6 小さな冒険の終わり、夕暮れの始まり

 ――雨上がりの空気は澄んでいるものだ。


 葉に残る雨露うろが零れ落ち、地面は水を吸い泥で滑るものの、それも僅かだ。今日の日の光に照らされれば、きっと明日には雨の名残も無くなってしまうだろう事が分かった。

 再び男は空を見上げて、己に降り注ぐ木漏れ日の光に目を細め、視線を下ろす。そして雨で濡れ、自身の姿を映す冷たい墓石――その下で眠るだろう存在に祈りを捧げて、白い百合の花束を添え……不意に砂利を踏む足音が聞こえ、視線を向ける。


「――おや」


 思わず出た意外そうな声、しかしハンスはすぐに来訪者へと穏やかな笑顔を向けた。

「ミーシャ……出発の時間は良いのかい?」

「あと少し時間があったので」

 笑みを返したミーシャの手にも花束があった。この村で採取できる薬草はこの時期になれば黄色の花を付ける。小さく花弁が連なり綺麗というよりは可愛らしく見えるその花を見て、ハンスは何かに気が付いたようだった。

「これ……奥さんと、赤ちゃんに」

「この花は……」

「アマー草の花です。ルイナさんが好きだって、聞いた事がありましたから」

 ハンスはまるで壊れ物でも扱うかのように、花弁を指先で撫でた。目を細めて視線の先に映っているのは、きっと花ではないだろう――そんな何かを思い出すようにしばらく間があり……やがて名残惜しそうに手を引いた。

「ありがとう、妻もあの子もきっと喜んでくれるよ」

「……はい」

 道を開けたハンスに軽く会釈し、墓石の前へ立ったミーシャは目を閉じ小さく祈りを捧げ――持っていた花束を百合の花へ重なるよう静かに置いた。立ち上がって、瞳を閉じて祈る少女の姿を見ていたハンスは長い溜息を零した。


「僕は死者に祈る花ばかりを持って来ていた――」


 懺悔でもするかのようにそう言ったハンスの言葉に、祈っていたミーシャも顔を上げた。風に揺られている白い花と黄色の花を見てハンスは苦笑を浮かべた。

「本当なら……妻が喜びそうなものを持って来た方が楽しかったろうに。これじゃあ、また叱られてしまいそうだ」

 何も言わずにいたミーシャはハンスの言葉に花へと視線を下ろして――ハンスに向かい微笑んだ。

「ルイナさんがこの花を好きだったのは……初めてハンスさんから貰ったのが、アマー草の花冠だったからだそうですよ」

 その言葉にハンスは驚いたような顔を見せ、しかし見る見る内に泣き出しそうな顔へと変わっていった。

「ハンスさんに贈られた物ならルイナさんはなんでも嬉しいと思いますよ」

「……あぁ、そうだといいな」

 ハンスは洟を啜るような音を洩らし腕で涙を拭い、目元を赤くしながら――それでもどこか吹っ切れたような満面の笑みをミーシャへと向けた。

「ありがとう、ミーシャ……向こうに行っても、どうか元気で」

「はい……行って来ます」


 ――そう微笑んだが、ふと木漏れ日に照らされて光る……気になる物があった。


           *


 太陽は既に高く昇り、空は遠くまで澄んでいる。これならきっと雨も降らないだろう。馬車はいつも通りに出るそうで、絶好の旅立ち日和だった。

 とは言えど、カトリアンナからエルクラットまでは約半日の短い旅ではあるが。


「それじゃあお父さん、元気で」

「あなたも元気で、ミーシャ」

 ラングレーは迷う様子もない娘の姿に胸へ込み上げるものでもあったのか、固く少女を抱き締めた。目を見開いたミーシャは、しかしどこか照れくさそうに父親の背中へと手を回した。慰めるかのように背を叩き、ラングレーは手を離す。

「どうかあなたのこれからに幸多からん事を」

「ありがとう、お父さん」

 馬車の出発を告げる鐘が聞こえる。ミーシャは見送りに来た人々に手を振る。

「またなー! ミーシャー!」

「元気でねー!」

「うん、ありがとう!」

 スコットの声に子供たちの明るい声、静かに微笑みながらも手を振る父、皆と同じく大きく手を振っているハンスの姿もあった。もう少し、あと少しだけ見ていたい――しかし、そんな想いを振り切るように前を向き、出発しようとしている馬車に乗り込もうとしたミーシャへ、先に乗っていた一斬が手を差し出した。

「ほれ」

「ありがとうございます」

 馬車に乗り慣れない自分にはにかみながらも手を取り、乗り込んだミーシャはすぐに後ろを振り返った。そしてなるだけ後ろへと身を乗り出し、手を振り続けている村人へとその姿が小さくなるまで手を振り続けた。

 地面を車輪が転がる音、時折地面の凸凹で大きく音を立てては揺れる。それでもミーシャは手を振っていた。慣れ親しんでいた故郷が視界から小さくなっていく。こうして離れていく感覚は前に一度味わったが、決して慣れるようなものでもないだろうと――ミーシャは考えた。


「先生の依頼は達成だな」


 ミーシャが手を振り終わるまで待っていたのか、木々が後ろへと流れ始めた頃に一斬がそう声を掛けて来た。客は二人以外は居らず、後は大きな袋――アマー草を目一杯に詰めた物が一つ。黄色の花弁は取れ、今は鮮やかな赤い実が何個も付いている。


 ――ラングレーさんを送るついでに、カトリアンナでアマー草を集めて来てくれないかな?


 手の空いていたミーシャと一斬は、それを依頼として引き受けてラングレーを送りカトリアンナまで来ていた。二人が来ると、やはりあの出来事を語られてミーシャにとっては思い返しても恐ろしいと思いながらも大事な思い出だった。

「久しぶりの故郷はどうだった?」

「そうは言っても、あれからたった三ヵ月くらいじゃないですか」

 確かに懐かしむ気持ちが無いと言えば嘘になるが、ホームシックになるほど月日が流れている訳でもない。ミーシャのそう言いたげな表情に一斬は「まぁな」と言って何やら意味ありげに笑って見せた。どうも引っ掛かる。

「……何が言いたいんです、一斬さん?」

「いーや、何も?」

「何もって顔じゃないです……」

 今度は顔をしかめて見せた少女に一斬は喉を鳴らして笑っているだけだった。


 上機嫌な一斬の様子に首を傾げながらもミーシャは初めて一斬に出会った時の事――そして墓地での出来事を思い返していた。

 ハンスの後ろにあった――あの一斬が佇んでいた墓、あの墓に……旅立つ時、見慣れないペンダントがぶら下がっているのを見かけたのだ。ハンスに訊いても、誰が置いたのか分からないという話だった。


「エルクラットに着いたら起こしてくれよ」

「分かりました」


 だが、ミーシャは確信している――アレはきっと、彼が置いた物なのだろうと。


            *


 二人はエルクラットに着いた頃には日が沈みかけていた。

 馬車の発着場へと戻って来て、外に出る。今は赤く照らされている町も暗くなるのに時間は掛からないだろう。診療所ももう終わっている時間帯だ。頼まれていたアマー草を届けるのを明日にして今日は宿へと戻る事になった。

「あーあ、先生から金貰ったら酒が飲めたのに」

「そうやって無駄使いするから、アリッサさんに怒られるんですよ」


 暗いとは言えど街灯の明かりが細い道を照らしている。宿の並ぶ場所には酒場が多い。開いた玄関からは賑やかな声と酒の匂い、そして何かが焼ける音と匂いが漂っている。一斬が店を通り過ぎる度に後ろ髪を引かれるように振り向くため、隣を歩いているミーシャは「一斬さん」といましめるように声を掛け続ける事になった。

 ばつが悪そうに、あるいはめんどくさそうに一斬が顔を戻す。


「分かってるよ……だがなぁ、こんな美味そうな匂いがあふれてちゃあ――」

 そこまで言って、急に言葉を切り一斬は足を止める。


「一斬さん……?」

 戸惑った様子のミーシャを他所にして、一斬は真剣な顔つきになると辺りを見渡した。臭いを探るように何度か鼻を鳴らして――急にさらに狭い路地へと走り出した。

「え、ちょっと一斬さん!?」

 今度こそミーシャが驚いた声を上げて後を追い駆ける。この狭い路地は店のゴミを捨てるためのゴミ捨て場と記憶していた。ネズミが急に来た余所者に小さく悲鳴を上げて逃げていく。一斬の背中を追いながらもミーシャの鼻をくのは、酷いゴミの臭いの中でも分かる――血の臭い。


 嗅ぎ取り、そう判断した瞬間――ミーシャの額からは汗が噴き出した。嫌な予感がする。頭の中は最悪の事態を考えてしまう。胸が早鐘はやがねを打つ。まるで父を追い駆けて沼地に入った時のようであった。しかし一心不乱に足は動いて行く。


 不意に、目の前を走っていた一斬がまた足を止め、前に行かせるのを遮るかのように腕で制止してきた。荒い息を零し、ミーシャも立ち止まる。あの臭いは一層濃くこの場所を包んでいた。

「来るな、ミーシャ」

 鋭く一斬が告げる。なぜそんな事を言うのか……理由はすぐに分かった。


 彼の腕の隙間から見えているのは――夕焼けに照らされた大量の血痕と、若い女の生気のない瞳、あり得ない方向に折れ曲がっている腕……既に女の魂はこの世にない事は明確だった。


 ――知らずの内にミーシャの口からは小さく悲鳴が零れていた。


「あまり見るな」

 そんなミーシャの視界を遮るように一斬が近づき、震える少女の肩を支えた。

「大通りへ戻るぞ、周りの店に声を掛けて、聖騎士団を呼ばねぇと」

「は、はい……」

 顔面蒼白になってしまったミーシャは肩を支えられながら、よろけつつも足を動かす。

 血の臭いと色んなゴミが混ざり酷い臭いがする。後ろが気になりながらも、振り向く勇気を持てなかった。なんとか歩いていた通りに戻るとそのまま近くの店へと駆け込み――そこから、ミーシャは何が起こったのか。あまりよく覚えていない。


 ――しかし一斬が聖騎士団に取り囲まれ、険悪けんあくな雰囲気の中で彼らに連れて行かれる姿だけは覚えていた。

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