35 不覚だ。けれど……

 みさぎの寝息が聞こえて、そっと手をほどいたところで階下から物音がした。

 何だと思ったけれど、恐らくバイトから戻ったれんだと気付いて咲は息をひそめる。


 このまま寝てしまおうと目を閉じるが、大きめの足音にみさぎが「うん……」と覚醒しそうになって、慌てて部屋の外へ出た。

 階段の下を横切る彼に「静かに」と声を掛けると、蓮は足を止めて咲を振り返った。


 何も知らない蓮は、咲を見て「可愛い」と能天気な笑顔を見せる。ただ静かにして欲しいだけなのにうまく伝えることができず、咲は足音を忍ばせて階段を駆け下りた。

 そういえば今日は姉のりんがチョイスしたピンクのヒラヒラしたパジャマだったことに気付くが、後悔している暇はない。


「ただいま」

「お帰りなさい……じゃなくて。みさぎ寝てるんで、起こしたくないんです」

「あぁそうか。雨大丈夫だった?」


 「ごめん」と声をひそめる蓮。傘を持って行った彼だが、腕やカバンが少しれている。


「みさぎ、今日はそんなに怖がらなかったから」

「なら良かった。咲ちゃんのお陰だね。ありがとう」

「いえ。じゃあ、そういうことで……」

「ちょっと待って」


 心がまだ落ち着いていなかった。早く部屋へ戻ろうときびすを返した所で、蓮が咲を呼び止める。


「泣いてた? 咲ちゃん」

「泣いてません」


 彼に背を向けたまま、咲は横に首を振った。


「そんなに目赤くして? 咲ちゃんも雨が苦手? それともみさぎと何かあった?」

「みさぎとは何もないです。雨も、苦手じゃありません」


 階段を駆け上がればここから逃げ出せるのに、足がすくんで動いてくれない。

 涙のあとを腕でゴシゴシっと拭いて、咲は「平気です」と強がる。


「大丈夫……」


 けれどその声が震えて、咲は左手で口をふさいだ。

 智の死への不安、みさぎが望む未来を叶えてあげることができないだろう不安、それは蓮には全く関係のない事だ。

 なのにおさえていた感情がこぼれ落ちる。


「平気じゃないだろ? みさぎ起こそうか?」

「駄目だ。私が泣いてるってアイツに知られたくない。それにまだ雨が降ってるから……」


 感情的になって蓮を振り向いた。

 蓮は咲を見て困った顔をする。


「だったら、咲ちゃんの不安はどうするんだよ」

「私なんて、放っときゃ落ち着く」

「何かあるなら聞くけど?」

「…………」


 言えるわけない。智のことも、みさぎのことも。


「じゃあどうして、咲ちゃんは俺に会いたいって言ってくれたの?」

「それはアンタが、みさぎのお兄ちゃんだって言うから」

「それだけ?」

「それ以上は言わない」

「そうか……分かった」


 浅くうなずいた蓮が咲に近付いて、泣き顔をそっと肩で受け止めた。


「ちょっと!」


 突然抱き締められたことに驚いて、咲は慌ててその腕を振り解く。


「やめてくれ。僕は男だぞ!」

「えっ、そうなの?」


 咄嗟とっさに吠えた咲に、蓮はハッと驚いた顔をした。

 きょとんとした視線が下を向いて戻って来る。


「付いてるの?」

「付いてないよ! 僕は正真正銘の女だからな。けど……」


 不覚にも口を滑らせてしまった事実に、咲はみさぎの部屋を振り返った。

 彼女にはまだ知って欲しくない。数秒待って何も反応がない事に安堵すると、涙がボタリと床に落ちた。


「僕は、何やってんだよ……」


 涙腺るいせんが緩いのは、この身体のせいだ。せきを切ったように流れる涙を、止めることなんてできなかった。


「咲ちゃんが何で辛いのかはよく分からないけどさ、そんな顔で泣かれたら、俺はこのまま自分の部屋になんか行けないよ」

「僕は、男なんだからな!」


 蓮をけるように事実を突きつける。一度言ってしまったことを弁解する気はないけれど、蓮は「もう」と呟いて、再び咲を抱きしめた。


「異性じゃなきゃなぐさめてあげられないなんて、理由にならないから」


 雨に湿った蓮の身体は冷たくて、外の匂いがした。

 離れたいと思うのに、そこから動くことができなかった。

 咲はあふれる涙を彼の肩に押し付ける。


「不覚だ」


 もう一度呟いたその言葉に、蓮は「構わないよ」と笑って咲の髪をそっとでた。

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