第28話 あなたに


唐突に、

この人はもうすぐ死んでしまうのだなあ、と

実感した。


それはほんの少しの寂しさと静けさを伴っていて、

なんだか胸が切なくなった。


手を、握りたくなった。


せめて最後に感触だけでも覚えていたくて。


ふと思いついたけれど

手を握る理由が見つからない。

急に握手を求めるなんて、

それに、この人は私のことを忘れてしまったのに。


すでに見ず知らずの他人となってしまったのに。


声も、客人をもてなすように少し高く穏やかな声で。

いつものように早口でしゃべってほしいのに。


耳にタコができるほど聞いたお説教をもう一度してよ。

いつも、私の名前を間違えて少し笑って言い直した。


今は、私を誰だと思っているんだろう。


そんなに丁寧にお辞儀をしないで。

他人なんだとはっきりと線引きされてしまう。


結局、手も握れずに。言葉も一方通行で。

そのまま煙となってしまった。



あの人の声が思い出せない。

どんな話し方だったとか、どんな言葉を言ったとか。

方言の使い方が独特で、どうしても私はまねできない。


せめてひとつの言葉でも覚えていたなら、

忘れないで済んだのに?

きっと覚えていたとしたって、あまり意味はないでしょう。


あの人の言っていた言いつけを守ることでしか

私はあの人を思い出せない。


手を、握ればよかったなあ。

何度も後悔してきたけれど。


あの人はいつも写真の中で微笑んで、

それを見るたびに私は

申し訳なさと安心感をないまぜにして、

静かに手を合わせている。

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