ドルフィンライダーの方程式
Phantom Cat
1
重力が消えた。
それは、俺が今乗っている臨時便連絡艇JN1701が、リムポート02を
バックカメラの映像の中で、宇宙ステーション「さくら1」がみるみる小さくなっていく。それは4本スポークの車輪のような形をしていて、回転しながら人口重力を作っているのだが、今の俺の位置からは縦になった細長い長方形にしか見えず、その中を、一瞬前までこの艇と俺をつなぎとめていたリムポート02の明かりが、下から上へゆっくりと昇っていた。
今俺が乗っている艇は飲み薬のカプセルのような、前後が半球状の円筒形をしている。コクピットは当然前部の半球の中にある。この艇は発進にほとんど
操縦は全くする必要がなかった。ほぼ全て機械に任せていればいい。実際、定期便は完全に自動化されて無人運用となっているのだが、臨時便には不測の事態に備えて人間のパイロットが搭乗することになっていた。今回はそれがこの俺になった、というだけの話である。と言っても、コクピットは一人分のスペースしかなく、しかも与圧も全くされてない。というわけで、俺はEVA (Extra‐Vehicular Activity:船外活動)スーツに身を固め、機械類に囲まれたシートに縛り付けられているのだった。
そう。
「!」
俺はわが目を疑った。EVAスーツの頭部が、いきなり目の前に現れたのだ。ウインドウをコンコンと叩いている。とっさに俺は右耳を指さす。通信装置を使え、というハンドサイン。俺も無線をGUARDチャンネル(243.0MHz:国際緊急通信周波数)に合わせて送信する。
「聞こえるか? Do you read me?」
『聞こえます』
若い女の声だった。完全にネイティブな日本語のアクセント。日本人のようだ。
「何者だ? なぜそこにいる?」
『失礼ね。人の名を聞くなら、まず自分が名乗るべきでしょう?』
「……!」
えらく生意気な物言いだ。気に食わないが、そんなことを気にしてる場合じゃない。
「こちらはステーション管理局所属、臨時便JN1701スキッパー、加藤ヒカルだ。そちらは?」
『国連宇宙大学大学院、宇宙生物学専攻、博士後期課程1年、田中マリリン。十八歳』
「マリリン? ハイブリッドか?」
『いいえ。純粋な日本人よ。それより、スキッパーって何?』
……。
ふざけた名前だ。しかし、将来の博士さま、ときたか……しかも十八でD1となると、かなり飛び級してる。優秀なんだな。それでプライドが高い、ってことか……
「船長のことさ。これくらい小さい船ではキャプテンとは言わないんだ。それはともかく、将来の博士さまが、なんでそんなところにいるんだ?」
『これ、さくら2に行く臨時便なんでしょ? あたしも連れてってよ。明日、あっちで行われる学会で発表しないといけないんだけど、定期便に乗り遅れちゃったのよ』
……。
やってくれる……
とりあえず、俺は無視して無線をステーション通信用のチャンネルに切りかえる。
「エマージェンシー、エマージェンシー、エマージェンシー。さくら2コントロール、JN1701、アクノウレッジ(応答せよ)」
『JN1701、さくら2、ゴー アヘッド(どうぞ)』
応答はすぐ帰ってきた。日本人管制官のカタカナ英語は、今も昔も変わらない。俺も他人のことは言えないが。
「ディテクテッド ワン ストウアウェイ。リクエスト インストラクション(一人の密航者を発見。指示を求む)」
『ストウアウェイ? 密航者か?』
「アファーマティブ(そうだ)。名前は田中マリリン。国連宇宙大学大学院のD1。十八歳だそうだ。EVAスーツ来て船外に掴まってやがった」
『……これは、「冷たい方程式」条項だな』
"冷たい方程式"。
それは、トム・ゴドウィンによって書かれた、もはや古典となっているSF作品だ。疫病が流行っている惑星に向かって一機のカプセルが血清を載せて出発した。その中には密航者がいた。惑星にいる兄に会いたくて、一人の少女がカプセルの中に入ってしまったのだ。
しかし、カプセルにはパイロットと
今は、まさにそれにかなり近い状況と言える。「さくら2」の建設途中の区画で作業中に大きな事故が起こり、死傷者が多数出て血液が足りなくなったため、俺が臨時便で「さくら1」から血液を運ぶことになったのである。しかし、この艇も「さくら2」ドッキングのための減速用推進剤は最小限しか積んでいない。密航者が乗ったままでは、減速が不十分でポートに激突するのは間違いない。
というわけで、こういう場合は密航者をそのまま投棄する、というのがルールだった。それを定めているのが、通称「冷たい方程式」条項と呼ばれるものなのだ。
そういえば、「冷たい方程式」の密航者の少女も、マリリンって名前だったような……偶然の一致なんだろうか?
まあでも、「冷たい方程式」と違うのは、彼女がEVAスーツを着ている、ってことだ。だから艇から放り出されてもしばらくは生きていられる。酸素が続く限りは。
俺は無線のチャンネルをGUARDに戻す。
「マリリン、酸素の残量は?」
『あと30分くらい』
「って、さくら2に着くギリギリじゃねえか!」
『だって、それ以上必要ない、って思ったんだもん! しょうがないでしょう!』
逆ギレかよ……
まあ、それでも、彼女の位置は単純な等速直線運動の方程式で予測できる。方程式だって決して冷たいばかりじゃない。今レスキュー部隊に連絡すれば、彼女が飛んでいく宙域に待機していてくれるだろう。そうすれば、酸欠状態が酷くなる前に、彼女も助かるはずだ。
ところが。
「……え、レスキュー部隊は来られない?」
俺は愕然とする。
『当然だろう!』さくら2の管制官が怒鳴り返す。『今どういう状況だと思ってんだ? 事故の対応で、レスキューは全員そっちにかかりっきりだよ!』
……。
なんてこった……それは想定外だった。
おそらく、レスキューの手が空くまで数時間はかかる。それまでマリリンの酸素はとてももたない。俺の酸素を分け与えたくても、こちらだってギリギリの分しかない。
このことを、どうやってマリリンに伝えればいいのか……だが、話さないわけにはいかない。俺はGUARDチャンネルに周波数を戻す。
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