にいくことと最低限の仕返しで考えてこれですから実際には一週間、できれば二週間は欲しいところですね」

 冗談じゃない。ただでさえ僕にはあと一か月半しか残ってないんだ。大切な残り時間を赤の他人のために費やすことなんてできない。

 こんなことになるならあの時、助けなければよかった。知らないふりをして公園を立ち去るべきだったんだ。

 いや、今からでも遅くない。逃げよう。今なら僕の予定を軌道修正することができるはずだ。多少、こじれるかもしれないが、この女が知っているのは僕の連絡先だけだ。家はまだ知られていない。この場から逃げることさえ出来れば、あとは着信拒否にでもしておけばいい。これでこの女との接点は消える。二週間も大切な時間を奪われてたまるか。

「どうしたんですか? 急に黙っちゃて」

 少女が僕の顔を覗き込んできた。彼女に不審に思われずにこの場から立ち去らねば……。

「い、いや、なんでもない。それより、喉渇かないか?」

「いわれてみれば、そうですね」

「なにか飲み物買ってくるよ。ここで待ってて」

「ありがとうございます。たしか公園を出て右に少し行ったところに自動販売機があったはずです」

「分かった。じゃあ、ちょっと行ってくるよ」

 このまま飲み物を買いに行くふりをして逃げよう。

 僕が腰をあげると、少し遅れて少女も立ち上がった。

「ん? どうしたんだい?」

「やっぱり私もついていこうと思って」

「大丈夫だよ。公園を出て右だろ? そんな短距離で迷わないよ」

 すると少女はいやいや、と顔の前で手を振った。

「そうじゃなくて、天原さん逃げようとか考えてません?」

 訝しげな目で少女は僕を見つめる。

 まずい……。バレてる。なんとかしてこの場を乗り切らないと……。

「ハハハ……。そんなわけないじゃないか。逃げるなんて一ミリも考えてないよ。だから、ね? ここで待ってて」

 ぎこちなく笑う僕を少女はまだ疑いの顔で見てくる。

「わかりました。では、財布と携帯を渡してください」

 少女は僕に手のひらを上に向けて差し出した。

「え、なんで?」

「人質です。いや、モノだからモノ質か。あなたがちゃんと戻ってきたらお返ししますから大丈夫ですよ」

 少女はニッコリと微笑みながら言った。でも目が笑ってない。なんだかわからないが無性に恐怖を感じる笑顔だ。それに有無もいわせない圧を感じる。

 結局、僕は刃向かうことも出来ず彼女の言う通り、スマホと財布を渡した。

「これで満足か?」

 彼女は「ええ、満足です」と答えると、それから僕の財布を開けて五百円玉をひとつよこした。

「五百円有れば二人分の飲み物くらい買えるでしょ。それから、炭酸系はやめてくださいね。私、あのシュワシュワしたのが苦手なんです」

「……了解」

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