サヨナラ、小さな罪/その曲の名は…
秋色
第1話 秋の野
電車の中には、この山の風景に無関心な様子の青年がシートに斜めに座り、片方のこめかみを窓ガラスに当てている。左手にはスマートフォンが握り締められていた。窓に向かってはいても、青年は車窓から見える初秋の風景を見ているわけではなかった。観光目的で今日この電車に乗っているのではないし、それに故郷に近いこの場所の風景は青年にとって見飽きたものだったからだ。
――ちぇっ ついてねーな――
青年の名前は富田暁斗。週末に一泊の出張に出掛けるのには慣れていた。だが、自家用車が出張先で故障し、鈍行列車で戻って来る事になるという不運に見舞われたのは初めてだ。出張先は新幹線や特急列車が通る場所ではなく、山を超えた他県だったので他の手段はなかった。
彼の座っているボックス席の向かい側には、外国映画に出てきそうな一組の老夫婦が物珍しそうに車窓からの風景を楽しんでいた。時々指で遠くの何かを指し、興味深そうに見つめている。
――この景色の一体何がそんなに珍しいんだろう? よっぽど都会で暮らしているんだろうな――
暁斗がそんな事を考えていた時、突然電車は停まり、
――お急ぎのところ、誠に申し訳ございません。ただいま線路整備のため、一時停車しています。安全が確認でき次第、発車致します――
暁斗は溜息をついて、時刻を確認した。午後一時半だ。順調に電車が運行して五時前に会社に着く予定だった。日曜日の会社には上司が休日出勤しているはずで、その上司に今日出張先で受け取った契約書と相手先の資料を渡す…そこまでが、今日の暁斗のノルマだった。
――それにしてもこの線は相変わらずだな。昨日の雨のせいかもな。大雨の後ではよく運行がストップするから。地盤が悪いのを前もって確認出来ていなかったんだろ。 あるいは野生の動物が迷い込んだって可能性もあるか。この辺りには鹿も
十分程経ち、そろそろ電車も動き出すだろうと乗客達が期待を抱き始めた時、二度目の車内アナウンスが流れた。
――お急ぎのところ、誠に申し訳ございません。ただいま線路整備を行っています。運転再開は二時間半後を予定しています。なお現地点でご降車を希望される方はお知らせください。安全を確認したうえでお降りいただけます――
乗客達から落胆の溜息が聞こえると、暁斗は頭を抱え込んで舌打ちをした。そして早速持っていたスマートフォンで上司に電話をした。
「お疲れ様です。はい。それが電車まで止まってしまって。原因? 分かりません。二時間半このままみたいです。あと十二駅なんですけど今日中は無理かもですね。また連絡します」
暁斗はネクタイを取ると一旦シートをリクライニングにし、眼を閉じて考えた。
――今日中に契約書と資料を渡す…それにはどうしたらいいか?
そうだ。ここで降りて次の駅までてくてく歩く。そして駅前からタクシーで会社まで行く。いや、あの駅の前にタクシーなんて停まってはないし、そもそも駅前にタクシー会社なんて無いんだ。そういうのがあるのは都会、と言うか普通の街だ――
彼は地元だけに、ここ一帯が無人駅なのを知っていた。未だにICカードが使えない駅ばかりだ。
あらためて車窓の向こうに広がる風景を見てみた。秋独特の澄み切った空の色を。実る前の稲穂が風になびいている様子を。子どもの頃手に触れ遊んでいた野草を。
「何も言わずに見つめてた こんな秋の野に 風の中を歩いてく」
いつの間にか懐かしい歌を口ずさんでいる自分に気が付き、はっとした。最近はついこの歌を口ずさんでしまう。
――年とった証拠かな。もう三十代半ばだし。ここで降りて歩く案なんてやっぱ却下しよう――
暁斗は再び上司に電話した。
「もしもし。僕ですが、やはり今日は無理そうです。ここで電車を降りて歩いても何もない場所ですよ。両隣の駅は無人駅ですから。はい。状況が変わったらまた連絡します」
上司は不機嫌そうで、たとえアクシデントによる不可避の状況であったとしても、自分の出世に響く事は間違いなさそうだった。会社のモットーは「時間を無駄にするな、時代についていけ」だ。
その時、向かいの席の老婦人が話しかけてきた。
「ねえ、貴方」
暁斗が顔を上げると、婦人は手のひらの上のキラキラした物を見せた。
「こちらは貴方の落とし物ではないかしら?」
老婦人が手にしていたのは、暁斗のネクタイピンだった。携帯電話マナーを注意されるのかと身構えていた暁斗の表情が
「あ、僕のです。さっきネクタイを外した時に落としたんですね。ありがとうございます」
老婦人は上品に微笑んでいた。グレイのワンピースにベージュ色のレースのカーディガンを羽織っている。胸元にはカメオというのだろうか、薔薇の浮き彫りをほどこした楕円形のブローチを付けていた。その隣の夫もパリッと
暁斗は彼らが一つ前の無人駅から乗ったのを思い出していた。
――これといって何もない駅だ。住民でもないようだし、一体何の用事があり、あんな山深い場所を訪れたのだろう?――
眼の前の老婦人が話しかけてきた。
「ねえ貴方、ちょっと聞いても良くって?」
「はい。何でしょう?」
「さっき、貴方の歌っていたのは何ていう曲だったかしら? 有名な曲のはずね。つい最近聞いた気がするんだけど、思い出そうとしても思い出せないのよ」
「は? いや何て曲と言われても…」
暁斗は婦人をあらためて見直した。この歌を誰かが知っている可能性はない。とすると、これは自分の歌がうるさかった事に対する苦情の意味なのだろうか? それともただの認知症だろうか?
暁斗は親戚が何人か認知症にかかっていたので、その独特の表情に察しがつく。でも眼の前にいる婦人の表情にはそんな兆しはなく、この上なく上品で知的だった。その隣に座っている夫の世話をしている事からも彼女が認知症でない事は明らかだ。
「もしよろしければ先程の歌をもう少し長めに歌って下さる? そうすれば何処で聞いた何の曲か思い出せるかもしれないから…」
どうもこれは認知症というより、単に知った曲と勘違いしているだけみたいだと暁斗はその時思った。もしそうなら自分が歌ってその勘違いに気付かせるしか方法はなさそうだ、と。
「分かりました。では少し長めに歌ってみますね」
「何も言わずに見つめてた こんな秋の野に/風の中を歩いてく 夕暮れ後ろ姿/気を付け歩いて行くんだよ 道は違うけど」
途中から婦人もハミングし、さらに歌詞も併せて歌い始めた。まるで合唱クラブか何かにいたようなきれいな歌い方だ。そして「道は違うけど」の所では婦人の歌詞の方が弱冠早めに出た。
――知っているんだ、この歌を。なぜ?――
暁斗は、自分の心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
「思い出せましたか? この歌をどこで聞いたのか」
「いいえ、残念ながら。歌詞も曲調も覚えているのにどうして思い出せないのかしら? 女学校で習った風ではないし、外国民謡に日本語歌詞を付けたものかしら」
「どちらも違いますよ」
「降参します。曲のタイトルを教えて下さいな」
老婦人はにっこり笑うと茶目っ気を込め、そう言った。つぶらな小鳥のような眼だった。
「タイトル…。そんなものはないんです。これは僕の知り合いが作った曲ですが、タイトルもないし、その後どこにも発表されてない
「そんな筈ないわ。失礼ですけど貴方のお知り合いが作られたのはいつの事でしょう。タイトルがないなんて不自然ではありませんか?」
婦人の隣に座っている夫は、婦人の手にしているゴブラン織りのバッグをトントンと叩いていた。
「まあ、この人ったらついさっき昼食を食べたばかりなのに、もうお腹が空いたのね」
婦人はあきれたようにバッグの中からクッキーの入ったビニールの袋を取り出してピンク色のリボンを
暁斗はそんな夫婦のやり取りに邪魔されはしたが、先程の婦人の発言は放っておけないと思い、会話を続けた。
「いえ、タイトルが無いのには理由があるんですよ。あなたは僕の知り合いが曲を盗作したと疑っているんですか?それは100%あり得ませんね。彼は天才なので」
「タイトルが無い理由? よろしければその歌の事をもっと教えて下さる?」
暁斗は戸惑った。実は先程上司に電話をかけた際、相手の反応がビミョウだったのを気にしていて、やはりここで電車を降り、タクシーを呼べる所まで歩こうかと考えていたばかりだったのだ。
「それを話すと長くなるんですよ。僕、実はここで電車を降りようかと考えていて…」
「まあ、それは残念」
心残りなのは暁斗にとっても同じだった。眼の前の婦人がさっきの歌をどこで聴いたのかぜひ知りたかった。そして今から会社に戻る意味を考えてみた。
たとえ電車を降りてさんざ歩いてもタクシーを呼べず、ボロボロになるのがオチかもしれない。もし運良くタクシーを拾えたとしてもそこからのタクシー料金は信じられないくらい高額となり…。
――出張費として認められるわけないよなぁ――
――果たしてそこまでする意味があるのだろうか?――
そして眼の前の外国映画に出てきそうな、絵画の中のような老夫婦を見た。
もしここで電車を降りてしまえば、この婦人がどこであの歌を知ったのか、それを知る事は永久になくなる。迷宮入りだ。それは実は彼にとってそんなにどうでもよい事ではなかった。その曲はずっと昔、彼がやってしまった小さな罪の原因となっている因縁の曲だったからだ。
ただこのまま電車に乗っていて、曲の作られた
――それこそ果たしてそこまでする意味があるのだろうか?――
――あるさ! これは緊急事態なんだから――
暁斗は心の中でそう宣言し、シートに座り直すと真っ直ぐに眼の前の人の小鳥のような眼を見ていった。
「いや、いいんです。ではこの曲についてお話します。少し長い話ですが、それを聞けばどうしてタイトルがないのか納得してもらえると思います。
実は僕は今電車の停まっているこの地域の出身です。正確には三十分程前通り過ぎた場所ですが…」
暁斗は話し始めた。それは十数年、努めて思い出さないようにしていた事だった。
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