019 壊死


「ウソ、だろ……?」


 黒い氷雪の終焉が過ぎ去り、そして白夜が明けて目に映ったのは。


「——ねえ、ターチスお姉様。これがあなたを狂おしい程に愛おしく想う、ルメの力なんですよぉ」


 陥没した大穴の中心で、ルメリアが両手でターチスの首を掴んで持ち上げていた。

 ぎちぎちと指を喰い込ませるルメリアに対して、ターチスは気を失ったまま返事をしない。


 構わず、ルメリアは熱を孕んだねっとりとした声音で続ける。


「魔剣採集なんて御役目、放り出して帰ってきて下さいよ……ルメは寂しくて寂しくて今にも全てを凍らせて終わらせようとしていました。でも、三日間も耐えたんです。もうご褒美があってもいいと思うんですが、どうでしょう?」


 首を絞める片方の手をターチスの唇に這わせ、親指をねじ込んで恍惚な表情になるルメリア。

 

あの狂愛者が、次に何をするか分かったものではない。永絆は思わずルメリアの名を叫んで駆け出しそうになり、


「邪魔をしたら、今度こそ殺す」


「……っ!?」


 その一言を聞いた途端、両脚が全く言うことを利かなくなった。一瞬、彼女の剣霊術による影響を疑ったが、どこにもそんな気配はない。


 であれば、これは気迫によるものだ。または一片の曇りもない、明確が過ぎる殺意。目線の一つもこちらに寄越さないでも、それを飛ばされたら最後、確固たる意志を持っていなければあっという間に凍らされて壊死させられていただろう。


「ああ、ああああ、ああああああああっ!! もう我慢できません、ターチスお姉様!! ……食べてしまって、いいですよね!? 喰的にも性的にもルメ的にも、ゆっくりとじっくりと味わって、味わい尽くしてお姉様と一体化して良いですよね? これはご褒美。これは定め。これは摂理ッ! ルメがルメであるが故に齎され、赦され、強いられる、絶対的な行為なんですからッ!!」


 唇に這わしていた片手を天に掲げ、奇怪な文言を叫ぶルメリア。そして、彼女は行動に移った。

 

 天に掲げた手でターチスの膝を支え、もう片方の首を絞めていた手で背中を持ち、お姫様抱っこという形にして、


「ん……っ」

 

 キスを、した。

 ルメリアの白桃色の唇がターチスの桃色のそれと重なり、狂愛者は頬を赤く染めると即座に舌をねじ込んで絡めていき、甘く熱い吐息を漏らしていく。


 それは段々と、情愛を交わすものから情事に耽る前の余興へと変わっていき、やがて喰らうためのものへと変わりゆく。


 その光景を、永絆も蓮花も、複雑な気持ちで見ていた。いや、見ることしか出来なかった。ここで介入に入れば必死。少しでも声を、音を上げてしまおうものなら、一瞬にして身体は氷塊となって『壊死』を孕む術式により消し炭のように消えていくことだろう。


 それはもう、ただただ屈辱を味合わされているに等しかった。だが、それはターチスが一番感じていることだろう。もっとも、意識が無いのが幸いだが。


『やはり……したわね、ルメリア』


 と。突如聞こえた声音。他でもない、意識を失って、今この瞬間にも口腔を侵されているターチス・ザミの声。


 それが今、永絆の右腕で光る紋様を通じて脳内に聞こえてきたのだ。


『隙だらけで、接吻を』

 

 瞬間、何かが起きた。

 何か、と不確かな認識になったのは、即座に目が機能しなくなったからだ。それ程の白光。それ程までに滾る熱波。


 気が付けば、目を庇う永絆のもう片方の手を、蓮花が握りしめていた。虎の刻印が唸る右腕に寄り添うように。


「……ははっ、両手に花というより、これじゃあ片手に美少女二人っていうか片手に二輪の花。気を抜いたら零しかねねぇ……けど、私はそんなヘマはしない。——だからスカッと逆転しちまえ、ターチス・ザミッ!!」


 瞳を庇う腕を払い、その目でしかと見届ける。炎氷の終幕、二体の大剣霊による別次元な交錯の結末を。


「あら、あらあらあら。貴女にそのような甲斐性があって? ナズナ」


 衣服は無く、白磁のように透き通った素肌を晒しても尚美しい女。

 抱きかかえる方は逆転し、ルメリアはターチスの腕に中で全身を焦がしながら昏倒している。


 勝敗は、決した。


 こうして大剣霊同士の戦いは、『純潔』を司るルメリア・ユーリップの勝利で幕を閉じた。


「…………あ?」


 そう、


 反射的に認識してしまった真実。しかし今まで幻覚を見ていた訳でも無い。


 一瞬だ。この一瞬で、再び形勢が逆転してしまったのだ。一拍遅れて、永絆の脳裏にその情景が逆再生される。


 氷弾だ。

 か細くて小さい、黒いそれが、ターチスの心臓部を背後より撃ち抜いていたのだ。しかし、剣霊は器が死しても『霊魔』となって蘇る。

 寧ろ、それが本来の姿であり、力の本領を発揮するための一種の機構である筈だ。


 だから、永絆は疑問に思う。何故、ターチスは再びあの『魔虎』に変異しないのか、と。


「ねえ、クソ女狐のクソ主……『魂』って、信じます?」


 瞳を虚ろにして昏睡しているターチスを愛しげに抱くルメリアからの唐突な質問。永絆は一瞬声を詰まらせつつ、顎を引いて慎重に返答する。


「ある……だろ、そりゃあ。既に色んな超常を体験してきた。だったら、魂なんてオカルト、かえって普通に見えてくる」


 一言一句に神経を回しつつ、万が一の場合にどう蓮花を逃がすかについても思案。

 そんなキャパシティオーバー目前の永絆を他所に、ルメリアは、


「クンクン……! んんっ、はぁぁぁぁぁぁぁっ♡ そうっ! ですね!」


 あろうことか、抱いているターチスの胸に顔を埋めて匂いを嗅ぎ、興奮する様子を隠さずに反応を見せる。

 そして、快楽のためか、身体を微かに痙攣させながら続ける。


「……剣霊にもっ、その魂である『霊魂』というものが宿っています……っ、今お姉様はっ、ああああああっ! お姉様はやはり全て! 全てにおいて花の如く艶やかで心地いい香りがぁっ! ……それを、一時的にルメの術式によって壊されただけのこと。これよりルメはお姉様を連れて帰ります。そしてがんじがらめに監禁して——一生涯、ルメの傍でルメだけを見てルメをルメだけを求めてルメだけの視界に入ってルメを食べてルメだけを抱いて永遠にルメと肌を重ねてルメだけを呼んでルメだけを傷つけてルメだけが傷つけてルメが存在でルメだけが存在していてルメの周りを全て壊してルメだけがお姉様を壊し愛し食し潰し殺す権利があって舐め回したくて味わい尽くしたくて縛りたくて縛られたくて壊したくて壊されたくて殺したくて殺されたくて……ああ、そうそう、それらが、こんな具合に、これら全てとその他にもルメの欲望、願望、渇望する事々はこのちっぽけな世界では抱えきれないぐらい沢山あります! あるんです! あるのですっ!」


 いつの間にか、ターチスを手放しで浮遊させて両手を広げて天を仰ぎ、快哉を叫ぶ狂人ルメリア。永絆に対しての返答は己が持つ欲の吐露へと変わり、話を戻そうという気も全く無いように思える。

 そもそも、返答を受けるべき相手もまた、ルメリアを糾弾する余裕が無くなっていた。


「ナズ姉ッ!?」

「…………あ、ぁ?」


 黒々と染まった空が、やけにはっきりと見える。眼前、少し離れた位置を浮遊していたルメリアとターチスの姿は消え、今はただどこまでも黒い空が広がっていた。


 故に、永絆は気付かない。


 ——自分の右目に突き刺さる黒い氷弾に、気付かない。


「眼球を壊し、脳髄をこじ開けてぶち込んだ氷弾……あなたがその魔剣に宿る『剣能』でも使わない限り、その女狐使いが快復することはありませんよ」


 辺りを満たす冷気よりも冷たい声で蓮花にそう言い放ったルメリアは、ターチスを抱きかかえると、『霊魔』の状態での蝶の羽を現出させてはためかせる。


「霊力が回復次第、ルメはお姉様を連れてお家へ帰ります。これは決定事項ですので、もし阻みに来るというのなら全力で壊し、殺します」


 夕焼け色の瞳に宿った鋭い光。指先一つ払うだけで幾度もの壊死を味わいされかねないその脅威に晒され、蓮花は永絆の抱き抱えたまま動けずにいた。


「では」


 そう言って、ルメリアは一瞬にして姿を消した。

 残されたのは、夜闇よりも濃く不気味な空と穴だらけの凍土。


 蓮花は知らずうちに涙をこぼしており——それでも襲い掛かる恐怖をはねのけ、精一杯に叫んだ。


「アイリスッ! ナズ姉のことを助けて……っ!」


 渦を巻く鋼鉄に光が宿り、切っ先目掛けて進んでゆく。やがて放たれた濃霧は蓮花が抱える永絆を優しく抱擁し、彼女の右目に刺さる氷塊と共にそれが成す『壊死』の事象を斬り刻んでいく。


 蓮花はただ、祈っていた。

 きっと自分を守ろうとして身を挺してくれていた永絆に対し、ありったけの感謝と謝罪を心中でひたすら紡いで。


 こうして、二体の大剣霊による激突は幕を閉じ、同時に片喰蓮花を取り巻く怪事件にも終止符が打たれ、彼女を囲む悪意は全て斬り捨てられた。


 しかし、脅威はまだ終わらない。

 それどころか、本当に脅威と呼べるものが、ようやく幕を開けるのかもしれない。

 そんな不吉な予感を抱きつつ、蓮花は異変に気付いた。


「……そっか、学校の結界も解けたんだ」


 背後、紫紺の世界に彩られていた空間はいつもの姿を取り戻し、同時に、校庭と空を覆う黒い爪痕も消えつつある。凍土は溶け始め、空は夜闇に溶け込んでいく。


「帰ろう、ナズ姉」

 

 霧斬りアイリスの『剣能』によって、永絆も一命を取り留めた。氷塊は霧散し、壊死に侵されることなく安らかに眠っている。


 蓮花はアイリスの霧を出来るだけ狭い範囲で凝縮させると、そのまま雲の絨毯のように永絆を乗せて彼女の代わりにヴァージを持ち、ゆっくりとその場を後にする。


 きっと、永絆は目が覚めたらすぐターチス奪還に関する作戦を練って動くだろう。当然、蓮花も彼女を支え、守るべく共に行くつもりだ。


 でも、もし神様がいて、慈悲をくれると言うのなら。


「もう少し、もう少しだけ、ナズ姉と二人きりで……」


 彼女の額に自分のそれを重ね、切なげにそう零すのだった。


 慟哭の夜が過ぎ去り、暁へと移り変わる。



 薄れゆく黒と灰の空が、祈る少女と眠り姫を見下ろしていた——。

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