黄色回帰の果てに

リポヒロ

黄色回帰の果てに

黄色い光に照らされた森の中の、黒い鉄格子の門。

そこまで辿り着けば、後は大丈夫。

いつも遊びに来てるから、森の道順は覚えてるよね。

その門をくぐって長い階段を降る。中は真っ暗だけど一本道だから大丈夫。

底まで降りたら発光キノコが青白く光ってるはず。ここではそれが灯りだよ。

奥の方に門番がいるから私の紹介で来たと伝えればいい。本当の門を通してくれる。

その先からは私たちの領域だから、もう大丈夫。

私の名前を呼んでくれれば、いつでも会いに行けるから。

ただ、もう君は戻らないといけない。門までの道のりと私の名前を忘れないで。そうすれば、明日からも会えるから。それじゃあね。待ってるからね。


それまで優しく握られていた彼女の柔らかい手は霞のように遠退き、黄色い光に隠された彼女の顔には一筋の涙が流れたように見えた。


ごめん。もう、君の名前も門までの道のりも忘れてしまった。もしかしたら、元から知らなかったのかもしれない。ごめん。もう待たなくていいから。もう会えないから。


微睡みの彼方に遠ざかる彼女の影に投げ掛けた謝罪は、煌めく朝靄に遮られた。



幼い頃に見た夢。寝起きに涙を流していたのを覚えている。夢はあまり覚えていない方だが、その夢だけはいくつになっても忘れない。最近その夢をよく思い出す。もしかしたら、幼い自分は大切な何かを失ったのではないか。大切な人を裏切ってしまったのではないか。そして、夢の中の彼女は今もまだ自分を待っているのではないだろうか。そんな実態のない後悔が背中にしがみついて離れない。


この事は家族にも友人にも話していない。幻想小説の影響だと笑い飛ばされるのが関の山だ。そんなことを言ってるから嫁さんができないんだとか小言を言われるに違いない。尤も、家族は既に、僕が所帯を持つことを諦めているようだが。

ひとつ溜め息をついてベッドから起き上がる。壁掛け時計が午前八時を指そうとしている。網戸の窓からは、暑さなどすっかり忘れた心地のよい風が、小鳥の囀ずりと共に流れ込んでくる。このくらいの季節が一番好きだ。空気が身体に馴染む。

肺を通して魂が満たされるようだ。肺と魂が通じているのかは知らないが、きっとそうなのだろう。少なくともこの季節においては。


洗面台で顔を洗い、業務用のスーパーでまとめ買いしたサイダーを開けた。子供の頃は日曜日にしか飲めなかった好物のサイダーは、今では一本当たり百円足らずで買えてしまう。今では毎日一本以上飲んでいる。

冷蔵庫から昨日の残り物のキスの天ぷらを指でつまみ、醤油を一筋垂らしてかぶりつく。よく冷えた天ぷらを咀嚼しながら、食パンをトースターに放り込む。今度はエビの天ぷらを冷蔵庫から取り出して、トースターを待つあいだ咀嚼する。徐々に焼けていく食パンを眺めながら、天ぷらも温めた方が旨いのだろうなとぼんやり考えるが、口内に広がる魚介と油の旨味で我に帰る。冷えた天ぷらもそれはそれで旨い。冷えた天ぷらの旨さに気づける感性を、旧い友人に冗談混じりに誉められたことがあったが、同時に冷えた天ぷらで満足してしまう横着加減のせいで異性が寄り付かないと説教されもした。男女が上手くいく条件は価値観の一致だと聞いたことがある。その言説が正しければ、冷えた天ぷらの旨さに気づける人に出会えないと僕は一生独り身ということだ。もし仮に僕が伴侶を得たとすれば、その人は冷えた天ぷらの旨さを知っているはずだ。しかしまあ、実のところこのような思慮に価値はない。冷えた天ぷらは独りで食うのが最も旨いと、遅くとも小学生の頃から知っているからだ。天ぷらの油でてかる指を洗い、その手で程よく焼けた食パンを掴む。口の中の油を食パンで拭うようにして咀嚼し、冷たいサイダーで流し込んだ。


そのまま仕事机へと向かったが、どうにもあの夢が頭の片隅にちらつき仕事が進まない。右回りに傾きつつある壁掛け時計を横目に、新しいサイダーを開けることにした。

眠気の靄が晴れた頭でよくよく考えてみれば、あの夢を見たという記憶さえ怪しい気がしてきた。それこそ何かの幻想小説に無意識に影響を受けて、自分の記憶を都合よく上書きしているのかもしれない。あの夢が空想のものだったとすれば、全てが上手く片付く。黒い鉄格子の門を覚えている必要も門までの道のりやあの人の名前を思い出す必要もなくなる。謂れのない後悔に付きまとわれることもなくなる。

仕事机に戻り、冷たいサイダーを飲み込んで深く息をついた。

空想は空想として、綺麗さっぱり忘れてしまうのが賢いのだろうし、それがもしかしたら大人になる条件なのかもしれない。というこの考えも、この間読んだ幻想小説の影響なのだろう。しかし、合理性の外に何か見えない価値があるように思えて仕方ない。空想を空想として現実に生きる大人か、空想を現実として空想に生きる子供か。世間一般から見れば僕は後者なのだろうし、社会人とはすべからく前者になるべきなのだろう。僕は空想を手離して社会人となるべきなのか。空想の彼方で待ち続ける友人に会いに行くべきなのか。


手も動かず、考えも纏まらないまま、暗さを湛えた斜陽に時刻を知らされる。しまった。締め切りまで余裕がないというのに。今日片付かなかった分は明日取り返さなければならない。壁に貼ったスケジュール表に嬉しくない修正を書き込んだ。その日は、栄養クッキーとサプリメントを温いサイダーで流し込み、意識の落ちる限界まで仕事机にかじりついた。瞼の重みに耐えきれずベッドに転がると、すぐに意識が遠のき始めた。辛うじてアラームをセットし眠りに落ちる間際、ぼやける頭の中にあの夢の黄色く輝く森が思い出された。

昼間の頭では、あの夢は無意識な記憶の捏造だと考えてさえいたのに、眠気に意識が解されてくると、やはりあの夢は実際に自分が見たものだという妙な確信が顔を出した。空想を手離すべきか否か。大人になるべきか否か。そんな“すべき”など最早どうでも良かった。ただ、夢の果てで待つ彼女に会いたい。その声だけが頭の中を反響していた。


ここまで来れば、もう大丈夫だ。幼い頃から眼球の裏側に隠れ潜んでいた黄色い森の記憶が滲み出てくる。

朝日のような清らかさと夕焼けのような暖かさを宿した黄色い光が、頭上に生い茂った木の葉を転がり零れ落ちてくる。足元に流れる光の粒を吸い込んだ地面や落ち葉、木の幹までもが黄色く染まり、目に映るすべてが黄色い光を放ち始める。歓喜した僕は黄色い光を大きく吸い込み、喜びで肺を満たした。酷く心地よい懐かしさを感じた。息を吐き静かに瞼を持ち上げると、目の前に黒があった。ところどころ錆びた黒い鉄格子。何十年と求め望んだ黒い鉄格子の門がそこにあった。震える手をかけると、蝶つがいの錆を感じさせないほど簡単に開いた。地下へと続く階段からは優しい冷気が流れてくる。湿った石レンガの壁を手で伝いながら暗闇へと一段一段降りていく。背後の黄色い光はもう見えなくなっていたが不安はない。百を超えてから細かく数えるのを止めたが、ざっと五百段は降ったであろう辺りでぼんやりとした青白い灯りが見えた。発光キノコだ。底まで辿り着けたようで一安心する。しかし、はっと気づいた。彼女の名前が思い出せない。冷汗が背筋を伝う。どうしよう、やっとここまで来れたのに、僕が名前を忘れてしまったせいで彼女に会えない。悔しさと不甲斐なさに心臓が震える。膝が崩れその場に座り込んでいると、奥の方からしわがれた声が聞こえてきた。

「あんた、彼女の連れだろ。その情けない顔、覚えてるぞ。」

急に聞こえてきた声とその内容に驚いたあまり、嗚咽交じりの声しか出せない。

「大丈夫だ。分かってるよ。彼女の名前、忘れちまったんだろ。大丈夫。すぐに思い出すさ」

首を縦にぶんぶん振りながら、足を引きづって声の方ににじり寄ると、暗闇から伸びてきた皺だらけの強張った手で右手を包み込まれた。驚いて手を引こうとしたが、その手の暖かさに緊張と警戒心は溶かされていた。地下の暗闇の中では発光キノコの青白い光は心もとなく、門番の姿は肘から先しか見えなかったが、すぐ近くで柔らかい笑顔をこちらに向けているのが分かった。


門番に手を引かれ、暗闇の先へと進む。お互いに何も言わず十分ほど歩いたところで、ゆっくりと門番の口が開かれた。

「大きくなったな」

門番の暖かくしわがれた声は徐々に遠のき、右手を引いていた門番の手もいつの間にか消えていた。そのまましばらく歩いていると、暗闇は徐々に引いていき、代わりに優しいオレンジ色の光が押し寄せてきた。果ての見えないオレンジ色の草原に圧倒されると同時に、自然と涙が頬を伝った。

「やっと会えたね」

鼓膜を撫でるような優しい声。

慌てて涙を拭うと目の前に彼女がいた。

歓喜。ただ、歓喜。魂の中心から湧き上がる歓喜が肺の空気を押し出し、嗚咽となって喉から溢れ出る。

やっと会えた。今まで来れなくてごめん。君の名前を忘れてしまってごめん。ありがとう。こんな僕にまた会ってくれてありがとう。

言葉にならない声が次々と溢れ出る。

「大丈夫。私を呼ぶ声が聞こえたから。もう大丈夫。ちゃんと聞こえてたよ。」

僕の胸に柔らかい手を当ててさすると、彼女は僕の左手を握った。

「さあ、行こう!」

どこへ行くのか。分からないが、知っていた。

彼女に手を引かれオレンジ色の草原を先へ先へと進む。地面を蹴る足が軽い。


冷えた天ぷらも安いサイダーも、もう要らない。ふと場違いな諦めを感じた。そんな空想よりもずっと価値のある現実が目の前に広がっているのだから。

彼女の手を握り直すと、彼女はこちらを振り向き柔らかい笑みを浮かべた。僕の顔は自然と綻び、軽やかな笑い声が零れた。二人の笑い声が螺旋を描き、僕は彼女と共に幻想の果てへと駆けていった。

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