第26話

 あの日。


 奈那先輩にフラれてから、数日が経った頃。

 俺は何気なく街を歩いていた。


 別に買いたい物もないし、1人で遊ぶ気分でもないし、かといって、帰ったら宿題もしなければいけないし、ということで、本当に目的もなく歩いていた。


「そういえば、今度、新しいスマホが出るんだっけ」


 ふと目に入った広告を見て思い出した。

 ただ歩いていても暇だから、気晴らしに見に行こうかと、近道するために路地裏に入る。


 その時。

「……ん?」


 不意に足音が聞こえてきた。


 いや、別に足音が聞こえたって不思議じゃないんだが、なんとなくその足音に違和感があった。


 一定のリズムで俺の後をつけてくるような。


 しかも、俺が立ち止まると、その足音も止まる。


 これは、誰かにつけられてるな。


 何が目的かは知らないが、とりあえず関わらない方がいい。早々に人通りの多い所に戻ろうと歩く速度を早めた。


 しかし、ちょうどT字路に差し掛かった所で、

「え? ぐっ!」


 いきなり陰から現れた男に腹を殴られた。

 しかも、そのまま蹴り飛ばされ、尻餅をついてしまう。


「いってぇ!」


 見上げると、煙草を咥えた男が俺を見下ろしていた。


「よう。身内が世話になったみたいだな」

「身内? 何の話だよ」

「しらばっくれてんじゃねぇぞ!」

「あぐっ!」


 また腹を蹴られた。

 しかもさっきよりも遥かに強い一撃で。


「兄貴。流石っす」


 上から降ってきた声に視線だけ向けると、そこにいたのは、以前奈那先輩をナンパしてきた男。


 ああ、なるほど。恥をかかされた報復か。

 それで、仲間を連れてきたのか。


「まあ、こんなやつでも俺の舎弟なんでなぁ。恥をかかされたままじゃあ、面子が立たねぇんだよ」


 胸ぐらを捕まれ、顔に頭突きされた。


「んぎっ!」


 いてぇ。本気でいてぇ。


「このっ!」

「粋がってんじゃねぇよ、クソガキ!」

「おぶっ! あ、ぐぁ」


 反撃しようとした所を逆に殴り返される。

 そのまま顔も蹴られて、腹を踏みつけられて、また蹴り飛ばされて、壁に叩きつけられて。


「げほっ」


 やばい。本当にやばい。

 ナンパ男はどうにでもなるとして、もう1人の男は本当に強い。


 喧嘩慣れしてるなんてレベルじゃない。

 多分、ヤクザとか、それじゃないにしても、それに近い組織のやつに違いない。


 逃げないとまずい。

 だが、壁際に追い込まれていて、そう簡単に逃げられそうもない。


「おら、何よそ見してんだ!」

「え? えぐっ! おえ」


 考えているうちに、腹を殴られた。


 今朝食べたものが逆流してくる。


 本格的にまずい。

 考えがまとまらない。


「きったねぇなぁ、おい!」

「あ、う」


 声も出なくなってきた。

 ナンパ男も攻撃に加わってきて、視界が歪む。

 意識も朦朧としてきた。足も動かない。


「ん? まあまあ、良い財布持ってんじゃねぇか。へー、この学校に通ってんだなぁ」


 財布に入っていた学生証を見られた。

 今さら奪いかえそうなんて気力もない。金を取られて満足するなら、それで帰っていくなら、安いものだ。


 消えそうな意識の中でそう思っていた。


 思っていた。


 が、次の男の言葉に俺の意識は覚醒する。


「てことは、その女もこの学校にいるってことだな」

「っ!」


 その女、と言った。


 名前は出ていない。が、俺の知り合いで、この男が、あのナンパ男の仲間ということは、言っているのは、100パーセント奈那先輩のことだろう。


 この男は、奈那先輩にも何かをするつもりなのか。


「あ? おい、こら、何の真似だ?」

「うっぐぅ」


 俺は男の手を掴み、学生証を奪おうとした。

 しかし、そんな簡単に奪えるはずもなく、またしても殴り飛ばされてしまった。


 それでも、止める訳にはいかない。

 すでに見られてしまったが、それでもこれ以上、奈那先輩の情報を与える訳にはいかない。


 俺はがむしゃらに男に掴みかかり、力ずくで学生証を奪い取る。


「この、うぜぇ!」

「ぐぅっ」


 逆上した男は、何度も何度も殴りかかってくる。頭に血が上ったのか、さっきよりも一発一発が重い。


 それでも学生証は手放さない。


 さっきまでとは違う。

 この男たちをここから離しちゃ駄目だ。


 こいつらが次に行くのは奈那先輩の所だ。

 そんなことはさせない。


 俺がここで時間を稼げば、そのうち誰かがこの騒ぎに気付くはず。

 どんなに殴られ続けても、絶対に気を失ったりしない。失ってたまるか。


「こいつは、本当にうぜぇなぁ」


 中々倒れない俺に業を煮やしたのか、男はナイフを取り出す。

 そして、俺の右足に、突き刺した。


「あ、ぐあぁぁぁぁぁ!」

「おら、おら、おら!」

「う、ぐ、あぁぁぁ!」

 そのまま左足にも刺される。


 痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 熱い熱い熱い熱い熱い熱い。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い。


「舐めてんじゃねぇぞ、ガキ」


 そのナイフを首筋に突きつけられる。

 俺の血が滲むナイフ。体が震える。


 痛みでなのか、恐怖でなのか、もう訳かわからない。それでも、俺は逃げたくない。


 こいつがナイフを持っていたのなら、それこそもう、奈那先輩の所に行かせる訳にはいかない。


「なんだ、その目はよぉ!」

「っ!」


 男はナイフを振り上げる。

 体が動かない。これは、死んだか。


 くそっ。

 何もできないのかよ。


 奈那先輩を守るって決めたのに。


 目に浮かんだのは、奈那先輩の笑顔。

 諦めたような笑顔。悲しそうな笑顔。


 そうだ、決めたんだ。

 奈那先輩を守るって。


 こんな所で俺が諦めてたら、奈那先輩を守ることなんて一生できる訳がない。

 諦めるな。


 俺は、絶対に諦める訳にはいかないんだ!


「っうぁぁぁぁ!」


 感覚の残っていない足を無理やり動かして、俺は男に体当たりする。


「は? ぐへっ」


 予想だにしない攻撃だったようで、男は思いの外、簡単に倒れた。

 そして、そのまま力任せにナイフを取り上げて、遠くに投げ捨てる。


「ふざけんな、てめぇ」

「おい、兄貴に何してんだ!」


 急な反撃に怒り、俺は男たちの猛攻撃を受けた。

 でも、まだだ。ナイフを投げ捨てても、ここで気を失ったら、またナイフを拾われて終わりだ。


 後は警察が来れば。

 自分で連絡したいが、そんなことをしてる隙もないし、なんとかもう少し時間を稼げば。


「おら、死ねやぁ!」

「っ! がはっ」


 背中に激痛が走る。

 後ろを見ると、ナイフ男がナイフを突き立てていた。

 くそ。こいつも、ナイフを持ってたのかよ。


「もう許さねぇ。死ね死ね死ね死ね」

「うっぐ。うぅぅぅ!」


 ナイフを抜かれ、また振り落とされる。

 なんとか力を振り絞って、そのナイフを受け止めるが、少しずつ押し込まれていく。


 もう腕の力もほとんど残っていない。

 もはや力が入っているのかもわからない。


「死ね死ね死ね死ね」


 火事場の馬鹿力。

 そんなものすら発動しない程に、俺の体はボロボロらしい。


 残るのは気力だけ。

 奈那先輩を守るっていう気持ちだけ。


 それだけでこのナイフを受け止めている。


「はは、はははは、ははははははははははは」


 男は狂ったように笑いながらナイフを押し込んでくる。

 ああ、流石に、これで終わりなのか。結局俺は、何もできない、約束の1つも、契約の1つも守れない男だったらしい。


 目の前が黒くなる。



「何を、やってるのかな?」

「は? うべえぇぇぇ!」


 ズドォォン、という、けたたましい音と共に俺の視界からナンパ男が消えた。


 そして、断末魔のような声がドップラー効果のように小さくなっていく。


 なんとか動く首だけでその方を見ると、ナンパ男は数十メートルは吹き飛んで完全に伸びていた。ピクピクと痙攣までしている。


「は? な、なんだ、てめぇ!」


 男は驚きの声を上げている。


 しかし、それを無視して、

「後輩くん。大丈夫? いや、大丈夫じゃないよね」


 優しく抱き抱えてくれたのは、奈那先輩だった。


「奈那、先輩」

「もう、大丈夫だよ。病院に連れていってあげるから、ほんのちょっとだけ待っててね」


 奈那先輩が微笑む。

 それだけで安心してしまう自分がいる。


 本当は立場が逆のはずなのに。我ながら情けない話だ。


 奈那先輩は立ち上がり、男の方へ振り向いた。


「あ? ああ、てめぇが、あいつの言ってた女だな。はは、確かに良い女じゃねぇか」

「君と話す気はないよ」

「へ?」


 奈那先輩は、目にも止まらないスピードで男の前に移動した。

 まるで瞬間移動したような動きに、男はまったくついていけていない。


 目の前に来たことに驚くのと、腹にパンチがめり込むのがほとんど同時だっただろう。


「あぐっ!」


 だけじゃない。

 明らかに素人ではない動きで、奈那先輩は次々に攻撃を繰り出していく。


 あれだけ強かった男が、もはや人形のように奈那先輩に蹂躙されている。


 悲鳴を上げる暇すらないようで、ただ男の殴られる音だけがこの場に響く。


「げふっ」


 力なくその場に崩れ落ちて、やっと男の声が聞こえてきた。


「大丈夫。命を奪ったりはしてないから。そんなことより、早く病院に行こう」

「ど、どう、して、こんな……」


 所にいるのか、と聞きたかったのに、言葉が出なかった。口もあまり動かなくなっているらしい。


 それでも、奈那先輩は、俺の意図を察してくれる。


「この近くに私の知り合いが働いてる喫茶店があってね。そこに行く途中だったんだよ」


 こんな路地裏に店があるのか、と思ったが、そんなことを考えている俺を、奈那先輩は軽々とお姫様抱っこして持ち上げた。


 この体勢はこの上なく恥ずかしいが、それを指摘する体力も、もうない。


「よし。いくよ」

「ま、てや、こらぁ」


 奈那先輩の後ろから、掠れた声が聞こえてくる。しぶとくも、男は気を失ってなかったらしい。


 しかも男は最後の抵抗とばかりに、さっき俺が投げ飛ばしたナイフを持っていた。


「ふ、ふざけ、やがって。お前らの学校はもうわかってんだ。他の仲間も連れてきて、めちゃくちゃにしてやる。めちゃくちゃにしてやるからな!」

「それは困るね。後輩くん。もう少しだけ我慢してね。大丈夫。本当にすぐだから」


 奈那先輩がそっと俺を下ろして微笑む。


「な、奈那、先輩」

「君が頑張ってくれたのは、私のためでしょ? かっこよかったよ」


 奈那先輩は本当に嬉しそうにしていた。


「でも、無理はしないでねって言ったよね。ちゃんと大人しくしておくこと」


 そう言うと、奈那先輩は男の方へと歩いていく。


 怯えた様子のない奈那先輩。

 男も、さっきの奈那先輩の動きを見て、只者ではないとわかっているのだろう。


 ナイフをちらつかせてはいるが、腰は引けていて、完全に男の方が怯えていた。


「お、おい、近寄ってくるんじゃねぇ!」


 男はナイフを振り回す。

 しかし、奈那先輩は、いとも容易くそのナイフを受け止めてしまった。


「私も、後輩くんも、君なんかのせいで、学校生活を台無しにされたくない。でも、君のように狂った人間は、一度、怖い思いをしないとわからないんだろうね」


 片手でナイフを受け止める女子高生。


 それだけでも十分に恐いはずなのに、奈那先輩の声は、それなんかとは比べ物にならないくらい恐怖を与えるものだった。


 いつものように綺麗な声で、別に怒鳴ってる訳でも、凄んでる訳でもないのに、冷たく、それだけで凍りつけられそうな声。


 男もすでに戦意喪失していて、ナイフを動かすこともできていない。


「な、何、を」

「私を敵に回すというのがどういうことか、教えてあげるよ」


 そう言うと、奈那先輩はナイフを自らの胸の辺りに持っていく。


 そして、

「は?」


 奈那先輩は自分の胸にナイフを突き立てた。

 深々と、体を突き抜けそうなくらいに。


「なっ!」


 その瞬間、夥しい量の血が吹き出した。

 心臓を貫いた。

 血液が流れている。違う。吹き出している。


 俺の足から流れる血なんて目じゃない。


 言い方はふざけているが、まるで噴水のように奈那先輩の胸から血が吹き出す。


「な、奈那、先輩!」


 突然の光景に意味がわからず、俺は這うように奈那先輩の元に行く。


「あ、ああ、あ」


 男の顔は奈那先輩の血で赤く染まり、悪魔を見たような怯え様で、尻餅をつく。

 しかし、奈那先輩は微動だにせず、男を見下ろしていた。


「この痛みも久しぶり、だね」


 当の奈那先輩は、平然とした様子でナイフを引き抜いた。その勢いで、また血が吹き出す。

 人間の体に、これだけの血が流れていたのかと思わせる程に大量の血だ。


 だというのに、奈那先輩はフラつくこともなく、男に近付く。


「ば、けもの」

「そうだよ。化け物だ。ふふ、君が敵に回そうとしているのは、化け物なんだよ。どうする? 本当に私を敵に回す」

「ひっ!」


 奈那先輩の問いかけ。

 男は全力で首を横に振る。


「そう。それはよかった。もう二度と、私たちと関わらないって誓えるね?」

「……っ!」

「良い判断だね。お仲間にも伝えてもらえるね」

「……っ!」


 男は声が出ないようだ。


「じゃあ、あっちのお仲間も連れてどっか行ってくれるかな?」

「ひ、ひぃ!」


 奈那先輩がポンッと手を打ち鳴らすと、男は一目散に伸びている男を連れて逃げていった。


 残されたのは、俺と血だらけの奈那先輩。


 奈那先輩は振り向いて、俺の元に駆け寄ってくる。


「ごめんね。すぐに病院に連れていくから」

「お、俺なんか、より、な、奈那先輩、が……」


 大怪我なんてものじゃない。いつ死んでもおかしくない血の量だ。


 奈那先輩こそ、病院に行かないと。


「大丈夫。大丈夫だよ。私は大丈夫」

「そんな、馬鹿な」

「ほら」

「っ!」


 奈那先輩は急に服を捲し上げる。

 露になる胸部。いや、大事な部分は流石に隠れているが、綺麗な双丘の下一部が見え隠れしている。


 俺は目のやり場に困りながらも、ふとあることに気付く。


「傷が、ない?」


 あれだけ深々と刺したはずのナイフの痕が、跡形もない。血が流れ出ていたであろう場所が、跡形もなくなっている。


「どう、して?」


 あり得ない光景に、言葉を失う。


 あれだけの血を流して、大丈夫であるはずがない。


 あれだけの血を流して、平然としてられる訳がない。


 あれだけの血を流して、無傷であるはずがない。


 あり得ない。そんなことはあり得ない。

 そんなのまるで。


「これは、わたしが化け物だから、だよ」

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