不感症の水
水汽 淋
第1話 死体の話
死体がある!
誰かがそう叫んだのを聞いて、私たちは一目散に廊下へと飛び出した。あっちにあるらしいよ。えー嘘ー。スマホスマホ! という喋り声の中で、一際はっきり聞こえる声が、また私たちを導いた。
体育館にあるんだって!
夏の風が窓から吹き込んでくる。先生が私たちを食い止めようと叫んだり、手を広げたりする。見に行こうぜ、と男子が先生の横を通り抜けた。窓から見える真緑の葉っぱがひらひらと手を振っている。
私たちが体育館につくと、死体は確かにそこにあった。バスケットボールのコートの真ん中にあるあの半球。あの中に、しなだれたあと支えられるものをなくして倒れたような姿勢で、死体が横たわっている。誰かがうわ、美人……と言った。誰もそれに反応しなかったのは、皆が同じことを思ったからだろう。床にくずれおちた髪の毛は幾本もの川を作って、煽情的な美しさをかもし出していた。
うちの制服ではなかった。学ランなのかブレザーなのか分からないうちのと違って、彼女の体は学園ラブドラマで着られてそうなセーラー服を纏っている。
誰かが押し出されるようにして、みんなの前に出た。
おい、やめろよとかいって戻ろうとするけど、仲間たちがそれを許さない。結局、彼は諦めてその死体へと近付いていった。言うこと聞いちゃうから増長するのに、と思うけど、本人も興味深げに近付いていったから、内心満更でもないのだろう。
それで、みんなの注目を集めながら、死体に触ろうかどうか、迷っているらしかった。手は所在なさげにふわふわと宙を漂っていて、頭は死体と見守る私たちの間に置いて目だけが忙しなく動いている。新太と死体を取り巻くみんなが、次の展開をじっと見守っている。
おい、脈とってみろよーという言葉が体育館に響いて、新太は膝をついて恐る恐る死体の腕を取った。それはとても華奢な腕だった。白に純白を塗りたくったような綺麗な腕。夏服の袖が肩にずり落ちて、新太が息を飲むのがわかった。二本指を手首にあてた。目をつむっている。動脈の位置はそこじゃないのに、自信深く頷いて、「脈は、ありません……!」と言った。
その時だった。体育教師の佐原が怒鳴りこんできた。私たちはクモの子を散らすように逃げ帰った。死体と取り残された新太は、この騒動を代表して先生方に怒られるだろう。
教室に戻った私たちは、窓から救急車と警察が来るのを眺めている。
「新太、今日も来てないじゃん」
ゆっこが箸を私に向けながら言う。
「うわ、しつけなってな〜。親の顔が見てみたいものだわ」
「ご覧なさいよ、今日もまたコンビニパンよ。だからちいちゃいのよ」
私と明菜はオホホホと二人一緒に笑う。手が汚れるのが嫌いだから、とマイ箸を常備する女の指と箸は神経が繋がっているのだ。
「うるさい! 私がしたいのはその話じゃないの! ほら、どう思うのよ、ゆめ」
私は卵焼きを頬張りながら、
「なんで私が何か思わないといけないのよ」
「だって、幼なじみじゃん」
「えっ、初耳なんだけど」
明菜がしゅばっ、とテニス焼けのくっきりとした顔を私に向ける。明菜のゴシップ好きはもはや病的なもので、クラスの恋愛事情にやたらと精通している。私はそこまで興味がないけれど、男女両方からよく相談を受ける姿を見かける。今だって私と新太の、あらぬ恋事情を考えているはずだ。
「いや、幼なじみと言っても家近いだけだし。それに仲良いなんて言えた時期は、幼稚園くらいだよ」
「小中高同じなくせに〜。もう三日も休みだよ? 絶対死体の祟りだって」
クラスに戻ったあと、みんなが興奮に顔を上気させて男女関係なく喋りたくっていた。あの死体はなんなんだ、新太だけ怒られてやんの、先生が帰ってこないので騒ぎたい放題だった。
ゆっこが、クラスで一番イケメンと真顔で言っていた高橋くんと、そんな話でキャーキャー盛り上がっていたのを、私は横で聞いていた。
こうして私に調査を頼んできたのも、この話の続きになるものを探しているからだろう。担任も事件について詳しくは教えてくれなかった。
「確かに。あれ触ったの、高田くんだけだもんね。よく触れたわほんと」
明菜は自分の体を抱きしめるようにすくめた。ゆっこが激しく頷く。
「でしょ、あいつ絶対やばいって! ゆめ、どうなってるか聞いてきてよ!」
うええ、と私は思い切り嫌な顔をする。
「そんなの、絶対、やだ!」
といったはずの私は新太の家の前にいて、手にはお見舞いのゼリーが入ったレジ袋が握られてある。
SNSでもなんでも使って聞き出せばいいじゃない、と私は言ったけど、誰からの連絡でも、新太は適当な返事でごまかしてくるらしい。LINEで電話をかけてみたけど、見事に不在着信の表示がでるばかりだった。
覚悟を決めて、インターホンを押した。
しばらく待っても、返事はなかった。しょうがないので帰ろうとすると、階段を降りる音が聞こえてきた。もう一度鳴らしてみると、女の子の声が聞こえた。
「はい……?」
「あの、すいません、
「……どうぞ、入ってください。部屋にいるので」
高田家の家族構成はパパ、ママ、兄、新太だったはずだ。でもこの声は、新太ママの声ではない気がした。
「お邪魔しまーす?」
家の中は人気がなかった。子供の頃の思い出から、二階の子供部屋の扉をノックする。
「新太、いる? お見舞い、持ってきたよ」
返事はなかった。
「新太? なんか返事してよ」
無視。
家の静けさだけがやけに耳に残る。まるで私だけこの家に取り残されたみたいだ。外からカラスの声が聞こえてきた。
何度もノックしたがなんの反応も返ってこない。私は段々と苛ついてきた。
「入るからね」
部屋の中は暗かった。カーテンが閉めっぱなしになっているせいだ。勉強机には中学のバスケ部を卒業したときの寄せ書きが飾ってあり、タンスから無造作に詰め込んだ服が覗いている。床にはアイドルが表紙の雑誌が置かれていた。私は電気をつけた。ベッドの上に人の山ができている。
頭からすっぽりと布団を被り、呼吸のために小さく上下に動いている。
「ゆめか……?」
声の主は、どう考えても新太ではありえない。くぐもった声は高く透き通っていて、それは女性であることを示していた。しかし高田ママの声でもない。私はインターホンに出た女の子のことを思い出した。そういえば、あの子は一体何者だったんだろう。
「そうだよ、あなたは? 新太はどこ」
「俺が、新太なんだよ」
布団から現れたのは、女の子だった。それもとびきり美人な。
「いや、性別が、顔も全然……」
顔が違う。高田家の遺伝子ではこの顔を作り出すことはできない……といったら失礼だけど、高田ママは可愛い系であるのに対して、この子はモデルのような美人なのだ。
「でも、ほんとうなんだ。それに、見覚えがあるだろ、ゆめ」
新太と名乗る美女は、私の目をじっと見つめる。その瞳には困惑とすがるような必死さがあった。でも私には全く見覚えがない。
すると、彼女はベッドから降りた。さらりと長く、水のように滑らかな髪の毛がするりと重力に従って垂れる。私は、あ、と思い、
「ゆめも、あの体育館にいただろう」
その握ってしまえば華奢な腕を凝視する。
「俺、あの死体と同じ体になってるんだ––」
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