すわりたい!

秋月とわ

第1話

 朝のラッシュアワー。会社や学校にいく人たちで電車内はごった返している。電車が駅に到着するたび人の波が吐き出され、そして押し寄せる。乗るのにも一苦労なこの時間帯だ。座席になんて座れるわけがない。

 今、僕が乗っている車両も結構な混雑ぶりだ。もちろん座席の空きなんてものはない。仕方ないからいつもと同じようにつり革に掴まっていた。肩が隣の客と触れ合って気持ち悪いし、背中には後ろの客のカバンがさっきからツンツンと当たっていてイライラする。毎朝思うことだけど、こんな状態では目的地に着くまで疲れてしまう。

 しかし今日の僕はついているみたいだ。

 それは目の前に座る乗客が読んでいた文庫本をカバンにしまい始めたからだ。今までの経験上、こうした行動をする客は大体、次の駅で降りる。

 僕の予想は的中した。駅に電車が到着すると目の前の客は立ち上がり、降りていった。

 後には空いた席が一つ。くすんだ灰色のシートが今や玉座よりも輝いて見える。

 さあ、早速座ろうか。足を一歩踏み出そうとしたとき、なんとも言えない気配を感じた。とっさに振り返ると右側隣に立っていたスーツ姿のおっさんと目があった。彼はすぐに視線を逸らすと空いた座席をじっと見つめている。

 なんだ? このおっさんもしかして座りたいのか?

 しかし、空いた座席は僕の目の前だ。この争奪戦、自然な流れとしては、正面に立つ僕が座るのが当たり前だ。斜め前にあたる場所にいるおっさんの順番はその次のはずだ。だか、ここで座ると感じが悪いかもしれない。ただでさえストレスが溜まる車内だ。些細なことでトラブルになりかねない。

 僕だって朝からこんなおっさんと喧嘩するのは嫌だ。ここは上手くタイミングを見計らねばいけない。

 もう一度隣に目線を送った。おっさんもこちらを横目でチラチラと見てくる。

 座るのか、座らないのかどっちなんだ。

 何度かおっさんと目線を交わしたが向こうに動きはない。じゃあ、僕が座るということでいいだろう。そもそも僕が座るのが空気の読んだ正しい行動のはず。

 すまないが他の席を探したまえ、そう心の中で呟きながら足を動かした。その時、僕は見てしまった。おっさんが右手に持つ黒いものを。

 それは細長い棒状のもので本体のほとんどを黒色のビニールで覆われていた。

 あれは……傘? 雨も降ってないのに? いや、あの棒に対して垂直に伸びる持ち手は傘じゃない。あの棒は杖だ。

 おっさんは僕と反対側の手で杖を持っていた。杖にしては本体が少し太いような気がするが、あの握りやすそうな持ち手は絶対に杖に違いない。

 もしかしておっさんは足が不自由なのか? それなら優先順位は断然トップじゃないか。口惜しいがここは譲ろう。倫理に背いてまで座りたくなんかない。

 おっさんより体を後ろにずらして、空席までの道を作ってやった。

 それなのにおっさんはまんじりとも動かない。

 なぜだ。なぜ座ろうとしない。もしかして遠慮しているのか? そんなこと気にするな。さあ、早く座るんだ、おっさん!

 僕の心の叫びはおっさんには伝わらない。

 席が空いてどれくらいの時間がたっただろう。車内に次の停車駅を告げるアナウンスが流れた。

 グズグスしていられない。次の駅に着けば事情の知らない客が座ってしまうかもしれない。

 ここは声をかけるべきかな……。でも断られたら恥ずかしいうえに、この席に座りにくい空気になるじゃないか。

 電車のスピードがだんだんと落ちていく。駅はもうすぐだ。ああ、迷っている暇はない!

「あの!」

「は、はい?」

 突然話しかけられたおっさんはびっくりした顔をしていた。

「席、座りますか?」

「あ、大丈夫ですよ」

 僕はおっさんの杖を指差した。

「でも、杖を持っていらっしゃいますし……」

 するとおっさんは「ああ、これですか」と杖に視線を移した。

「これ、杖じゃなくて傘なんですよ。ステッキ傘っていう代物みたいで。出掛けに『今日雨降るから』って妻に渡されたんです。だからお気になさらず」

 えっ……。何それ。ステッキ傘なんて初めて聞いたんだけど……。じゃあ、この人は単に傘を持ってただけのおっさん?

 僕は深読みのし過ぎで無駄に一駅間も立っていたのか……?

 全身の力が抜けると同時に電車はホームに滑り込んだ。ドアが開くチャイム音が鳴るとともに人の波がざわざわと動きだした。

「私はこの駅で降りるので」

 おっさんは会釈をすると人の波へ消えていってしまった。僕は呆然とおっさんが消えていった人混みをただ見つめていた。

 まあ、いいか。僕が降りる駅までもう少しある。今度は大手を振って座れるじゃないか。そうだ、ポジティブに考えよう。


「にいちゃん、ちょっとそこどいて!」


 すると、不意に女性の声が聞こえた。そして急に体を横に押し退けられた。何事かと見ると恰幅のいいおばさんが僕の横を通り抜けようとしているところだった。おばさんは無理矢理隙間をこじ開けると、目の前の席に収まってしまった。

 ああ、僕の席が……。

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