夏井彩美 ②

その時、誰かが私の左手に触れた。


「…え?」


振り向くと、男子生徒がフェンスに両足を掛けて私に手を伸ばしていた。

とりあえずその手を掴み、鉄柵をよじ登る。


「危ないから駄目だよ、あんなことしちゃ…。」


小動物のような丸く大きな目が可愛らしい。


「ごめんなさい、人がいたことに気がつかなくて…」


「それは…まあ、大丈夫だよ」


何が大丈夫なのかはさておき、彼は頭を掻きながら苦笑した。


「あなたもしかして、同じクラスの佐野くん?」


「気づいた?うん、佐野良樹だよ。最近はあまり教室に行けてないけどね… えっと君は確か…夏井彩美ちゃん?それよりさ、君はどうしてあんなことしたの?」


彼の額から汗が流れ落ちる。

ここは陽炎が立つほど暑いのだ。


「だって君はテニス部で… 友達もそれなりにいるじゃないか。」


私は言葉に詰まる。

佐野くんの言い分は間違っていない。

だけど…


「そう…かもね。でも私にも色々と問題があるの。今は何から話せばいいのかわからないけれど、私の表面だけを見るのはやめて。」


「ごめんね、君たちの問題に首を突っ込むつもりはないんだ。ただ、少し理由が気になって。その様子だと心がだいぶ疲れているでしょう?帰って休むといいよ。」


「ふふ、その通りね。そうだ、最後にひとついい?」


「うん、何かな?」


「あなたも今日ここで死ぬつもりだったの?」


一瞬の沈黙が訪れる。

彼は微笑しながら、困ったように眉を下げて言った。


「はは、まさか。僕はここが好きなだけだよ。」


「そう…。今日は助けてくれてありがとう。」


「ううん、少しは元気になれた?」


「ええ、お陰様で。」


「それならよかった。じゃあ、またね。」


階段を駆け降り、正門から通りへ出る。

教室に荷物を置きっぱなしだが、誰も追っては来ないだろう。

門を抜ける前に屋上を振り返ってみたが、彼の姿は見えなかった。



あの童顔と優しげな口調を忘れられない。

どうやらあの日、私は恋に落ちてしまったようだ。

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