第4話 「バインセアの毒」(中編)
その日の夕刻のことであった。
郷士館の館長室の扉をたたく音にゲイツが応じると、細身の少女が入室した。姪っ子の顔を見た彼は渋面となる。正直、あまり顔を合わせたい相手ではない。ことに、ここふた月ほどは彼自身に後ろ暗いところがあり、まともに対面したくない。
恰幅のよい堂々たるおしだしであるが、ゲイツはただでさえこの聡明な姪っ子が苦手であった。最初にレーヴルへ留学するために香都へやってくると聞いたときは、見たこともないバインセアのことなど、思い上がった世間知らずのこやし臭い田舎娘であろうと、はなからあなどっていた。
だが訪都した彼女の、得体の知れない何もかも見すかしたような冷徹な双眸で見つめられた途端、何やら落ち着かない気分にさせられた。語るに足らぬ者と見すかされていたのは、自分の方ではなかったのだろうか。
妹もとんだ鬼子を産んでくれたものだと腹立たしく思うし、何の因果か自分をこのようなややこしい立場に追いこんだイシュトールの底意地の悪さも恨めしい。そして何よりこの姪っ子が気にさわる。
「何の用だ?」
ことさら不機嫌を装いつつ訊ねる。いや、不機嫌なのは事実だが、半分は虚勢である。
バインセアはかくしから小さな薬包を取り出すと、執務机の上に置いた。ゲイツが鼻白む。
「これはお返しいたします」
「何のつもりだ、そのようなことが、できるはずはないだろうが」ことさら権高に云い放つ。「お前ごときの自由になると思っているのか?お前の希望をかなえるもかなえないも、私の胸先三寸に……」
「先日、レーヴルより正式な入学の許可が届きました」
「何だと」
ゲイツは思わず立ち上がった。
「何を驚かれているのですか、伯父様?」バインセアは冷笑する。「本国ではすでに内諾を得ていたのですから、正式な許可がおりるのは当然のことです。私は元々そのために香都へきたのですよ……何かおかしなことでも?」
「……」
ゲイツは喉の奥に棒を呑んだような表情となった。
「さて、不思議なことでございます。学院には正式な申請は出ていなかったそうです。私の申請を止めていたのは――伯父様でございますね?」
冷笑の裏に名状しがたい硬質の怒り――のようなものがあるのを感じて、彼は四十も歳若い姪っ子にひるみを抱いた。
「これでもう伯父様のお求めに応じる必要はございません。明後日に出立いたします。殿下とのおつき合いも終わりました。もう殿下の動静を報告するつもりもございませんし、これを使うのもお断りいたします」
ゲイツは机上の薬包に一瞬、視線を落としたが、バインセアはちらりとも彼から眼を離さない。
「待て、そんなわけにはいかんぞ」鷹揚に首を振りつつ「これはお前など見当もつかない事柄なのだ。事情を知っているお前を、すんなりと都から去らせると思うのか?へたをすればお前の身にも危難がおよぶかもしれぬ。云われたことを為すしか道はないのだぞ」
姪っ子は好き勝手にこの企てから抜けだせると思っているようだが、あまりにも甘い。渡された薬がどのようなものかよくわからずに、ひるんだのだろう。いくら頭がまわるとはいえ、まだ十五歳。まったく女子は度しがたいものだ。軽々に騒ぎたてられて、妙な火の粉をかぶるような破目になってはかなわない。彼女の懸念をとりのぞくために、中身ぐらいは教えてもよかろうと思った。
「お前に渡した薬は軽い発熱と胃を弱らせる程度のものだ。それも量はほんの少し。大事になるわけがない。殿下はご不快ということになり、本国へ帰される。ただそれだけだ。お前が心配するようなことはない」
くすんだ色合いの薬包を、バインセアのしなやかな指がつまみ上げる。冷酷な愉悦が紅唇にうかぶ。
「これはケイシでございます。少量で臓腑を腐敗させ、一年以上かけてゆるやかに人を衰弱死にいたらしめます。それも、この半分ほどの量で充分でございます。それで大事ないと申されますか?」
「まさか!」思わず眼をむいた。「そんなはずは、確かに……」
「誰がおっしゃったのですか?」
「そ……そのようなことは云えぬ!」
うろたえたように激しく云い放つ。
「ならば私は伯父上様からお預かりしたこれを持って、大使館へでもまいります」
「はは……そのような真似をしても無駄だぞ、誰がお前のような小娘の話を聞くものか」
驚愕は去らないが、余裕をみせつつ笑い飛ばしたつもりである。
「なるほど……大使館の方のようですね、それもそれなりの。伯父様がそうおっしゃるのでしたら、ためしてみましょうか?」
「よせ、そんなことをすれば、お前も私も身の破滅だぞ……」
ゲイツはぞっとした。この件はそんなに甘いものではないのだ。わかっているのだろうか?彼女の強気は世間知らずゆえの思いあがりとしか思えない。急に不安が押しよせた。
「私を巻きこんだのは、伯父様でございましょう?」
「やむにやまれぬ事情があったのだ」
「殿下を殺めようなどと世間に知れたら、どのようなことになりますか?私のような小娘まで巻きこんで、大の大人が何とみっともない」
部屋の中を、重たい風が吹きぬけていくような一言だった。
「わ……私だって好きでやったわけではないのだ……」
ゲイツは口ごもり、バインセアはそんな彼を冷ややかに見据えている
「存じあげております。まったく大変なことでございます」
「だったら、云うとおりに……せぬか……!」
「おことわりいたします」
「ふざけるな!」思わず机を叩く。「そもそもお前が殿下と情など交わさねば、このような事態にならなかったのだぞ、誰のせいだと思っているのだ!」
「理不尽なことでございます。私が誰と情を交わそうと、その方を殺めるように伯父様から強いられる筋合いはございません」
ゲイツの云い分は責任転嫁もよいところであるから、バインセアの言葉はまったくもって的を得ている。
「殿下の死に対して、伯父様が責任を負えますか?私が考えますに、この件が明るみに出た場合、ひとり罪をかぶらされるのは伯父様だと思いますよ。命じた者など知らぬふりでございましょう」
ゲイツは不機嫌にうめく。バインセアは静かに一歩前に出た。その分、ゲイツの気持ちが後退する。
「なぜ殿下のお命が狙われねばならないのですか?」
「私にはわからん、まるでわからんのだ……」苦々しげに首を振る。「本国でどのような動きがあるのかなど、いくら神経を尖らせていてもホントまで充分には伝わってはこないのだ」
イオとホントとは、便のよい街道を使っても行き来にふた月はかかる。もどかしいのは彼もまた同様であろう。彼は彼なりに苦悩もしている。できることならば、このようなうさんくさいことに首など突っこみたくはないというのが本音であろう。
「伯父様にこのような真似を強要した方の名前をおっしゃってください」
ゲイツの顔色が変わる。
「バインセア、よく考えろ。子どものお前にはまだよくわからんかもしれないが、これはそのように簡単な問題ではないのだ。お前も王家がふたつに割れていることぐらいは耳にしていよう?その暗闘の端々が、このような場所にまで及んでいるのだぞ」
「知りませんよ、そのような愚かしいこと」バインセアは興味なさそうに、口角から泡をとばす伯父の顔を凝視する。「……名前をおっしゃってください」
押しつぶされるような圧力をゲイツは感じた。何度か冷酷にうながされ、長い躊躇の後、ようやく渋々その名を口にした。
「……書記官の……マイルズ様だ……」
「ふた月前に着任してきた方ですね。明らかに王派のお方です」
「……なぜそのようなことまで知っている?」
「私が半年もの間、ただ座して待っていただけだとお思いですか?人の話を聞くだけでもいろいろなことが耳に入るのです。何でしたら大使館の下働きの方、ご家族全員まで含めて名前をお教えてさしあげましょうか」
「う……」
「なるほど、着いて早々に伯父様にお命じになったのですか。となると、そのために遣わされた可能性が高い。つまり、本国では殿下と私との関係を、把握された方がいるようですね」
バインセアはむしろ興味深そうに唇に指をあてる。自身のことであるのに、まるで他人事のようだった。
「伯父様ですね、その情報を流したのは?」
「……私はこの郷士館の責任者だ。殿下のような地位のあるお方が、お前のような下賤な者と関係を持ったとあらば、お知らせせねばならぬ」
ゲイツは身体の重さをもてあましたかのように、力なく椅子に腰をおろした。あきらめたように嘆息し、下唇が細かく震えていた。
「誰にですか?大使ですか?」
「……そうだ」
「それで私を使って、殿下を害そうと考えられたわけですね。大使やマイルズ様と――その後ろにひかえている方々は」
うっすらと笑う。気力を失ったゲイツは、そら恐ろしいものを見るように、姪っ子の表情から眼を離せなかった。
「大使館のお偉方から命じられたら、拒むことなどできないのだ。拒めば、この郷士館やカスバルの者たちが、どのような仕打ちをうけるかわからんのだぞ。察せろ」
「お察しいたします。伯父様のご心労は並々ならぬものでしょう」
「私をばかにしているのか」
「とんでもない。ですがご政道の話など、私には何の興味もございません。巻きこまれるのは迷惑なだけです」
そう云うと、机の上に再び薬包を置く。ゲイツは不吉なものを見るように、手を出そうとしなかった。一息に十も老けこんだようであった。
ゲイツは、陰々と自分に弁明をするように言葉をつづける。
「私たちのように、吹けば飛ぶような立場の者にとって迷惑千万だが、黙って巻きこまれるわけにはいかん。どのような手段を使ってでも、うまく立ちまわらねばならぬのだ……殿下おひとりのことで、すべては丸くおさまる……」
不意に言葉を切った。これまでの冷ややかさとはまるで異質な姪っ子の視線が、彼の心を凍てつかせたのだった。
「本気でおっしゃっているのですか、伯父様?」
「あ……いや……いやいやいや、忘れろ……」
顔中に冷たい汗をはりつかせて、しどろもどろに弁解をすると頭を抱えた。バインセアはそのような伯父の態度を、うんざりと見おろした。
居心地の悪い沈黙が、ふたりの間に流れる。春の夕陽が斜めにさしこみ、街の喧騒がかすかに届く。ゲイツはその沈黙に耐えかねて、弱々しく頭を上げた。
「……どうするつもりだ。何にせよ手は引けぬぞ」
「伯父様の性格ならば、言質をとられるような不要な確約はされてはおらぬのでしょう?私には詳細は話していないとか、機会がなく渡せていないとでも云って、いざという時はどちらに対してでもどのようにでも云い逃れができるように」
「……う、うむ」
ゲイツの歯切れは悪い。どうやら彼の性格は姪っ子に見すかされているようである。しかし彼の立場もわかる。命ぜられたはよいが、そのような重要事に一方的に与するのもためらわれたのであろう。
「ならば私がレーヴルへの入学の許可を勝手にとって、去ったということにすればよろしいでしょう。毒は伯父様に返しますので、向こうも後ろ暗いところがあるから、不用意にことを荒げるような真似もできないでしょう。大使館も王派の者ばかりではございません」
レーヴルに入れば、いかにイオの争いごととはいえ、確かに不用意に手を出すことはできないであろう。
「しかしそのような子どものような言い訳で、マイルズ様が納得するはずもなかろう……」
「納得されないではなく、納得させねばなりません。もしできなければ、それこそ伯父様も私も身の破滅でございます。私をこのようなことに巻きこんだのは伯父様でございますよ。少しは責任を感じていただかねば、私の腹もおさまりません」
「む……」
「それしか方策はございません。私はもう殿下を害することはいたしませんよ。どうします?まさか力ずくで云うことをきかせるつもりですか?それとも伯父様が一服もりますか?」
「むぅ……」
渋面をますます苦くしながら、ゲイツは椅子に深く沈みこんだ。バインセアが加担しないと云う以上、手立てはない。被害者面をしているが、腹の中ではどのように立ち回るのが一番割りを喰わないのか、必死で計算をしている。
せいぜいお悩みあそばせ――とバインセオは考える。
レーヴルへの申請を盾に、毒をもるように無理強いをし、ハデスとの関係を汚した。なかんずく入学を遅らせて、自分の時間を無駄に費やさせたのは赦せることではない。両の手指を落としても、釣りあうものではない。
よい気味だ。伯父が悩もうが迷おうが、彼女にはそのようなこと、まったくもって知ったことではないのだ。
予定どおり姪っ子がレーヴルへと発った日の午後、ゲイツの館長室はまたもや不意の来訪者を招き入れることなった。それまで机上の薬包を災厄の元凶のように凝視していたゲイツは、慌てて引き出しにしまいこんだ。
マイルズにはまだバインセアの出立は知らせていない。彼女がレーヴルへ到達するのに充分なように、翌朝知らせるように打ち合わせていたが、彼はもっと遅くてもよいのではないかとも考えている。決断がつかない。要するに怖いのだ。結論は先送りにしたいのだ。
いっそ彼女をマイルズへ引き渡そうかとも考えたが、さすがにそれはためらわれた。やはりここは、バインセアが云ったとおり、ことの重要さを理解していない彼女が勝手にいなくなったということで、押しとおすしかあるまい。
その分、世間知らずの小娘はまるでわけがわかっていないと、頓挫が何でもないことのように誘導する。できればこのようなことからは手を引きたいし、へたに安易なことを云えば、引きつづいて付き合わされる破目になる。そのさじ加減がむずかしい。
マイルズも怪しむだろうが、確証もなしに十五の小娘に危害を加えるような大人気ない真似もしまいと信じたい。だからもう少しだけ、彼女に泥をかぶってもらおう。
それにレーヴルの院生に手を出すことは、ちょっと面倒なことになる。そのあたりは、本国の本気の度合いによるだろうが、あきらめてくれるのが一番だが……
まったく胃が痛くなる想いだった。
入室してきたのは大使館の武官の筆頭を務めるマールであった。鈍重そうな相貌であるが、大使館では大使と公使につぐ重役である。
「近日中に本国へ帰還することとなってな、本日は館長殿に別離の挨拶にまいった」
一礼をするゲイツに重々しくマールは云う。
「左様でございますか」
答えるゲイツは腹の中でいぶかしんだ。堅苦しくつけ入る隙のないうるさ型の彼のことは、苦手であったし、わざわざ先方からおもむいてくれるほどには親密ではない。むしろこちらの方が他の郷士館の代表たちとはからって、しかるべき席を設けようと打診したが、急な帰国とのことでやんわりと断られたぐらいだ
「それとついでと云っては何だが、少々見てもらいたいものがあってな」
そう云いつつ、マールはかくしから何かを取り出した。先日のバインセオといい、昨今の訪問者はみな同じようなことをする。
マールが机の上に置いたのは、小さな薬包であった。
息が止まった。それは彼がバインセオに渡し、再び手許にもどり、ついさっきまで眼前にあったはずのものだった。
めまいがし、部屋全体が一瞬ゆがんで、床へ吸いこまれるかと思った。
「……なるほど、まさかとは思ったが、やはり知っていたようだな」
ゲイツの様子を凝視したマールが、確信したようにうなずいた。ゲイツは恐怖にゆがんだ表情で、呆然とマールを見上げた。
驚愕したゲイツに、マールは彼に薬包を渡し、公子ハデスに呑ませるように指示をしたマイルズが、捕縛されたことを告げた。血の気が引いた……
およそ半刻後、マールが退室すると、ゲイツは血相を変えて執務机の引き出しを開ける。先刻から確認をしたくてたまらなかった薬包は、当たり前のようにそこにある。震える指で開封する。中にはほのかに茶色い細かい粉末。小指の先をなめて、ほんの少しの粉末をつけると、おそるおそる舌先に乗せた。
顔が引きつった。ケイシならば無味無臭ということぐらいは、彼も知っている。だから古来より、使われつづけてきた。
だがこれは……ほのかに甘い……?おそらく甘藷の粉か……?
椅子にへなへなと座りこんでいた。
「バインセア……あの性悪の小娘……はは、やりやがった……この俺を売って、自分だけさっさと逃げだしやがった……」
口からは力のない笑いが出るばかりである。
この件については、マイルズが本国へ送還されることでけりがつき、結局表沙汰にはならないらしい。関係者もおおむね不問にふされるようだ。ゲイツにはあずかり知れぬ政治力学が働いたのであろうか?とにかく下手をしたら、彼もまたハデス毒殺の罪をかぶる羽目になっていたのかもしれない。
――告発した者が見当はずれなことをしていたら、今ごろはお主の頸も危なかったぞ――退室まぎわのマールの言葉であった。
力なく椅子に沈みこんだゲイツであったが、胆の冷えた反面、むしろこれであのようなやっかいごとに関わりあわずにすむと、重荷を下ろした気分にもなっていた。
郷土館の歳費をちょろまかす程度が関の山の、欲深ではあるが小心なゲイツであったが、保身については、とことんしぶといのである。
(つづく)
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