第17話 「初陣」(4)
今日はおそらく、荒事にはならないだろう。いくさ場に来て数ヶ月もたつと、ハデスにもその空気が何となく察せられる。自分も大したものになったなと、腹の中で皮肉に思ってみる。
盛夏はもうすぎ、秋へと季節は移っていた。太陽神パオロンの光輝も穏やかであった。トーブズ農園にいたころは、今ごろは収穫の準備や冬に向けて豚を肥らせたりといった仕事の季節だ。
いくさ場に出るようになり、もう半年になる。この間、数えきれないほどの合戦に参加した。何人も殺し、自身も何度も何度も手傷を負った。顔に手に脚に、そして見えない場所に大小無数の傷がのこる。
野営地を出て、草原を進む。
何度見ても信じがたい光景だ。見渡す限り、果てのない草原だ。イオでこのような光景は見たことない。トーブズ農園のあたりは、まだ丘陵や遠方に山々を見ることができたが、さらにタラの平原の奥に入りこんだこのあたりは、地平線の彼方まで何の起伏もない一面の草原で、ところどころに疎林やむき出しとなった巨石がうかがえる程度だった。
野営地からかなり離れた場所に、数本の枯れた灌木があった。
十五歩ほど離れた所で、手にした弓に矢をつがい引き絞る。羽音が響き、矢は一直線に一本の灌木目がけて走る。かん高い音がして、突き立つ。休む間もなく、次の矢を矢筒から引きぬく。次の矢は外れた、その次の矢も。結局、十本あまりの矢で的である灌木に当たったのは、最初の一本だけであった。
自分の下手くそ加減に、ハデスは失望のため息をつき、矢を拾いに行く。ハデスが持つ弓も矢も、いくさ場で拾ってきたものだ。今の彼には、容易に手に入れられるものではない。
矢を集め、また同じ場所にもどる。剣も槍もたいしたことはないが、本国にいたころ、弓はそこそこだったのを憶いだして、ハデスは暇を作ってひっそりと弓の稽古をはじめていた。
以前、イェルファナーに襲われた時も、まるで役に立たなかった。それでも何かをしていないと、不安で押しつぶされしまいそうだった。自分の身を護るために、どんな些細なことにでもすがりたい気分だった。
安物の弓の弦で指が荒れ、血がにじんでいた。右手のいつも奴隷の焼き印を隠している手甲は外した。矢をつがえるための皮帯を巻きなおすのに邪魔だったからだ。
人の気配に気がついたのはその時だった。顔を上げると、弟をネロスに殺されたと云っていた例の傭兵シートンが立っていた。ひと息に飛びかかられる距離ではなかったが、迫力はハデスに怖気をふるわせるものだった。
「ネロスのお稚児さんか?」
無表情で見下ろす。真意がはかりかねる。その不気味さに、思わず弓を構えかけた。
「お前、その手……」
シートンの視線が自分の手にあったことに気がつき、慌てて隠したが、手遅れだった。
「奴隷あがりか……いや、お前ひょっとして逃亡奴隷じゃねぇのか?」
血の気が引いた。その様子に、シートンは察したようだった。
「はは、じゃとしたら、こりゃちいとまずいことになるな、おい、お前わかるじゃろう?」
残忍そうに笑うシートン。
意を決して、弓を構える。シートンはネロスに恨みがある。何としてでもその恨みを晴らしたいと執着しているが、挑発してもネロスは相手にしようとしない。そのネロスの弱みはハデスである。そして今また、奴隷の焼き印を見られた以上、この男の口を封じなければならない。
シートンは平服に腰に、短い剣を佩いているだけだ。しかしこの距離でも、このいくさ場慣れした傭兵に対抗できる気がしない。一方、シートンは余裕だ。ハデスなど、どのように料理することも可能だろう。
傭兵の厚い胸元を指している鏃が、心中の不安を表すように震える。
シートンの笑みがさらに酷薄さを増し、その巨躯から凄まじい殺気が吹き出した。殺気にあてられただけで、ハデスの身体から冷えた汗がにじみ出た。
シートンの巨躯が横っ飛びした。鏃の先がついていくことができなかった。開いてしまった身体は無防備そのものだった。身体が恐怖した。絶望に、自分の顔が引きつっているのがわかる。
一瞬でシートンは間合いをつめる。石くれのような拳が、ハデスの顔を殴りつけた。たったの一発で、ハデスは膝から崩れ落ちた。
ネロスは天幕の前で肌脱ぎにし、太刀の刃を研いでいた。いくつもの刀創や矢傷がのこるたくましい肩と背中に、玉のような汗が出ていた。
手元が陰った。見上げると、シートンが仁王立ちしていた。無視をして研ぎをつづける。その背中に向かって、シートンは語りかける。
「三日後じゃ。三日後の早朝、五点鐘の刻に、この野営地から西へ四半里行ったあたりに三本の枯れ灌木がある。そこで待つ」
「断る」
「お前は断らん」
ネロスは再び顔を上げた。
「お前は断れん、ネロス。お前が連れとるあの従者、逃亡奴隷じゃろう?」
ネロスの眼がすばやく周囲を見渡す。シートンは声を落としていた。誰にも聞かれていないようだ。
「知らんな」
「逃亡奴隷は重罪だぜ、俺が出るとこに出てご注進すりゃ、ちとまずいことになるんじゃねぇか?」
「お前の勘違いだ」
白々しく云いはなつネロスであったが、シートンは騙されなかった。
「俺がさっき云うた場所に、お前への伝言をのこしとる」そう云うときびすを返す。「ええな、三日後じゃ、お前は必ず来る」
シートンが云った場所に、伝言とやらが転がっていた。散々殴られたハデスを背負おうと、かすかにうめき声をあげた。顔中、鼻血と吐いたもので汚れ、無残に腫れあがっていた。
背負っても、力がろくに入らない。
「……ネロス……」弱々しく、呼びかける。「あいつ……お前……と、決闘するって云って……た……」
「ああ」
「……やめろ、知らんふり……しとけ……」
「ああ、わかっている。俺の仕事はあんたを送り返すことだ、そんなばかなことはしない」
ネロスは静かに答える。
「……本当だぞ、絶対……する、な……やり、すごせ……」
「わかってる、わかってる」
「本当だ、な……約束だ……いい、な……ちく、しょう……」
「わかってるって、心配するな、泣くな」
「……泣い、て、なんか……」
二日間、ハデスは天幕の中で身動きすることもできなかった。暴行を受けた身体は熱を持ち、もうろうとしていた。熱にうかされた寝床の中で、ハデスはずっとうなされていた。ネロスが時折、薬湯を飲ませてくれたことも記憶にうつろであった。
この間、合戦がおきなかったのは幸いだった。
ようやく熱が引いたのは、前日の夜であった。力が入らないのでまだ寝床に横たわっているが、何とか口をきくことはできる。それでも口の中は切り傷だらけで腫れあがっているため、言葉は不明瞭だった。
「……ネロス……シートンは相手にするな」
「わかっている。あんなやつ、やりすごす」ネロスはひらひらと手を振って軽く答える。「騒動おこしたら“牛”の旦那から追放されてしまう。そうしたら喰いっぱぐれだ、そんなばかなことはしない」
「……本当だな……」
「ああ、約束するよ、シレーンに誓って」
ネロスは軽薄な調子で誓うと寝床にもぐりこみ、いびきをかきはじめた。ハデスも眼を閉じる。充分眠ったはずなのに、再び沼に引きこまれるような眠気にとらえられていった。
野営地にも、秋の夜が十重二十重の紗幕を広げている。月が傾き、ときとともに一枚一枚、紗幕が薄くなっていく。。
天幕から抜けだそうとするネロスの背中を、呼び止めた声があった。
「どこに行く……」
「小便だ」
「うそだ」
うめきながら身体を起こす。ようやく動けるようになった。以前トーブズ農園で使用人に殴られ、寝こんだことがあったが、今回は比較にならない。
「あいつとの決闘なんか、無視しろ」
「だから、しないってシレーンに誓っただろう?」
「うそだ……やるつもりだろう……私もついていくぞ」
「どっちなんだよ」
天幕から這いでたふたり。まだうす暗い。太陽が出ていないと、もう震えるぐらいだ。夜警はなじみの男だったので、軽く声をかけて野営地から抜けだす。
朝露で湿った膝まである下草をかきわけつつすすむうちに、じょじょに明るくなっていく。ふたりは無言だった。
シートンはすでに待っていた。ひとりだ。手には魁偉な身体にふさわしい大剣を手にしていた。
「逃げるかもしれん思うとったがな……」
脚下の夏草を踏みかためつつ、シートンが云うた。
「お前の話、何のことかさっぱりわからんが、まぁそうじゃのぉ、俺の従者に手を出しといて、まるっきりそのままってなぁな……この稼業、なめられたら終わりだ、けじめはつけてもらうでぇ」
「ネロス、お前は弟の敵じゃ」
「その話は聞き飽きたぜ、シートン。お前みたいな虱野郎に、決闘の作法はいらんな」
ネロスが笑った。飢えた狼のような笑いだった。応じるようにシートンがせせら笑い、はじまった。
両者が無造作に前に出る。ほんの一太刀で相手の急所を切り裂けることができるほど接近すると、測ったように、両者の脚が止まった。
その日の陽光の最初の一筋が、草原を黄金色に染めた。
その瞬間、力みのまったく見られなかった両者の腰が沈み、手が奔った。鞘が銀光を発し、きらめき、刃がからみあう火花と激しい金属音の響き――さばいた体で両者が静止したのはほんの一瞬であったが、やがてゆるやかにシートンの巨躯が崩れ落ちた。
以前、彼が見せた傷とまったく同じ場所からどくどくと血が噴きだし、数度痙攣してシートンはまったく動かなくなった。その顔には苦痛も無念もない、空虚なものだった。
ネロスが刃の血のりを、ゆっくりとぬぐった。
「誰も見ちゃおらん……」“牛”は無表情にそう云うた。「お前がシートンを殺した現場を見た者はおらん、だがな……やつとお前の仲を知らん者はおらん」
“牛”の天幕の中でのことだった。“牛”とネロスとハデスしかいない。
「シートンのやつが、ひとりで勝手に突っかかってきただけじゃ、俺は相手にしたとらんよ」
「そこの従者が、シートンに手ひどうやられたじゃろうってなぁ想像できる、そしてそのシートンが殺された。確かに誰も見てはおらん、だがなネロス、お前だってわかるじゃろう……?」
「誰もが俺がやったって思う……ってことだろう?否定はできんな」
「お前がやったのか?」
「知らんな」
ネロスは平然としている。
「お前とシートンが、前後して野営地を抜け出したなぁ、夜警の当番が見よる、それぞれ得物を持ってだ」
「俺は小便じゃ、シートンは知らん」
「長い小便だったようだな。傭兵どもの決闘はご法度じゃ、しきたりを忘れたわけじゃないじゃろう?喧嘩沙汰なら、まぁ大目にみる。だがな、人死にが出てしもうたら、かばうこたぁできんぞ。疑いのあるお前を、置いとくわけにゃあいかん」
“牛”は嘆息した。おそらく、すべて察しているのだろう。おそらくネロスもこの男相手に隠しおおせるとは思ってもいないだろう。
「これまでの働きにゃあ、きちんと払うちゃる。トラーオの蓄えもお前に預ける、それでお前とは縁切りだ、ええな」
「わかった」
「……ばかなこと、しやがって」
“牛”はでかい身体を椅子にあずけ、心底もったいなさそうに、そう云った。
* * *
ときに想う。
――自分は、何かになれるのか?
ネロス――“疫病神”のあだ名を持つ、ひといくさいくらで腕を売る雇われ兵である。傭兵として生きるしか道はない。いくさ場だけが生きる場所だ。
それはわかっている。わかっているが、それでもまれに、ひどくまれに彼は想うことがある。
学などかけらもない自分だ。なぜそんな書生っぽや占い師が口にするような奇妙なことを想うことがあるのか、不思議ではある。不思議であるが、それでもひどくまれに、身体の奥から不意に暗雲がわきあがるように、その想いに捉われる。
そういえば、以前、酔っぱらって街の辻占に占ってもらったことがある。
片腕の男がお前の運命を変える――それが出た卦だった。
いっしょに酔っぱらっていた連中と、大笑いをした。占いの婆はひどくまじめな顔をしていた。商売だから、それっぽい雰囲気は必要だろう。占いはそれっきりだった。
だがたまに、そのことを憶いだすことがある。
どこかで運命が変わることがあるのか――と。
自分は、他の何かになれるのか?自分には見えないどこかに、別の道があるかもしれない。傭兵として生きる、さらにその先が――と。
無論、答えなど出たためしはない。これは正答のない謎かけ――千貌の運命神パーンの一貌が、人間に問いかける謎かけのようなものだ。
わかるはずがない。当然だ。意味のないことだ、自分には。最後はいつもそう考える。
誰にも語ったことはない。
――ハデスとの出会い。
ハデスは未熟であった。愚かでもなければ、特段優れてもいない。身分を鼻にかけたところも、あるにはあるがさほどではなく、しかし傭兵である自分に権高であった。そのくせひとりでは何もできず、世間知らずで、いつも片意地を張り、自身の凡庸さ、物足りなさに焦燥していた。
それが本国の政治闘争の犠牲となってかどわかされ、奴隷の身分に堕とされた。ひとたび奴隷となれば、行方を追うことなど、とうていできない。見つけだすことができたのは、半ば奇跡であった。つらい経験であったろうが、それでも生まれ持った彼らしさを、さほど失っていなかった。
そういったこともあったのかもしれないが、ハデスはどこか手を出してやりたくなる若者であった。
トーブズ農園で救ったネロスは、彼を送り届けることに決めた。
この仕事、最初はマールから頼まれた銭金づくだった。護衛など本分ではないが、支払いのよさが魅力的だった。
ハデスがさらわれたときは、さっさと降りてしまうこともできた。傭兵仲間に、そのような仕事をしているなど知られていなかったのだから、失敗したと面子がつぶれることもないだろう。それをしなかったのは、半ば以上意地であった。
だが、今は少し違う。苦労して見つけたのだから、無事送り届ける。金はほしい、意地もある、面子もある。しかしいつかそれだけではなくなっていた。無論善意ではない。
ネロスはその感覚を、自分自身にすらうまく説明できない。自分にとって必要な気がする。何となくそうすべきだという、ぼんやりとした感覚である。理屈ではなかった。
だが、為すべきことだと感じたのであれば、それに従うべきである。
傭兵ネロスは、これまでそうして生きてきた。
(第17話 了)
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