20 緋色の目覚め


「――かくして、青年は西へと旅立ったのでした」


 目が覚める。辺りはまさに暗闇――手足は何かに縛られているかのように動かない。壁に貼り付けにされているようだと感じたが、背に壁はない。意識が混濁こんだくしている訳でもない。さらに目の前の――人物とも呼べない何かが居る不可思議な状況に、一斬は眉を寄せた。

「……なんだ、お前?」

「動けないのに随分と冷静ねぇ」

 少し距離を置いて、一斬の目の先には黒いもやに包まれているが人の形を取っている何かが居た。それが喋る言葉は揶揄やゆでもするかのようで、女の声は場違いに甘ったるくつやめいた声だった。

「何者だ?」

「私の名前はベリア、ベリア・コートネアーナ。直接じゃないけど……にお会い出来て光栄だわ」

「名前なんて興味ねぇよ、お前は何者かっていてんだ」

「短気ねぇ」


 喉で笑いながら、ベリアと名乗ったそれは暗闇の中を浮くように移動して一斬の目の前へと近づいて来た。その細く黒い、おそらく指先が一斬のあごを持ち上げた。顔らしき部分には、目も鼻も口もない。呼吸すら感じ取れそうなほど距離を縮めても、生物に必要不可欠なはずの息が鼻先にかかる事はなかった。


「あなたが欲しくてわざわざここまで来たのに」

 変わらず甘く誘うかのような声のささやきに、一斬は「ハッ」と鼻を鳴らす。

「口説き文句を言われたってなぁ……顔のない女の誘いなんかに乗れるかよ」

「記憶を見せて貰ったわ、あなたの遠い過去のね……イッキ・オーグチ」

 挑発めいた言葉を無視し、女がわらうかのようにそう言った。その瞬間、一斬の表情は途端に暗く、瞳の輝きが強くなり、牙を見せるように唸り声を上げる。


「――てめぇか、さっきの夢を見せたのは」


 ベリアは笑みを浮かべているだろうと分かるほどの笑い声を上げて「まぁ怖い顔」と演技がかったように指を離し、距離を置いた。少し間を空け、振り向いた……と思われる動きをした。

「本当はこうやってお話する予定はなかったのだけど……念のため訊いておきたくて。ねぇ、私達の仲間になる気はない?」

「ねぇな」

「あら、あっさりしてるわね」

「殺しをやった上にこんな事されて乗れるかよ」

「あなたの扱いがこの町でよくなる事なんてないわよ。住民はあなたを化け物呼ばわりし続けるし、希望なんてとっくの昔に無くなってるじゃない」

「お前に、俺とこの町の何が分かる」

 突き放すような短いその言葉に、ベリアはしばらくの間、何も答えなかった。ただ、「そう」と溜息を交えては小さく呟く。

「交渉決裂って事ね、残念だわ。出来たら、穏便にいきたかったのに」

 その声は今までのように相手を逆撫でするようなものではなく、本当に残念だと言わんばかりの声に思えた。ベリアが、その黒い手を一斬へと向けた。


「じゃあ……さようなら、一斬――」


 その言葉に一斬の口から「どういう事だ」と返る事は無かった。突然、頭の中から全てが抜け落ちたかのように、まるで辺りの闇に混じってしまったかと錯覚してしまうほど――思考が止まり、疑問すら感じなくなった。

 その声が聞こえるのは当然の事だ。素直に受け入れる事も、また当然だ――そんな考えが頭を渦巻き、拘束を解かれたというのに膝を付いて、何も見つめていない目でベリアを見上げていた。


 ――空になってしまった頭でも分かるほどの猛烈に這い上がる悪寒からか、汗が噴き出す。


「私が全部貰ってあげる。悲しい記憶も、辛い思い出も……他人に許されなかった、その存在ごと全部」


 そんなのごめんだ、と心のどこかで誰かが叫んだ。誰かの考えが、一斬の考えへとすり変わっていく。見知らぬ他人のものへと変わっていく。

 もうすぐよ、もうすぐ、もうすぐ。声は耳元で囁くようなものから、知らず知らずのうちに一斬の思考そのものを塗り潰していく。


「さぁ……受け入れて。私もあなたを受け入れるから――」


 ――突然に響く轟音。暗闇の中を震わせるような、耳をつんざく音だった。


 ――そしてそれと同時に、一斬の体に活力が戻り、みなぎって行くのを感じる。


「あら」


 黒い靄は驚いたような声を上げた。呆けていた自分を払うように頭を左右へ振ると、一斬の意識は再び自身のものになっていた。そんな様子を眺めいたベリアが不意に体を震わせる。

「ふふふ……面白いわ」

 肩を揺らしている顔は見えないが笑っている様子のベリアに、一斬は険しい顔つきを見せた。

「よく分からねぇが、失敗したようだな?」

「えぇ、予想外の出来事が起こったわ。ふふっ、計画通りとはいかなかったけど、楽しいわ。良い機会に巡り合えて」

 喉で笑うベリアの声だけ聞けば無邪気に笑う少女のようであったかもしれない。ただし、底にある薄ら寒さを感じる声は拭い切れていない。

「ならもういいだろ、とっとと失せろ」

 その不快さから、一斬が吐き捨てるように言った。敵意を向けられてもなお「そうね」とベリアは笑っていた。

「名残惜しいけど、欲しい物は貰えたし」

「失敗だったろ」

「こうなりそうな気はしたわ。あなたの血って人狼としての血が濃いせいで、色々と効き難いみたいだったから」

 その言葉に、一斬の顔色が変わった。一瞬、驚いたような顔から憎々し気な表情でベリアを睨む。

「……俺の血を持ってるのか?」

「さっき、少しだけね」

 そこで暗闇に引きずり落とされる前に自分を刺したナイフが宙を舞い、消えたのを思い出した。ノグレスと手を組んでいるのも、おそらくはこの女なんだろうと考え……酷く回りくどいやり方で手に入れたものが人狼の血という事に違和感を覚える。

「ノグレスのおっさんまで引き込んで手に入れたのが、俺の血少しだと? 何に使うんだよそんなもん。若さが欲しいのか? 他人への復讐か?」

 矢継ぎ早な質問をぶつけられても、ベリアは微かに笑っただけだった。

「自分の血で同じ存在が生まれるのが心配なのね、優しい人」

「答えろ」

 冷たく言い放たれた言葉にベリアは一斬へと向き直る。黒い靄からは笑い声が消え、足音も立てずに近寄って来た。

「誓って言えるわ。あなたと同じ存在は生まない。私と同じ<夜に招かれた者>……優しい人、あんな事がなければ……あなたとお友達になりたかったわ」

「お前――」

 目を見開いた一斬が次に口を開こうとした瞬間、空から光が差し込み始めた。暗闇がまるで硝子のように空から砕かれ、剥がれ落ちて行く。何もない白い空間は目を焦がしてしまいそうなほどに眩しい。


 その光に照らされて黒い靄が晴れる。目の前に居るのは長く波打ったような深紫こきむらさき色の髪と、ローブを着込んだ――鮮血と金色で彩られた瞳を持つ女だった。

 女は穏やかに微笑む。


「私はベリア、ベリア・コートネアーナ。<夜を謳いし一族ルナクシャル・ミナ>の生き残り……またどこかでお会いしましょう、一斬――」


 その言葉を最後に一斬の意識は暗闇から引き離され、閃光に包まれた。



 目を開け、辺りの眩しさに眉を寄せた。だがそれもすぐ気にならなくなった。もはや嗅ぎ慣れてしまっている鼻を衝く臭いに、一斬は飛び起きる。臭いの元はすぐ近く。己の顔から流れ落ちたのは生暖かい鮮血、そしてすぐ傍には――煙を出している拳銃、緋色ひいろに染まった左腕を押さえて蹲っているミーシャが居た。


「ミーシャ――!」


 拘束されている両手でなんとか体を起こして支えるとミーシャは血が流れている個所を押さえながらも、玉のような汗を流し、苦痛に顔を歪めながらも一斬に笑い掛けた。

「よか、た、いっきさ……」

 己の口に残る味、それが何かを理解した瞬間、一斬は叫んでいた。

「よくないだろ! なんて無茶してんだ……!」

 責めるような一斬の言葉に、ミーシャは泣き出しそうな顔で困ったように微笑んでいた。その顔が一斬には――意識を取り戻す前、あの夢で見た妹の顔と重なった。

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