第4話 「バインセアの毒」(後編)

 ここ、ホントの大使館でハデスに与えられた執務室は、ひとつの国がそれよりも気が遠くなるほどにはるかに強く大きな国と、したたかに付き合っていくために必要な場所のひとつであって、本来なら相応の者が使うべきであろう。自分がここにいるのは、ひとえに生まれによるものにすぎないということは、ハデスはよくわかっている。わずか十五歳の若年が、一国の大使館において大使に次ぐ地位である公使を拝命することなど、ありえないことである。

 その執務室に武官のマールが入ってきたのは、バインセアと別れて数日後の、まもなく夕刻になろうとする頃合であった。

 マールは王弟家の重臣職にあるが、元々は直参ではない。ハデスが産まれる以前に王弟ユリウスがカスバルを王弟領として領した際に、王宮より遣わされた。それゆえ、父やとりまく直参たちとは常に一線を画さざるをえない立場にありながら、ハデスに対しては父以上の配慮を持ってくれている。

 ハデスがホント付きの公使となる際も、すすんで武官として配属を強くのぞんだ。本国の眼の届かないホントにおいてすら、いやだからより以上に、王と王弟との派閥に分かれての抗争は陰湿かつ公然たるものであり、マールは歳若いハデスの盾となるべく身を挺したものであろう。

 そのマールも今、ホントを去ろうとしていた。

 入室は別れの挨拶であろうかと考えた。明日か、遅くとも明後日には、この老臣は彼の前から姿を消す。

 彼につづいて、もうひとりの男が入室してきた。

 大柄な男であった。マールよりもふた回りもでかい。扉が開いた分をまるまるふさいでしまいそうだった。顔の下半分は黒く濃い無精髭におおわれ、眼は硬質の石のようであった。

 マールは丁寧に一礼をする。

「殿下、私は明日出立をいたします。当日はとりこみ、満足にお言葉を交わす余裕もないかと存じますので、非礼を承知で別離のあいさつにまかりこしました」

 ハデスは重苦しくうなずいたのみであった。

「殿下、これより私が申すこと、何者にも決して口外なされぬように、お願い申し上げます」

「どうした?」

 緊張した口調に、思わず問いただしてしまった。

「まず――今後陛下と王弟殿下との間で、とりかえしのつかない争いごとがおきることは、ほぼ確実でございます。私やベルンも回避できるよう尽力いたしますが、ことここにいたっては、回避することは非常に困難であろうと云わざるをえません」

「争い……内乱になると云うのか?」

「左様……イオは乱れます」

 苦悩の表情をうかべつつマールは応えた。ハデスは疲れきったように、自分に不相応な豪奢な椅子に身体を沈ませた。

「愚かな……父も陛下も、何と愚かな……」

「すべてはシュペールの差配にございます。人の身には、いかようにもなりませぬ」

 眼を伏せ、マールは答える。

「殿下、いかなる事態になろうと、決して軽挙はなりませぬ。本国とホントではあまりに遠すぎますが、妄言や疑心にまどわされず、慎重に、くれぐれも慎重にご判断をなされてください」

「……マール」

「はい」

「もし……もしも父と陛下が争ったら……剣を以て争ったときは、私はどうしたらよいのだ?」

 自分の耳にすら、感情を取りこぼしたような声音に聞こえた。

「……決して」マールは一瞬、顔を歪めた。「決して王に刃を向けてはなりません。たとえ父君に背くことになろうと、決して」

「父に仕えるお主もそう云うのか? 父はそれほど、嫌われているのか?」

 寄る辺を求めているようなハデスの言葉に、マールは首を振る。

「イオにおいては長子相続が決まりごとです。長幼の順逆を乱すことは赦されません。殿下がお立場をわきまえず、王に刃を向けることは叛逆にございます。それゆえに、殿下が父君に加担されることは決して赦されません。もし殿下が父君とともに陛下に叛けば、擾乱はより大きくなるでしょう。何より殿下は叛逆者の汚名をかぶることになります」

 マールは言葉を切る。ハデスは無言であった。ぎこちなく言葉をつづける。

「父君は、王弟殿下は……私も長い間仕えてまいりましたが、若年より実に聡明なお方でございました。実の兄君であらせられる現王陛下に劣らぬ、決して劣らぬ……ですが……」

 背後で鼻を鳴らす声がした。はっと振りかえったマールと、その男の視線がからみあった。男は揶揄するような皮肉な笑みを浮かべていた。ハデスもまたいぶかしげに眉をひそめる。

「ネロス……」

 マールはつぶやくと、再びハデスへ向きなおった。小さくため息をつくと、何かふっきれたように口を開いた。

「申し訳ございません殿下。この期におよんでつまらぬ建て前を……」

「マール、せめてお前だけは私を人形あつかいしないでくれ」

 ハデスの声は自然と硬くなっていた。

「申し訳ございません、いらぬ気遣いでございました」

 深々と下げた頭を上げたとき、すでに老臣の瞳には硬い光が宿っていた。

「……殿下、私が王弟殿下に従ってはならぬと申しました理由は、まず先ほどのように殿下に叛逆者の汚名をきせぬためでございます。実子である王弟殿下が従わねば、通じる者も二の足を踏むことでしょう」

 マールは言葉を切った。ハデスは眼で先をつづけるようにうながすと、うなずき再び口を開いた。

「……そしてふたつめの理由ですが……王弟殿下には、王となる資質がございません」

「……」

「何を以って王たる資質かは、今は申し上げません。それは単純ではございませんし、明快でもございません。ですがその地位にある者には、ふさわしき責任と覚悟が必要でございますし、備わっていなければなりません。しかし……王弟殿下には、それがおありになりません……」

「わかっている、私にもわかっている」

 ハデスは首を振った。特に落胆もしなかった。それは彼自身感じていることであった。あの肉人形のごとき実の父を想いうかべて、暗い気分になる。

「父は……愚かな夢をみているのだ」

 ハデスの父とその兄である現王との確執は、すでに王が太子であったころから数十年にわたりつづき、弱まるどころかここ数年は、さらに危険をはらんだものとなっている。

 その原因は先王が兄よりも弟を後継にのぞんでいたと、真偽があきらかでない噂が今でも消えぬ。そして、誰かにけしかけられているのかいないのか知らぬが、王弟は不遜な発言や行動を繰りかえし、王権への不服従を顕にしている。

 ハデスも世の噂を知らぬわけがない。だがあまりにもばかばかしすぎる、つまらぬ裏読みをしすぎた軽薄な話としか思えない。

 父が王になれないのは、ただ単に劣っていたからにすぎない

 父を知るハデスの答えは明瞭であった。

 にもかかわらず、その地位に恋々とするなど、少年から見てさえあまりに愚かしい父の行為である。愚かにもかかわらず、否、愚かであるがゆえに、自身がその地位がふさわしからぬという単純な事実に思いいたらぬ。のみならず現王はその資質もなしに、その地位にある僭称者に見えてしまう。

 まさしく愚かな夢に、頭の先までどっぷりとつかって溺れているとしか思えない。その夢の中でなら、どのような現実の不満でも心地よく癒してくれる。とりまきのお愛想など、見え見えのお追従にすぎないのに。それを本気にする方が信じられない。

 そして現王もまた当然、この思いあがった弟に悪感情を持っている。

 ただの兄弟ならば問題もなかろうが、困ったことに、この両名は一国の王とその弟であった。

「いかにも……」マールが重々しくうなずく。「しかし殿下を支持する者がいるのも、また事実です。どこかにたきつける者がいるのだろうとは思うのですが、事態は最悪です」

「やはり、いくさに?」

 先ほどと同じことを訊ねてしまった。

「十中八、九は、まず間違いなく」

 マールの答えは、今度は明瞭であった。

「そこまで……」

 深い嘆息が出た。

「私もそれに本国のベルンも回避する方策を探ってみますが、少なくとも王弟殿下側が大幅に譲歩しなければ、困難かと……殿下もお覚悟をなされておいてください」

「もし陛下へ剣を向ける羽目になったとき、マール、まさかお前は……」

「私は王弟殿下の臣下でございます。どのような場合でも、その責をはたすつもりでございます」

 マールはかげりのない表情で、おだやかにそう云った。

「マール!」

「しかし殿下は決して陛下に叛かれませぬよう、くれぐれもお忘れくださいますな。そしてこの話は決して口外なさらぬように」

「……マール」

 ハデスは言葉を失った。マールは歳若い主に、年長者の落ち着いた笑みを見せ、つづける。

「ご案じめされるな。何とかこの危難はのりこえてみせます。王弟殿下もものごとの理非はわきまえておられましょう」

 さて……と言葉をつぎ、マールは話題を変えた。

「本日はもうひとつお願いがございます……私がホントを去って後、この者を常におそばにお置きください」

 今までその男が室内にいたことは感じとることができなかったが、その瞬間、途端に男の大きさがきわだって、部屋の中を覆うほどになった。これほどの大きさの男が、今の今まで室内にいたことを感じとることができなかったとは、不思議なことである。

「……何者だ?」

「ネロスと申します。傭兵です。これからの身辺警護を任せました」

「私のか?」ハデスは思わず叫んだ。「そのような必要は……」

「ございます」

 マールの表情はこれまでにないほどに真摯であった。

「こればかりはご承諾くださいませ」

 その一言が、ハデスの抗議を抑えこんだ。ネロスがマールの背後で愉快そうに眉を上げた。ハデスはしばし憮然とマールをにらみつけていたが、やがていやいや口を開いた。

「それほど事態は切迫していると、お前は見るわけか?」

「いかにも。ここは悪鬼の巣穴のようなものでございます。お身をお護りする者が必要です」

「お前が帰国するのはやめられぬのか?」

 不安げに問うが、マールは首を振る。

「できません。状況は複雑です。そのような簡単な問題ではございません」

「……マイルズが不意に帰国することになったのも、関係があるのではないか?先日から姿も見せずに、今日いきなり帰国したと報告がきた。奴はホントにふた月ほど前に着任したばかりだ、妙ではないか」

「……申し上げられません」

 ――この件につきましては、決して殿下へお知らせくださいますな。マール様のご裁量で、なにとぞ収拾されてくださいますよう、お願い申し上げます……

 一包の毒薬を彼のところへ持ちこんだ、あの聡明な瞳の少女の言葉が、マールの脳裏によみがえった。命を賭してマールへ訴えた彼女との約定は護ってやりたいと思うし、護らねばならないと思う。それから先は恫喝、調略、妥協。大人の汚れ仕事だ。

「この者の腕は申し分ございません。殿下の従者とするよう手配をしております」

 ハデスはネロスと呼ばれた男を凝視する。彼には突如紹介されたこの男が、得体の知れないものに思えてしょうがない。口調がきつくなった。

「必要ない。どうしてもと云うなら、大使館内の兵を配属しろ」

「それはできません。今やいつ誰が敵にまわるかわかりません」

「この男なら心配ないと云うのか?傭兵と云ったな。金で雇った者なら、金でころぶ。違うか」

「あたり」ネロスはからかうように笑う。「所詮俺たちは、そんなもんだと思ってもらえば結構」

「マール、このような男はいらん!」

 立ちあがりざま、ハデスは激昂して叫んだ。ネロスは肩をすくめ、普段にはないハデスの憤りぶりにマールは意外そうに眼をむいた。

「殿下、この男は役に立ちます」

「いらんと云ったらいらん、何だこのような無礼者、こんなやつ、信用できるわけない!」

「この件についちゃ、ずいぶんと積まれているんですよ。もらった分の働きはしないと、こちらの信用問題だ」

 黒髪の傭兵がにやにやしつつ云う。

「まぁそのあたりは、信じてもらうしかないですがね。前金がもったいないから、使ってみちゃどうですか? 案外使い勝手はよいかもしれんですよ」

「金、金、金と何てがめつい奴だ」

「ネロス、お主もふざけるのをやめてくれ……」

 マールは苦虫をまとめて噛みつぶしたような表情になった。ハデスは腰に手をやり、頭ひとつはでかいネロスを傲然と見あげる。

「ホントを離れましたら、私は二度と殿下にお眼にかかることができぬかもしれません。どうか私の遺言と思ってお聞きいれください」

 マールは謹厳に云うが、ハデスが腹立たしげに答える。

「ばかを云うな、勝手に死ぬことは赦さぬ」

「殿下には、お身をお護りする者が必要です」

「必要ない」

「いくら王子の身を護っても、毒などもられたらどうしようもないですな」

「ネロス、お主もいらんことを云うな」

「はいはい、マール殿」

「見ろマール、こんな無礼者を我慢して傍に置けと云うつもりか。とにかく私は、お前など信用しない!」

 憤然と叫ぶハデス。なぜかこの傭兵を相手にしていると、いつになくきつい感情がわき出て声を荒げてしまう。どうも気にさわるようだ。

 ……それがイオの王子ハデスと、南の傭兵“疫病神”ネロスとの出逢いであった。


 ホントからレーヴルへ向かう、一番安い乗り合い馬車の荷台に席を買った。屋根もなく座席もない、このあたりの百姓が使っていた荷車を利用したものだ。車を曳く荷馬と手綱をとる老いた御者のくたびれ具合からして、こちらもがたがきたものを流用したもののように思われる。

 レーヴルへもどるのであろう書生や、たくましく陽にやけている子づれの農婦たちとともに、簡単な身の回りの物を詰めこんだ行李の横に自分の身体を押しこんだバインセアは、おだやかな陽気の下、心地よい振動に身をゆだねていた。日よけの笠の下、腰までのびた三つ編みの黒髪が揺れる。

 とうに香都は彼方に遠ざかり、往来の多い街道をまっすぐ西へとすすんでいく。せいせいする。

 懐中はゲイツを脅して巻きあげた結構な金子で、なかなかに温かい。あの伯父貴、しっかりと貯めこんでいた。迷惑をかけられた腹いせにいくらか頂戴してきたが、これぐらいいただいても当然だと思う。文句があるのなら云ってくればよいのだ。いかに土地の領主の好意で留学できるといえ、レーヴルでは何かと物入りであろう。あって損はない。

 普段は歳の若いものしか買えないが、今日ばかりは懐が暖かいので、奮発して三年もののシドラ酒を持ちこんでいる。いつもの調子で呑むと、四半刻ほどで酒甕は空となってしまうが、今日のところは抑え気味に半日ほどかけてちびちびとやっている。やはり高い酒はうまい。よい陽気だ。

 ハデスのことを考える。酒を呑むな、もっと食べないと身体に悪いと、ずいぶん小言を云われた。何てかわいらしい人だったろう。同い歳であったのに、やたらと歳上風を吹かせたがり、そういう見栄坊のところがあった。

 あの少年になぜ身体をゆだねたのか不思議だったが、わからないものがあってもよいと考える。だがもう、二度と会うことはないだろう……と心の中でおだやかに結論づけていた。もうすんだことだ。

 ゆるやかな丘を登っていく。馬車の影が濃い。

 まもなく到着するでのぅ――と、老御者が荷台のバインセアたちに声をかける。一同は前方に眼をむけた。

 バインセアは酒甕をかたむけて、粗末な木の酒盃に最期の一杯をつぐ。黙ったまま眼の高さまで持ちあげた。

 がたりと荷車が揺れた。酒盃の中の酒も揺れ、馥郁たる香りも揺れた。丘の頂上にいたった。眼下の木立越しに、灰色の塔がいくつもそびえていた。

 学院都市――百塔の街レーヴルである。

 焼きしまった屋根瓦が陽光を浴びて、にぶくきらめく。それはまるで陽の光とは別の何物かが輝いているようであった。

 新緑が萌える樹々の波の合間に初めて眼にするそれは、彼女のいる場所からまだはるかに遠く、奥深い全貌の一隅をかすかに姿をのぞかせているばかりであった。

 バインセアは微笑をし、そして静かに酒盃を干した。


(第4話 了)

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