第5話
壁のように積み上がっていた段ボール箱は、すっかり片づいた。
ただ、まだどの荷物もとりあえずの置き場所に収まっているという具合で、どれも居心地が悪そうな様子がある。
住みやすい部屋にするには時間がかかりそうだ。
入学式を終え、大学生活がはじまって最初の週末。友だちどころか顔見知りすらできず、サークルに入る気も元からないので、何の予定もなかった。
引っ越して早々だが、地元に帰ることにした。もちろん、ホームシックになった訳じゃない。まほろの見舞いのためだ。
まほろが一般病棟に移ったのは、わたしの引っ越し直後だった。だから、事故のあと、まほろとはガラス越しにしか会うことができなかったのだ。
土曜日の早朝、戸締まりをしっかり確認し、部屋を出た。
まだバスの路線がわからないので、最寄り駅までは三十分かけて歩いた。駅に着いたころには通勤ラッシュと重なり、改札から出てくる人波に流されそうになった。さすが、地元よりも東京に近い都市なだけある。
下り方面の列車は比較的空いていて、座席を確保することができた。この駅で八割方降りるのだから、当然と言えば当然だ。
ここから乗換は一回。自宅の最寄り駅のひとつ手前で降りて、駅から出ている市内の循環バスで病院へ向かう。
昨日の夜、まほろの自宅に電話すると、お母さんが出た。明日お見舞いに伺いたいと伝えると、快諾してくれた。面会時間は十時から十五時までだという。
不幸中の幸いと言っていいものか、外傷がそれほど酷くなかったため、手術は一度で済んだらしい。もし重度の怪我を負っていた場合、手術の回数は増え、面会謝絶の期間も延びていただろう、ということだ。
――次の行動を決めるためには、人生のゴールから逆算してかなきゃいけないんですよね。
一年半ほど前、真面目な顔をしたまほろの言葉を思い出す。
あのとき以来、まほろは進路のことについて何も話さなかった。
何事もなければ、まほろも今ごろ三年生に進級し、受験生になるはずだったのだ。
もしかしたら、人生を逆算して、進むべき道を見つけていたのかもしれないのに……。
総合病院経由のバスは、高齢者でいっぱいだった。
顔見知りや通院仲間が多いのか、通学バスとは違ってとてもにぎやかだ。声を張り上げてお話している人がいるから、みんな負けじと声が大きくなるのだろう。
『総合病院前』の停留所に停まった瞬間、わたしは即座に席を立ち、用意しておいた小銭を機械に通し、バスを降りた。わたし以降の乗客がなかなか出てこないのを見ると、やはり最初に降りておいてよかったと思った。
時刻は十一時半。受付で面会の許可をとる。院内図を受け取り、エレベーターに乗りこむ。三階の三〇七号室。ひとり部屋だという。
エレベーターを降り、左手に進む。廊下の右側に病室が並び、反対側は中庭に面した窓になっている。日当たりがよく、看護師や患者が行き交う廊下は明るかった。
目的の三〇七号室に辿り着く。『茜谷まほろ』のネームプレートが、ドアわきの小さなホワイトボードに貼りつけられていた。
深呼吸をひとつして、ノックする。押しこめた緊張が顔を覗かせたのか、ノックの音は弱々しかった。
ドア越しにスリッパの音が近づいてくる。ドアが開けられ、まほろのお母さんが出迎えてくれた。
「佐保ちゃん……遠いとこからわざわざありがとう。朝早くて大変だったでしょう」
「いえ、そんなことないです。こちらこそ、お邪魔してしまってすみません」
わたしは駅前の花屋で購入した、バスケットに入った小さなフラワーアレンジメントを差し出した。オレンジと黄色を織り交ぜた色あいのものだ。
まほろのお母さんはバスケットを受け取り、顔をほころばせた。
「まあ、綺麗……ありがとう。見て、まほろ……」
お母さんは窓際に寄せられたベッドへと歩み寄った。サイドボードに花を置く。
ドアの前で立ちすくんでいるわたしに、お母さんは振り返ってゆっくりとまばたきをした。
重たい一歩を踏み出す。ベッドに近づくほど、心臓を絞る力が強くなるかのように胸が苦しくなる。
洗ったばかりのような、真っ白い布団。窓にかけられた薄いカーテンを通したやわらかな陽光が、ベッドの白を強調している。
そんな白一色に包まれて、まほろは眠っていた。
呼吸機をつけ、点滴もしているようで、布団の隙間からは管が何本も伸びている。顔にも擦り傷を負ったのか、テープが貼ってあった。頭には包帯が巻かれ、髪の毛はまったく見えなかった。
まほろは、本当にただ眠っているように見えた。機械の音がうるさくて呼吸の音は聞こえないが、よく見れば胸のある位置の布団が規則正しく上下している。もともとまほろは色白だから、病的に青白いという訳でもなかった。
その頬に温度があるのか……わたしはつい手を伸ばそうとしてしまい、はっとして引っこめた。
今のまほろが、迂闊に触れたら傷ついてしまいそうなほど、儚く脆く思えたからだった。
「いいのよ。触ってあげて。お医者さまに、外界との接触をなるべく多くしてあげてくださいって言われてるの。意識がなくても、話しかけられたり触れられたりしてるのはわかるんだって」
お母さんの言葉に後押しされ、わたしはまほろと目線をあわせるようにしゃがみこんだ。
床にひざをつき、手をそっと伸ばす。器具をずらさないよう、こめかみのあたりに指を置く。そっと撫でる。まほろの肌はさらっとしていて、あたたかかった。
「まほろ……わたしだよ。わかる?」
うしろでまほろのお母さんが鼻をすする音がした。まほろの横顔を見つめるけど、まつ毛の一本も動かない。
「わたし、大学合格したよ。引っ越した部屋は狭いけどさ、ちゃんと掃除しておくから……いつでも遊びにきてよ」
呼びかけてもまほろは起きなかった。そのことに少なからずショックを受けていて、その一方、何を自惚れているんだと内心呆れてもいた。わたしがまほろの目覚めの鍵になれるとでも思っていたのか。
わたしは目をつぶり、涙の膜の厚さを整え、呼吸を落ち着かせた。立ち上がり、まほろのお母さんと向きあう。
「あの……わたしにできることがあったら何でも言ってください。いつでも駆けつけますから」
「佐保ちゃん……ありがとう。でも、大学生は忙しいだろうし、県外から来るのも大変でしょう? 嬉しいけど……まほろも喜ぶだろうけど、無理はしないで」
まほろのお母さんは、涙を指で拭いながら言った。
「わたしが会いたいんです。まほろは……わたしが大学に合格したと決まる前から、先輩の部屋に遊びに行きますって言ってくれていたんです。周辺のお店とか観光スポットを調べて、勝手にツアーを組んだり……」
「まあ、まほろったら……佐保ちゃんにプレッシャーをかけてたのね」
「そんなことないです。単純に嬉しかったんです。わたし、そんなに仲良い人、できたことないので……」
ぽろっとこぼしたあとで、少し恥ずかしくなった。この歳になってまともに友だちがいないだなんて、みじめだなと自分でも思う。
まほろのお母さんとは、この事故のあと、はじめて面識を持った。おそらく、このようなことがなければ会うことはなかっただろう。
そのくらい細い縁だったのに、やはりまほろと雰囲気が似ているせいか、ふと本音が出てしまう。わたしが、娘の「厄介な友だち」になっていないか少し心配になる。
しかし、お母さんは迷惑と感じている素振りも見せず、まほろを見つめながら口もとを緩めた。
「私、まほろにちゃんと友だちがいるか不安だったの。だって、昔から学校のこととか、クラスメイトの話をしてくることはなかったし、休みの日に誰かと遊ぶなんてこともなかったんだもの。佐保ちゃんがはじめてなのよ。嬉しそうに部活のことを話してくれたり、お出かけの約束をしたって喜んだり……」
まほろはそんなにわたしのことを話していたのか。だから、お母さんとはじめて会ったとき「はじめまして」と言ったら、「知らない人って気がしない」と言っていたのか。
「まほろにひとりでも仲良しの人がいたってこともだけど……その人が本当にまほろの存在を必要としてくれてるってことも、とても嬉しいの」
お母さんに手を取られる。お母さんの手はまほろよりも少し大きかったが、漫画を描いていると打ち明けたときの握手と似ている気がした。
「佐保ちゃん、日帰りで帰るの? それとも、お家に泊まっていくの?」
「ちょっとだけ家に寄って、今日中に帰ります」
「そう……気をつけてね」
わたしは最後にまほろを見つめ、心の中で呼びかけた。
まほろ、まほろ。
この間まで、わたしに呼ばれると、まほろは子犬のように喜んで返事をしてくれた。だけど、今は目をあわせることもできない。
「今日はお邪魔しました。また来ます」
まほろのお母さんは病室の外まで出てきて見送ってくれた。充血した目を細めて笑う。泣き顔じゃなかったら、きっとまほろと同じ琥珀みたいな綺麗な瞳をしているのだろう。
まほろの瞳の色と、そこに光の粒が散りばめられる瞬間がまた見たい。
病院を出て、来たときとは逆回りのバスに乗り、駅へ戻った。電車に乗り換え、自宅の最寄り駅へと向かう。
最寄り駅から自宅までは、歩いて十五分ほどだ。高校の三年間、毎日通った道。今はまだ見飽きた景色としか思えず、懐かしさは欠片もない。いつか懐かしくて胸をしめつけられる日が来るのだろうか。ただ、花の時期だから、あちこちの家の庭で桜や桃、木蓮などの花木に目をうつろわせながら歩くのは退屈ではなかった。
二週間ぶりの我が家が見えてきた。白い壁に、群青色の瓦屋根の二階建てだ。周りの家々のように洒落た花木などなく、殺風景極まりない庭。車庫には車が二台停まっている。めずらしく、土曜日にふたりそろって休みらしい。
玄関の引き戸を開ける。田舎なので、明るいうちは鍵などかけない。ただいま、と声をかける前に、居間から母が出てきた。インターホンを押しもせず入ってくる客は何者だ、と言いたげな顔だ。
しかし、靴を脱いでいるのがわたしだと気づくと、母はいつもより高い声で「おかえり」と言った。歓迎しているというより、驚いているような声音だ。
「どうしたのよ、連絡も寄越さないで。びっくりするじゃない」
「ごめん、急に思い立ってさ……あ、ちょっと忘れもの取りにきただけだから、今日中に帰るよ」
「忘れもの? ばたばたしながら荷造りしたもんね、しょうがないわ。でも、わざわざ取りに来るくらいなら、ダンボールに詰めて送ってやったのに」
「結構わかりにくいとこにあるからさ。それに、お見舞いのついでに寄っただけだし」
母の声を背に階段をのぼり、二階の自室へと向かう。
「そうだ、茜谷さん、大丈夫なの?」
わたしは階段を一段残して足を止めた。手すりに掴まり、うつむく。
わたしは普段から母にまほろのことを話していたわけじゃないが、事故にあったとなれば話は別だ。一度も会ったことはないが、わたしと歳が近いためか、もはや他人ではないというように心配していた。
「うん、今は一般病棟に移ってる。まだ意識は戻ってないみたいだけど」
笑顔で言っていいものか、表情を押し隠すべきかわからず、母には顔を見せずに言った。わたしは「そう……」という母の暗い声を背中で聞き、最後の一段に足をかけた。
自室は庭先よりも殺風景を極めていた。本棚やベッド、こたつが運び出され、残っているのは小学生のころから使っていた学習机のみ。それももう使わないから近々処分予定にある。もちろん、中身は空だ。窓にかかったカーテンは、アパートの窓には小さすぎたため、取り残されている。
クローゼットの扉を開け、二段目の引き出しを引いた。中には防虫材とともにマフラーやセーターなどの冬物が詰められている。それをひとつずつ出していくと、紙袋が出てくる。
去年の十一月……受験に集中するためにしまいこんでから、ずっと手に取ることはなかった。
紙袋の中身は、漫画の道具だった。原稿用紙、ペン、インク、スクリーントーン。アイデアを書きためたノートや、デッサン人形も入っている。
本当は、忘れものじゃない。
引っ越しの荷造りをしたとき、意図的に放置していたのだ。大学生にもなって漫画を描きつづける気はなかったし、自分で描いたものを読み返したいと思うこともないだろうと思っていた。
まほろといっしょにいた……いっしょに何かをしたという証拠がほしくなっただけかもしれない。
わたしとまほろは、あるときを境に、あの美術室で漫画ばかり描くようになった。
長年使ってきた道具を見ているだけで、記憶が掘り起こされてゆく。
わたしは「漫画家になりたい」という明確な意志があって漫画を描きはじめたわけではない。
絵を描きはじめたのは、小学三年生のころ。女児向けの漫画雑誌を読み、好きな作品ができると、自然と絵をまねして描いてみたくなった。
キャラクターを自由帳に描き写してみたものを友だちに見せると「すごいね」と褒められた。「本物の漫画家みたい」とは子どもながらに大げさすぎると思ったが、嬉しかった。同じ漫画雑誌を読んでいる子の中には、〇〇というキャラクターを描いて、と自分の自由帳を持って来る子もいた。
リクエストに応えているうちに模写だけではもの足りなくなり、自分でキャラクターを作ったり、ストーリーを考えはじめた。見よう見まねでコマ割りをし、キャラクターを描き、吹き出しを加え、漫画のようなものができあがった。
わたしも昔は怖いもの知らずな子どもだった。自作の漫画をこれまた友だちに見せたのだ。真似して描いたイラストよりも、友だちの反応は大きかった。つづきをせがまれ、せっせと描いているうちに、小学校を卒業するころには、自由帳五冊分にもなった。
中学生になると、お小遣いを貯めて漫画を買うだけでなく、漫画を描く道具を買うようになった。道具は高く、買い揃えるまでには、お年玉を含めても一年以上かかった。最初に買ったGペンは、思うままに描いているうちに潰れてしまい、やっと道具が揃ったころには買い替えないといけなかった。
それから、わたしはようやく「漫画のようなもの」を抜け出し「漫画」を描けるようになった。自分で言うのもなんだけど、中学生にしては結構かたちになっていたと思う。
だけど、友だちに見せることは滅多になくなっていた。高校になってからも、誰にも話すことはなかった。漫画を描いていることを恥ずかしいと思いつつ、それでも描くのをやめることはなかった。
高校二年の冬のはじめ。袖にトーンの切れ端さえ貼りついていなければ、まほろにもバレなかったのに。
だけど、もしまほろが目ざとく見つけていなかったら、未来は確実に変わっていただろう。まほろといっしょなら楽しい高校生活になってはいただろうけど、現実ほどではなかったはずだ。
まほろがあのトーンを見つけてくれてよかったなと、今ではそう思っている。
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