8 食人衝動

「……ちょっと、ノグレス――」


 その一斬の姿……正確に言えば腕に付けられたリングを目にした瞬間、チェイシーの声が今までより遥かに怒気を表すものへと変わっていった。そんな敵意を向けられているにも関わらず、ノグレスは表情を変えない。

「どういうつもり?」

「ちょっ……! チェイシーちゃん、落ち着いて――!」

「答えなさい」

 慌ててアイラが止めに入るも、その制止すらチェイシーの耳には届いてすらいないようだった。ただ目の前に居るノグレスを睨み続けている。

に対する無礼なのは承知しているよ、チェイシー。しかし事態が事態だ。こうしないと市民は安心できないだろう?」

 淡々とした声でそう返したノグレスは至極当たり前と言わんばかりの態度だ。その答え、態度にチェイシーは納得はいっていないようだった。

魔素まそをそこまで奪うのはやり過ぎだわ、彼がどういう状態か分かってるでしょう?」

 聞きなれない言葉に、ミーシャはそっとリーンシアに尋ねた。

「あの、魔素って……?」

「魔物の体に流れる生命力の一種だ。人狼の場合は変身する時に消費するが、だからといって奪えば肉体にも精神的にも影響が出る可能性もある。安全は確保できるとはいえ、あんな処置は普通しないはずなんだが……」

 ノグレス達には聞こえぬよう、リーンシアが険しい顔でそう説明した。ミーシャには一斬に何が起こっているのかは理解できない。だが再び目を向けると明らかに彼の様子がおかしく、チェイシーの態度からも普通では起こり得ない事が起こっているのは分かった。

 周りの様子とは裏腹に、ノグレスの反応は冷ややかなものだった。

「何を言われても同じだ。とにかく、一斬の身柄はこちらで預かる。容疑者にここまでの対応は普段ならしない」

「そんなやり過ぎな対応も普段ならしてないでしょう?」

「君の意見など関係ないよ、チェイシー。あぁ、だが……この依頼を受けるかは任せねばならないな」

「依頼?」

 ノグレスが取り出したのは一枚の封筒だった。それをまだ不服そうな顔を見せているチェイシーへと差し出す。それに押されている封蝋印は聖騎士団の物で間違いなかった。ますますチェイシーが顔をしかめた。

「この事件の犯人、その捜索にご協力願いたい」

「あらら、聖騎士団で解決する自信がないのね」

 明らかな皮肉にノグレスは眉を寄せるも、すぐさまアイラが「失礼」と断りを入れてから封筒を受け取って開封した。中身を読み続けているアイラを一瞥した後でノグレスは話を続ける。

「……君たちには引き続き、監視兼協力としてマットとリーンシアを付ける。双方、それでよろしいか?」

 訊いてはいるものの答えを他には許さないとも受け取れる声風こわぶりだった。立ち上がっているリーンシアとマットの二人はノグレスの言葉に姿勢を正した。

「了解しました!」

「承ります」

 素早く頭を下げ、気合の入っているようなマットと対照的にリーンシアは静かに答えた。

「断ったらどうなるのかしら、ノグレス」

「断ってもいいがそうなった場合、彼がどうなるか保証はしかねるな」

 ノグレスが視線をやった先の一斬は言葉を発しない。やはりどこか様子のおかしい一斬に、チェイシーは一瞥して顔をしかめた。

「……独立機関のくせに、こういう時だけは皇族と同じ立ち位置のつもりなのねぇ」

「君達にも悪い話ではないだろう、この男の処遇を考えればな」

 その言葉を最後に、数秒の間が空いた。そして、チェイシーは微笑むとスカートの裾を持ち上げ、ノグレスの前で恭しく礼をしてみせた。

「分かりましたわ。この依頼、チェイシー・ブルーウィッチの名にかけて引き受けましょう」


 ――その言葉を聞いた瞬間、ミーシャにはノグレスの顔が勝ち誇ったように一瞬笑ったような気がした。


(……あれ?)


 気のせいかと思いミーシャはよく見ようと目を凝らすも、瞬きをすればすぐ表情は変わっていた。やはり気のせいだったのかと首を傾げるが、それよりも静かに佇んでいるだけの一斬が気になってしまった。先ほどから固く口を噤んでしまい、何も話そうとしない。

「よろしく頼む、ではマット、リーンシア」

「はい」

「待って、ノグレス――」

 出て行こうとしたノグレスをチェイシーが止める。

「何かね?」

「一つ教えてちょうだい、そのリング、どこで手に入れたの?」

「……魔法学会の者から譲り受けたのだよ」

 一瞬、チェイシーは驚いたような表情を見せたがすぐに「そう」と平静を装った。

「質問は以上かね?」

「えぇ、もういいわ」

「なら頼むぞ。さぁ、君にも戻って貰おうか」

 ノグレスに声を掛けられた一斬は大人しく出て行こうとする。一瞬、ミーシャと目が合い――すぐ顔を背けられてしまった。再び静けさが戻る。

「アイラ、勝手に引き受けたけど良かったかしら?」

「いいよぉ、アタシはチェイシーちゃんに従うからね」

「すまん」

「あら、どうしたのマット?」

 突然肩を落として謝るマットにチェイシーは驚いた様子だった。しかしマットは罰の悪そうな顔で続ける。

「俺達があの場に居ればもう少しまともな対応になっていたのかもしれん。ノグレス様はこの町の治安のために尽力されているだけなのだが……」

「さすがに、私もあのリングはやり過ぎだと思うがな」

「そうなのですよね……あの人らしくない」

 リーンシアの言葉に、マットもますます納得いかない様子で眉間に皺を寄せていた。

「……私からも謝ろう、すまなかった。引き続き事件解決のために協力してくれないか?」

「もっちろん! アタシは全然オッケー!」

「私も……納得いかないけど、そうしないとあいつ一斬を返さないつもりでしょうからね」

「本当にすまない。一斬については私も出来るだけ手を回そう」

「リーンシアさん、俺も手伝います!」

「もちろんだマット、頼むぞ」

「あの……!」

 話がまとまっていく中、どうも浮いてしまっているというより置き去りにされている気がしてミーシャはつい声を上げてしまった。

「私にも、何かお手伝いできませんか?」

 じっとしている事など到底できない――そう訴えるように真剣な表情のミーシャに、チェイシーは何か考え込むような仕草を見せた。

「……そういえばミーシャ、あなたブライのところに居るのよね?」

「は、はい」

 チェイシーはしばらくミーシャをまじまじと見つめた後、何か思い付いたように今度はリーンシアの方へと顔を向けた。

「リーンシア」

「なんだ?」

「早速だけど、手を回して貰えるかしら――」


        *


 被害者は港近くの踊り子の店に住んでいた女性、ナーシャ・ヒュイ、年齢は二十三歳。孤児の時に引き取った店主が二十一歳の時に踊り子として売り出し、その当時から売れっ子で、事件当日も港近くの酒場で踊りを披露する予定だった。

 発見された現場のゴミ捨て場は向かう予定の酒場からは離れている場所であった。昼間のゴミ出しの時に遺体は無かった事から、夕方の時刻に殺されたのではないかと予想されている。

 遺体の損傷は激しく、特に酷いのは左肩から腹部にかけて大きな獣に食い千切られた痕が複数残っていた事だ。


「だからこそ、この事件は<人喰い>による事件だと言われた」


 先を歩いていたリーンシアは静かにそう告げた。

 話を聞いたミーシャは、夕刻に見た光景を思い出しては思わず生唾を飲み込んだ。一斬が止め、己の体で視界を遮っていた理由が今更になって分かったからだ。どれだけ惨い光景だったのか、想像に難くない。


「惨いねぇ……一体誰がやったんだか」

 ミーシャの隣を歩いていたブライバークは話を聞いて顔をしかめた。

 聖騎士団本部の中央にある中庭、日の光が当たり、小さな池もある。白い石膏に囲まれていながら緑が僅かでもあると、澄んでいて何をも寄せ付けない重圧を感じるこの場所の空気が、少し和らいでいるような気がした。

「それをこれから確かめて貰う事になる。急な要請で済まないな、ブライバーク」

「いやいや、そういう事なら喜んで協力させて貰うよ」


 チェイシーからの提案は二つあった。一つはブライバークが人狼の容疑者達を調べる事。町で一番人狼に詳しい医師という事もあり、調べたら何か分かるかもしれないからだ。リーンシアにはその手続きを行って貰う。

 もう一つは、その診察にミーシャが付いて行って内部で得た情報をチェイシー達に教える事だった。


 その提案はつまり聖騎士団内部の情報をわざと流す事にもなる。意外にもリーンシアはあっさりと了承したが、これにはマットが難しい顔をしていた。しかし、結局は公平性のためと言いながら渋々了承してくれたのだった。


「人狼はとりあえず一か所に集まって貰っている。合計で五人だ」

「五人……? おかしいな、この町で分かっている数は四人だろう?」

「そうなんだが一人、他の地方からやって来た人狼が居る。私も驚いたよ。そいつは自ら名乗り出て来たんだ」

「怪しすぎないかい?」

「私もそう考えてはいる。だが、彼の立場は少々厄介でな」

 そう話している間に目的の場所へと到着したらしい。中庭を通り抜けてすぐの廊下にその部屋はあった。

「……全員拘束されてはいるが、くれぐれも気を付けてくれ」

「大丈夫だよ、ほとんど知り合いだし」

 リーンシアがドアを開くと、ブライバークは特に警戒した様子もなく中へと入って行った。そんな様子を見ても、ミーシャの緊張は解けない。一斬以外の人狼に会うのはこれが初めてだったからだ。

「大丈夫か、ミーシャ」

 不安そうな様子を見てかリーンシアが声を掛けた。ハッと気が付いたように顔を上げると、ミーシャは慌てて笑って見せた。

「大丈夫です。今日はよろしくお願いします」

「……何かあったらすぐ言うように」

「はい」

 ミーシャが入った後で、リーンシアも中に入り扉を締めた。中は広い客間のようで何人かはソファアに座り、または遠く離れたテーブルに居て、それぞれがバラバラで座っているようだった。何人かこちらへ一瞬視線を向けて、またすぐに顔を伏せてしまう。その中で一斬だけはこちらへと向かって来た。

「ブライ先生……それに、ミーシャも来たのか」

 だが足取りはふらついていて、ミーシャは昨日より顔色が悪くなっているような気がした。

「これは……一斬、とりあえずそこに座って」

 ブライバークがその様子を見て、一斬の肩を支えながらソファアへ座らせる。ミーシャが周りを見渡すと他の人狼たちもまるで病でも患ったかのようだった。ブライバークはまずリングを何やら観察して、眉を寄せていました。

「……ここまで魔素を奪うリングとはね。変身に必要な量どころか、肉体に直接的な影響まで与えてる」

「あの……どういう事ですか?」

「魔素が無くなると人狼は――」


 その時、何かがソファアの上に垂れた。次々に染みを作っていき、三人が驚いていると一斬は自分の口元を拭った。溢れていた涎がまたソファアの上に零れた。


「……悪い」


 一斬が罰が悪そうな顔をして三人から目を逸らすと、自分の腕で口元を隠した。しかし次から次へと涎が溢れていて、ミーシャは半ば呆然とするようにその様子を眺めていた。

「一斬さん……?」

「魔素は変身すると大量に失うものだ。だからそれを補給するために、人狼は人間の生命力を奪う……要するに、人を食べたくなる訳だ。食人衝動――発作って私達は呼んでるけど。魔素を奪うとこういう状態になるのは分かり切ってたろうに」

「そんな……」

 ふと考えてみれば、先ほどから視線がこちらに向けられている気がする。ミーシャが咄嗟に振り返ってみると、何人か目を逸らしたような――そんな気がした。

「君の体内に蓄積された魔素は年々増え続けてたけど、それをこの短時間で全部奪われたから……久しぶりに発作が起こる一歩手前までいったって感じかな」

「分かってるなら、早くミーシャを遠ざけてくれねぇか。この場所に居るのもあぶねぇんだぞ」

 苛立ったように一斬の口から獣染みた唸り声が聞こえた。三人を見る目は棘があり、よそよそしくも見える。昨日、頑なに視線を合わせなかったのも口を開かなかったのも、なぜなのか合点がいった。

(必死に我慢してたんだ……)

「……確かに、ここまでとは思わなかった。ミーシャちゃん、どうする?」

「の、残ります!」

「はぁ?」

 反射的に出したようなミーシャの答えに、一斬が信じられないような声を上げて、ふらつきながら立ち上がると口から腕を外す。そして涎を零したまま、唸り声を上げながらミーシャに視線を合わせて睨んだ。

「おい、どんだけ自分が危ない場所に居るか、理解してるのか?」

 余裕のない狼のような金色の目と唸り声を目の前にしても、ミーシャは目を見開き、しかし怯みはしなかった。むしろ睨み返すようにして、背を伸ばす。

「……そんな状態の一斬さん、放っておけないです。事件を早く解決して、すぐ腕輪を外して貰わないと」

「誰が犯人か分からねぇが<人喰い>には違いないぞ。深入りすんな、周りに任せとけよ」

「私言いましたよね、苦しんでる人達は助けたいって。私の意思で残るんです。覚悟は出来てますよ」

「死体見てビビったくせに何言ってやがる」

「……でもそんな事、今は言ってる場合じゃないです」

 そう言ってミーシャは一斬の肩に手を乗せ、力を思い切り入れて体を押した。力が入らないせいか、ふらついてそのままソファアに座り直す事になった。驚く一斬に、ミーシャはどこか自慢げだ。

「それに、ふらふらな一斬さんに睨まれたって怖くないです」

 勝ち誇ってすらいそうな態度に一斬は唖然として、それから深く溜息を吐いた。

「……忘れてた、お前さん肝がえらい座ってるんだったな」

「そうですよ」

「自分で言うかね……分かった、好きにしな。その代わり気を付けろよ」

「……はい!」

「あはは、大丈夫だよ。ミーシャちゃんはしっかり守るからね」

「安心してくれ、一斬」

「……頼むぜ、ほんとに」

 笑いながら答えたブライバークと、力強く言ったリーンシアの言葉に、一斬が疲れたような諦めたような声でそう言ってソファアにもたれかかった。

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