第1話 「禿頭公子の冒濫」(6)
東宮の厩舎で馬の轡をとって待っていたドーレは、ナボコフが宮から出てくるのをみとめた。
「殿下は?」
「まもなくおいでになる」
「そうですか」
うなずいたドーレの表情はさえない。ナボコフがもう一頭の手綱をとると、馬の反対側から訊ねる。
「どうした、気がのらぬか?」
ドーレは首を振りつつ、轡を持つ手を入れ替える。
「ところでナボコフ殿、そのような軽装でよろしいのですか?」
「あぁ、我々は殿下とは別行動だ」
「――え?」
視界の端に鞭を振りかざしたナボコフをとらえたと思った次の瞬間、ドーレは後頭部に激しい衝撃を受けた。崩れ落ちるドーレの視界の端を、ナボコフの何とも云えない表情がかすめ、そして意識が途切れた。
春の気配が匂いだした候、カイネウス公バトゥはオルニア近郊の早春宮に四、五日の避寒におもむくのが常であった。
本貫地オルニアから四フリートほどの距離にあり、積雪の時期でも馬車で半日もあれば行き着くにもかかわらず、丘ひとつを越えたこの離宮は、地勢であろうか、うって変わって温暖な気候である。
その日は近日来の好天であった。雪も風もほとんどなく、空は明朗に冴え、時折生まれたての赤子のようなささやかな風巻がおこって積もった雪をわずかに乱すと、それは陽の光に反射して白銀の野をどこまでも清澄にする。
早春宮の縄張りは土豪の館ほどの規模であり、門も正面にひとつしつらえられているだけである。昨夜、公が入居して以来、さほど人の出入りはないらしく、正門前の積雪はほとんどまっさらのままであった。それが一層静けさを強めている。
ダゴンに率いられた三十名に満たないサダナの一団が、内通者の手により宮に押しこんだのは、日暮れに近いころあいであった。
一度に数百の兵を馬揃えできそうな広大な前庭の先に、回廊がめぐらされた正殿があった。見渡すかぎり人の気配はなく、白雪に染め上げられた宮内は、たった今叛心を抱いた男たちの侵入を許したとはとても信じられないほどに、静謐そのものであった。
堂々たる厚い正殿の扉が、きしみつつ音をたてておし開かれた。早春宮にもまた、謁見のための広間がある。本宮ほどではないにせよ、二百名ほどはゆうに入ろうかと思われる広間は、四周は紗幕で覆われ、左右には桟敷がしつらえられていた。
一段高い正面の主座に、バトゥが座している。
灯りもなく、天井近くの窓からそそぎこむ淡い光で、広間内は薄明に覆われており、公の表情は、はきとはわからぬ。その傍らには、数名の従者や衛兵たちが伺候していた。
室内でも取り回しのきく柄の短い戦斧を手にした一団は、正面の公たちに対して横広に展開をする。ダゴンが無言のまま歩を進めた。サダナらがそれにつづき、武装した一団がじわりと主座の公へと肉薄する。
広間の中ほどで、ダゴンは立ちどまる。父との距離は二十歩ほども離れていない。ようやく公の顔がはっきりと見えるようになった。
「これはダゴン殿下」アイマスがダゴンの一団を段上から見下ろしつつ、慇懃無礼に問いかける。「殿下は確か錬兵中ではございませんでしたか?そのような物々しい者どもを引きつれて、本日はどのような用向きでございましょうか?」
「カイネウス公に少々話しがあってな。案ずるな、すぐにすむ」
「はて……」アイマスがひどくいやらしい笑みを浮かべた。「解せませんな。いかに殿下とは云え、公への礼を欠いておりますぞ。まずはその者どもの腰のものをお預かりいたしましょう」
いやな奴ですな……とサダナがひとりごちた。ゆらりと、広間内の薄明がかすかに揺らいだようであった。
ダゴンは公を見やる。バトゥは鉄のような眼で公子を見下ろしていた。従者も不安そうな表情を浮かべていたが、取り乱す様子はない。アイマスの隣に立つ半白の口髭の騎士のみが、うんざりした顔をしていた。
「預けてもよいが、少々人数が足らぬようだな」
「ご心配にはおよびません――出よ」
それを合図に、四周の紗幕や主座の背後の控え室から武装した兵士が飛びだし、公の周囲を固め、遠巻きにダゴンたちの一団に刃を突きつけた。その数は三十名はいるであろう。さらには桟敷に潜んでいた弓兵が一斉に立ちあがり、上からダゴンらを的に矢をつがえた。
サダナの兵らに、動揺がさざ波のように広がるが「うろたえるな、動かずにいろ」と、焦燥もみせずに云い放ったダゴンのひとことに、彼らは顔を見合わせつつも沈着する。
アイマスの端正な顔には、抑えきれない喜びが満ちていた。
「殿下、お腰のものをお預かりいたしますぞ。さぁお供の方々もご遠慮なさらずに」
「大仰なことだな」
ダゴンはそのようなアイマスに侮蔑の眼を向け、つまらなそうに鼻で笑う。
「敗け惜しみも大概にされてはいかがですかな?殿下の叛意はこれで明らかでございます。もはや云い逃れはできませんぞ。お身柄は拘束させていただきます」
「カイネウス公ともあろう者が、紗幕の裏に隠した兵士がおらぬと、実の息子と体面もできぬとはな」
ダゴンはそう云うと、手にした剣の鐺を激しく石造りの床に突きたてた。広間に鋭い金属音が響きわたり、アイマスが鼻白む。
「ダゴンよ」主座の公が、初めて口を開いた。「お主がここへ参った訳は、おおよそ察しておる。お主と語らえるのも、おそらくこたびが最後であろう。今さら互いの腹を隠しあってもしかたあるまい」
「無論でございます、公よ」
公子は冷たく云い放つ。
「はは……」バトゥはどこか疲れたように笑う。「お主は話が早くてよい。不思議なものだな、お主とはこのような形でしか腹を割って話ができぬようになってしまっている」
「あまり健全な形とは、云えないようですな」
「なるほど、確かにな……」脇台の酒盃に酒を満たすと、口をつける。「時にお主――ドランのことは何とみる?」
「弟として?それとも陛下の後継者ととして、どうと?」
「後継者としてだ」
「優柔不断ですな。決断を先延ばしにするのは悪い癖です」明快に応える。「後継とされるのは、およしになったがよろしいでしょう」
「手厳しいな、お主の弟であろう」
「肉親ゆえの、衷心からの忠告にございます」
「残念ながら、その忠告にはそえそうにないな」
「まことに残念でございます」
「なぜ諸侯への調略をおこなわなかった?」
「何かと思えば……秘密を共有する者が多いほど漏洩する恐れが大きいと、わかっておいでのはずです」
「解せぬな」眉をひそめる。公の指が、脇台で規則的な音をたてた。「それにしても程度と云うものがあろう」
「このようなことは、この程度の人数で充分でございます」ダゴンはこともなげに云い放つ。「衆を頼むほどのこともありません」
「その思いあがりがこの結果だ、わからぬのか、お主の計画はすべて余に筒ぬけになっていたのだぞ」
バトゥの言葉に苛立ちがあった。広間は公と公子のやりとりが響くのみである。
「今ひとつ、訊きたい」
「何でしょう」
「なぜ、このような真似をする?」
「私は自分の身を護ったまでのこと。オルニアには私を害しようとする者がいるようですので」
「黙れ」ダゴンの強烈な当てこすりに公が不興気に、そして初めて怒りをあらわにした。「おとなしく、ひたすら身を潜めておれば、自然にカイネウスはお主のものとなっていたであろう。少しでも余の不興を買わぬよう、器用に立ち回ることもできたであろうに。お主が立場に見合った身の処し方をしておれば、余もこのような真似をせずにすんだのだ。結局は……お主の野心だ。それがすべてを駄目にした」
「そのつもりもないくせに、この期におよんで奇麗事を口にされるか?私の命を狙ったお方の言葉とは思えませぬ。私の責と云われるのは、ちと心外ですな」
おだやかではあったが、ダゴンのその言葉には、抑えきれていない熱があった。
「あいわかった……幽閉の場で、おのれの愚かさを噛みしめるがよい」
段上から公子を見下ろすバトゥの眼には、すでに数瞬前までの剥きだしの怒りはなく、しかし安堵も喜びもなく、むしろ懈怠に似た光があった。
ダゴンは物憂げに首を振ると、しかと公を見すえ、言葉静かに語りかけた。
「――カイネウス公よ、冬は終わりだ。まもなく春が参りますぞ」
不審に眉をひそめたバトゥ公の顔に、一瞬猜疑が走りぬけた。規則的に刻まれていた指が止まる。
「アイマス!」
傍らの将軍に命じる。
「殿下、剣をお捨てください」
「バルドール!」
その名を口にしたのは、公でもなければアイマスでもなく、禿頭の公子であった。
アイマスが隣の口髭の騎士――バルドールを振りかえると、腕が挙がり、そしてその人差し指はダゴンではなくその父ににまっすぐに向けられた。弓兵たちの顔に驚愕がはしった。
すべての感情をこそぎ落とした仮面のような顔のその口が動き、静かに言葉が発せられた。
「公を狙え」
広間全体が、呪縛がかけられたようであった。誰もが耳を疑った。当事者である弓兵たち自身ですら、たじろぎ、身をこわばらせた。
「何をしておる!」バルドールが叫ぶ。「私が命じた者は、たとえ誰であろうと躊躇なく狙えと、きつく申し伝えていたぞ!」
桟敷の弓兵たちに動揺がはしったが、それでもわずかな逡巡の後に、彼らの鏃は戸惑いつつためらいつつも恐る恐るバトゥに向けられた。
「公よ、動かれてはなりませぬ。抵抗されるのでしたら容赦なく――」
「貴様っ!」
衛兵のひとりが叫んで剣を抜いたその瞬間――
「動いたぞ」
バルドールの低い一言に、幾本かの矢が弦音をたてて放たれ、衛兵の身体に無慈悲に射ちこまれた。衛兵の身体がどぅと床に倒れ伏す。一本は横から喉を貫通しており、死にきれず血を吐きながら声にならない苦鳴にもがく。
酒盃が床に落ちる音がした。主座から立ち上がったバトゥは、そのことにすら気がついていないかのようだった。身じろぎもせず、うろたえてもおらず、狼狽もしていない。しかし段上からダゴンを睥睨するその顔面はこわばり、血の気が引き、むしろ浅黒い肌の色が目立つほどであった。
「殿下に刃を向けている者も壁際まで下がれ。一度に射かけられたら、防ぐ手立てはないぞ。陛下のお命を危険にさらしたいのか?」
「バルドール!貴様、何をやっているのかわかっておるのかっ!」
剣の柄に手を伸ばしたアイマスを、バンドールが手にした剣の鞘で押しとどめる。
「あまり騒がない方がよろしいですぞ。抵抗されるのなら、お相手をいたします」
「貴様……」怒りのあまり、アイマスの顔は蒼白となっている。「公に叛くのか。貴様の一族郎党、ひとりのこらず粛清してくれるわ――何をしている!怯むな、ただの脅しだ。公をお護りするのだ、盾となれ!早く殿下に縄を打て!」
「――動くな!」
大喝。
その言葉はこれまでとは何も変わらぬように思える。しかしそのたった一言に圧縮された重量に、誰もが身を震わせ、突如、剣林の中にあるダゴンの身体が、見上げるほど巨大な魔神に変貌したかのような錯覚が、その場にいる者たちを襲った。
「半歩でも動かば、微塵たりとも容赦はせぬ」
そう云うと、ダゴンはむしろ緩慢な動作で前に出た。その名のとおり、得体の知れない巨大な海魔が、ゆらりと身じろぎをしたかのようであった。遠巻きに剣を向けていた兵らに動揺とざわめきがはしり、公子が前に出た分だけ、包囲の輪がわずかに後退る。
「殿下!お静まりください!軽挙は――」
「一同、剣を捨てよ。それしか生きのこる道はないぞ」
その一言は、むしろおだやかであった。しかしそれは、叫ぶアイマスを圧し、何か名状しがたい重く深い力を持っていた。
今や広間はダゴンの存在に支配されていた。広間の隅々にいたるまで、ダゴンの発する力が覆いつくしている。アイマスや公の衛兵は無論のこと、バルドールやサダナ、その手勢にいたるまで、誰もが息をのみ、ダゴンの一挙手一投足から眼を離せないでいた。
異形の禿頭公子の炯々とねめつける眼光は、冷厳な灼熱を放出していた。その眼光を真正面から受けとめられる者はいなかった。
息づまるざわめきの中、やがて――からんと兵士の一団の中で、ためらいがちな金属音がした。剣が石の床に投げ捨てられる音が。つづいて一本、また一本と、さざなみが広がるように、失われた戦意が次々と武器を放棄する。
武器を投げ捨てる衛兵らには、もはや何の関心も失ったかのようにダゴンが歩をすすめる。その先には段上の公がいた。サダナがあわてて従う。わずか三段ほどを躊躇せずに上がると、アイマスをはじめ衛兵らは我知らず後退っていた。
ダゴンとバトゥの瞳が、ほんの数歩近づけば手が届くほどの、しかし永劫の距離を隔てて、互いを映していた。父を見上げた公子は無表情であり、むしろ無関心のように見えた。一方、公もまたこの世に存在するはずのないものを眼にしたような表情であった。
息がつまるような空恐ろしい長い長い対峙の後、公子は公から視線を逸らしもせず、静かに口を開く。
「アイマスよ、もはやことは決した。私に従え」
「殿下……一体、なぜバルドールが……」
呆然とアイマスが公に視線を向けた瞬間、背に冷たいものがはしった。何かがこそげ落ちてしまったような主君の顔であった。そのような公の顔を、今まで彼は見たことがなかった。
「父に殉じてみるのも悪くはないか」
ダゴンの言葉が、背骨に染みこんできたような畏怖を覚え、ほとんど反射的にアイマスは片膝をついていた。
「……殿下の……お心のままに」
呆然とうつろに言葉を吐くその首筋に当てられた臣従の証の公子の剣の鞘に、必要以上の圧力を感じたのはアイマスの錯覚であろうか?うつむいた顔に、一瞬で冷たい脂汗が噴きだしていた。
「アイマス、お主には娘と息子がいたな。後宮に手が足りぬゆえ、預けてもらえぬか?」
「……は?し、しかしふたりもまだ十にもなっては……」
人質……と、うつむいたまま、アイマスは口中で愕然とつぶやいていた。
アイマスを冷然と見下ろしつつ、ダゴンはつづける。
「今のうちから慣れておけばよい。わかったな」
自分の膝をついた脚元が不意に歪み、奈落へ引きこまれるような感覚に襲われ、アイマスはかろうじてうなずくことができた。自分の首根っこが強烈な力で押さえこまれたのを自覚した。なぜこのような事態になったのか、まるで理解できなかったが、自分が確実に危うい立場にいることははっきりと認識でき、深い絶望と敗北感が身を焦がした。
公子は再度父を見あげる。不思議なことに、もはやバトゥはまるで空気になってしまったかのように、ともすればそこにいたことすら忘れられてしまいそうなほど存在を失っていた。
父と子はともに似通ったたくましい体躯であるにも関わらず、今や誰の眼にも公子が公を圧するかのように、はるかに巨大に見えるのであった。
「サダナ」公から眼を離さずに「公はお疲れのご様子だ。別室にお連れしてさしあげろ。くれぐれも失礼のないようにな、くれぐれも」
「は――」
サダナが答える。その時、自分が掌いっぱいに生ぬるい脂汗をかいていたことに彼は初めて気がつき、再度冷たい汗が背に流れるのを感じた。
「予定通り、城へ使者を出せ。公印はすべて押さえろ。宮内の者はのこらずこの広間に軟禁しろ」
「御意」
ダゴンが矢継ぎ早に指示を出すと、固まっていた広間の時間が急に動きだした。
サダナの兵士がバトゥ公を両脇から支えるように、別室へ誘う。バルドールはその様を見ようとはせず、アイマスもまた跪き、顔を上げようとはしなかった。
バルドールの造反のその瞬間から、ついに父と子はただの一言たりとも言葉を交わしていない。
ダゴンはもう父を見ていなかった。空っぽの主座を興味なさそうに、半ば侮蔑するかのように見おろしていた。その表情はサダナにしかみとめることはできなかった。だからつぶやくようなその独白も、彼しか耳にしていない。
「もっと気分のよいものだと思っていたが、存外つまらぬものだな」
吐き棄てるようにそう云うと、公子がゆっくりと振り返る。広間内の一同は、はっと顔色を変えた。
そこには――段上から一同を睥睨する怪物のような禿頭の王がおり、誰もが我知らず膝をつき深々と頭を垂れていた。
(つづく)
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