14歳の夜尿治療

はおらーん

第1話 専門外来


「本当にいくの?めっちゃイヤなんだけど」

楓花は不満そうな顔でお母さんに聞いた。


「当たり前でしょ、何週間前から予約とってると思ってんのよ。今日という今日は首にヒモくくりつけてでもひっぱっていくからね」


お母さんは楓花を脅すような口調でまくしたてた。楓花が手にしているパンフレットの表紙には、クリニックの名前だけが小さく印刷されている。パンフレットを開くと、おねしょ、夜尿症、アラーム治療…、楓花にとってはどれも胸に刺さる言葉が並んでいた。今日は夜尿症治療専門の外来に行く約束になっている。専門的な治療ということもあり、なかなか予約がとれなかったらしい。いつもは部活を終えて7時ごろ帰宅する楓花だが、今日は歯医者に行くと嘘をついて16時ごろ帰ってきた。陸上部の顧問や同級生に、夜尿治療のために部活休みますなんて口が裂けても言えない。


「お母さん先に車で待ってるから、着替えたらすぐ来るのよ」

「はいはい」


いい加減な返事をしながら楓花は自室に戻った。カバンを机の横に置いて制服を脱ぎ始めた。セーラー服とスカートをベッドに放り投げるついでに、ベッドの横に置いてある紙おむつのパッケージを流し見る。「おむつとも長い付き合いだなぁ」とため息をついた。楓花は1次夜尿がずっと治っていない。つまり、生まれてからおねしょをしなかった日はほとんどないということになる。10歳を過ぎてからは毎日するというわけではないが、それでも週の半分以上はおむつのお世話になる日が続いている。成長期に入って身長が伸びてからは、ずっと大人用の紙おむつになった。サイズだけが理由ではなく、一晩のおねしょの量が増えたのも一因ではある。夜尿外来に行くのにお出かけ用の格好をしていくのもおかしいかなと思い、適当なシャツとパーカーを来てお母さんのミニバンに乗り込んだ。


クリニックまでは車で40分ほどかかった。家からは結構な距離があるが、知り合いと会う可能性も低いので楓花にとっては都合がいいとも言える。クリニックに入ると、受付で問診票を渡された。身長体重などの基本情報、下半分は現在の夜尿の様子について書く欄になっている。楓花とお母さんは待合室の空いている席に肩を並べて座った。楓花は顔を上げて待合室を見渡した。お母さんと一緒に来ている小学生くらいの子たちが一番多い。絵本を読んでいる低学年くらいの男の子や、恥ずかしそうに俯いて座っている高学年くらいの女の子。一人で来ているらしい高校生や大人の人もいた。先ほど一人で診察に入っていった高校生くらいの女の子は、受付で大きなビニールのパックを受け取っている。トレーニング用パッドを書いてあり、パッケージの前面には大きなナプキンのようなイラストが印刷されている。少女は持ってきていた大きなリュックサックにパッケージを詰め込んでクリニックから出ていった。


「自分で書ける?」

心配そうな顔で聞いてくるお母さんから無言でペンをひったくると、問診票に目を落として質問事項を確認した。最初は学校の身体検査の項目と変わらないようで、身長や体重を記入する。既往症や飲んでいる薬などもない。そして夜尿に関する質問に入る。


夜尿の頻度は週に半分以上。夜尿の量を答える欄もあったが、中学生になってからはグラム数は計測したことがない。チラッとお母さんの方に目を向けると、「たまにおむつから漏れるくらいって書いとけばいいから」と言われた。かわいらしい丸文字で、「たまにオムツから漏れる」とだけ自由記入欄に書いた。過去の夜尿治療に関する欄になったので、問診票をはさむバインダーでお母さんの脇腹をつついて、「ん!」とだけ言って問診票を差し出した。


「アレ、何年生の時だっけ?」

「ん~、最初に行ったのは4年生じゃなかった?」


「そうだっけか。学校の自然学校前に行ったから4年生だっけね。」

「そうだよ、鼻にシュってする薬もらったじゃん」


楓花が初めておねしょで病院に行ったのは4年生の時だった。夜尿症治療の専門というわけではなく、地元の総合病院の泌尿器科に1年ほど通っていた。ほとんどが検査と服薬治療、生活習慣の見直しで、楓花にとってはあまりいい思い出とは言えない。晩ごはんのときの取水制限や、泊まりの行事で使った点鼻薬は幼い楓花にとっては大変なことだった。何より一番イヤだったのは、あまり夜尿に関心のなさそうな医者だった。普通の泌尿器科のため、おそらく夜尿で来院している人はほとんどいなかったと思われる。楓花の診察時には、「普通ならそろそろおねしょしなくなるんですけどね」や、「おねしょして恥ずかしい気持ちある?自覚持たないとなかなか治らないよ」など、楓花自身とても傷つく言葉をかけられた。医者も悪意があったわけではないと思うが、知識や経験が少なかったのか、ネットで見た夜尿症の治療法と変わらないことしかしてくれなかった。


お母さんは楓花の小学生時代の夜尿通院歴について事細かに問診票に記入した。当時使っていたミニリンメルトやバップフォーなどの薬や検査などについても書いた。レントゲンや膀胱に貯められる尿量から、混合型の夜尿症だと診断されていた。


「27番の患者様―!診察室へお入りください」


診察室から顔だけ覗かせた看護師さんが番号を呼んだ。ここでは個人のプライバシーを守るために待合室では名前は呼ばれない。楓花とお母さんは問診票の右上に大きく書かれた27の文字を確認して一緒に診察室に入る。



「こんにちは。比嘉楓花さんですね」

40代くらいの優しそうな先生だった。楓花の緊張をほぐそうとしたのか、にっこりとほほ笑んで楓花と視線を合わせてくれた。


「はい…」

緊張して上ずった声で楓花は答える。瞬間小学生の時のイヤだった思い出がよみがえった。自分のおねしょ癖について一体何を言われるのだろうと身構えた。


「今、中学2年生なんだってね。大変だったよね。でも君自身が悪いんじゃなくて、心や体がどこかに問題があるだけだから、まずはそこを一緒に探っていこうね」


物腰の柔らかい物言いと優しい言葉に楓花はホッとした。


「夜尿症って他の人には理解されにくいんだよね。治らないことを叱られたり、お友達にバレないように苦労したりとかさ。ここの患者さんはみんなそういう人たちだからね。まずは比嘉さんだけじゃないって安心してほしいな」


以前の夜尿治療とは違う優しい言葉に楓花は少し涙目になる。治療を辞めてからも夜尿をなんとかしたいという気持ちを持っていたし、中学生にもなっておねしょが治らないなんて自分以外には存在しないと勝手に決めつけて、大きなコンプレックスとして抱え込んでいた。


「お母さんもご苦労されていることでしょう。自分の子育てがダメだったんだと自己嫌悪に陥る方もいらっしゃいますが、医学的見地からそれは明確に否定できます。楓花さんの夜尿は何か原因があってのことですから、お母さんも治療にご協力いただけると助かります」


お母さんは、「ありがとうございます、よろしくお願いいたします」と言って深々と頭を下げた。


診察の内容や検査自体は小学生の時の治療と大きくは変わらなかった。尿検査やレントゲン、問診などだった。ただ前回と異なるのは、すべてにきちんと説明があることだった。どういう検査結果が出たらどうだとか、統計的に何歳ごろに治る子が多いとか、事細かに先生が説明してくれるので心配は少なかった。すべての検査を終えて再び診察室に戻ると、クリアファイルに挟まった何枚かのシートを看護師さんから渡されて説明を受けた。


「これは夜尿管理シートになります。次の診察時までに毎日の夜尿状況を調べて、それを今後の治療法の方針の決定に役立てます。尿量や頻度によって投薬治療、生活指導、アラーム治療など様々な方法があります。比嘉さんはたしか夜はおむつでしたよね?」


「はい」と答えると、看護師さんは小冊子のおむつ着用者のページを開きながら、記入項目の説明を続けた。パンフレットには中学生くらいの女の子が紙おむつを履いておねしょしているイラストが載っており、本当に自分だけじゃないんだなと楓花は実感できた。投薬と生活指導は経験があったが、アラーム治療というのは聞いたこともなかった。待合室でお母さんが支払いをしているのを待っているとき、ピスコ―ルという夜尿アラームのポスターが貼っているのが目に入った。どうやら専用のパッドにおねしょをするとアラームが鳴る商品らしい。「夜中に起きるのヤダな~」とぼんやり思いながらクリニックを後にした。



クリニックから戻ってくると、19時を過ぎていた。お母さんは帰りに寄ったスーパーで買ってきた食材を冷蔵庫にしまいながら晩ごはんの準備を始めた。楓花はソファに座って帰りにもらった小冊子と記録シートに目を通していた。次の診察は2週間後の予約になっている。それまでに記録シートに夜尿の記録を残して次の診察で提出することになっている。記入欄には、おむつの着用の有無、夜尿が出た場合の重量、途中で起きたかどうか、などを記入するところがあった。めんどくさがりの楓花は、どうせ毎日履いてるしと思い、おむつ着用の欄は2週間分先に〇をつけておいた。


帰りに寄ったスーパーでは、晩ごはんの食材以外におむつの重量を計るためのハカリも購入していた。さすがに食材や調味料のハカリでおねしょしたおむつの重さを計るわけにはいかない。楓花はハカリと記録用紙を持って自室に戻った。普段使っている紙おむつをパッケージから出してハカリに置いてみると、83gと出た。明日の朝は、おねしょしたおむつを計って83gを引いた数値を記入すればいい。楓花は計ったおむつをベッドの上に放り投げて宿題に取り組み始めた。







夜尿管理シートをもらって3日目、初めて記入のタイミングがやってきた。シートはすぐに書けるように勉強机の上にファイルに入れたまま置いている。


「つめたいナァ…」

ほぼ毎晩のこととはいえ、おねしょが不快なことに変わりはない。気だるそうにベッドの横に立つと、手早くハーフパンツと漏れを防ぐためのオーバーパンツを脱いだ。最初の2日間は自分なりに気を使って水分を摂る量を調節していたが、昨日の晩ごはんが辛めのカレーだったのもよくなかったのかもしれない。オーバーパンツを脱ぐと黄色く染まって垂れ下がったおむつが見える。おしっこの量が多いときは、サイドを破るよりそのまま脱いだ方が安全だと過去の経験から学んでいる。膝まで刷り下げると、トスンと音を立ててフローリングの床に落ちた。


「今日はまだ軽めかな…?」

長年夜尿と付き合っていると、起きた時のおむつの感覚で量の多い少ないはある程度感知できる。おむつから漏れるほど多い日があることを考えると、今日は少なめと言える。こないだ買ってもらったハカリは、ベッド横の棚の上に置いてある。器用にくるくると丸めてテープで留めると、そっとハカリに載せた。


「357グラムか… 353引く83は、っと。274!」

小学生のころにそろばんを習っていたので暗算は早い。ペン立てに置いてあるお気に入りのシャーペンで管理シートの尿量の欄に274と書いた。クリアファイルにはシールも同封されている。昨日と一昨日は太陽マークのシールを貼れたが、今日は傘マークのシールを貼る。ちょっとこどもっぽいと文句を言いたくなったが、いざ貼ってみるとやっぱり太陽シールを貼りたい気持ちが出てくる。女の子はみんなシールが好きなのである。丸めたおむつは、においを防ぐビニールに入れてから部屋に置いている専用のごみ箱に入れた。

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