第5話
十月も半ばで、急に秋めいてくる。なんでこんなに物悲しいのか。アキラ先生に振られたからだろうか。センチメンタルになっている自分が、けっこう笑えるけれど、カラ笑いみたいになってしまう。……さびしい。
口笛教室第八回目。タマキ先輩が「わたしのお父さん」をものにして、達人二段に昇段した。この曲は、声楽では有名な曲だそうだ。伸びのあるメロディで、歌うにせよ、口笛で吹くにせよ、非常に難しい。体の小さいタマキ先輩は、肺活量が少ない。それを補うべく、普段から特殊なトレーニングをしているそうだ。アキラ先生直伝、プロの腹式呼吸を身に付けたタマキ先輩は、心に染み渡るような素晴らしい演奏をした。呼吸が苦しいせいか、演奏の終盤で、タマキ先輩が涙目になっている。それを見たら思わず、ため息が出てしまった。魂が入っている。
「ブラボー。タマキ先輩、ブラボー」
拍手をしながら、馬鹿みたいな歓声を上げる。しかし、本当に感動した。タマキ先輩は恥ずかしそうに顔を赤くして、何度も頭を下げた。
「正直、ここまで出来るとは思わなかったわ。タマキちゃん練習熱心だもんね。毎日やらないと、こうはならないよ」
アキラ先生が感心したように言った。
「高音が抜けてましたよね。感動しました」
僕も真似したい。
「この曲、昔アキラ先生がよく歌ってましたよね。タマキ先輩の演奏を聞いてたら、なんだか、小さいころを思い出しました。幼稚園の頃かなあ」
大輔君が言った。
「大昔の話ね」
アキラ先生が笑った。
「アキラ先生の歌、聴いてみたいな」
僕は言った。
「まあまあ、それはいいとして。今日はタマキちゃんの、昇段祝いに行こうよ!」
決定! という感じにアキラ先生が言った。
前回と同様に、モツ煮込み屋の近藤酒場へ向かって、浅草の町をぶらぶらと歩く。今日はしっかりと5時半まで練習したので、木戸先生に怒られることも無い。夕方の暗い空と、少し冷たい風が、酒場に行く気持ちを盛り上げてくれる。秋とモツ煮込みと焼酎と。なんだか、雰囲気あるよな。ここに恋人が加わったら最高なんだけど。
暖簾をくぐって店内に入ると、前にも見た顔がたくさんいる。みんな常連さんなんだろう。
アキラ先生は店員だから当たり前だけど、大輔くんとタマキ先輩まで、他のお客さんにちょこちょこと挨拶をして、店内を歩いていく。大輔君元気? とか常連らしいおじさんに言われて、ボチボチです、とか答えて大輔君が笑いを取っている。さすがだ。みんなの後ろについて僕も、どうもどうもと頭を下げつつ、奥の席を目指す。自分も常連になったようで、けっこう気持ちがいい。
注文取りのお姉さんが来て、前と同じように僕はハイボールを頼んだ。いつものやつね、とお姉さんが言ってくれる。じゃあわたしビールね、とアキラ先生がボケをかまして、馬鹿を言っちゃあいけないよ〜と一人でやっている。……これがアキラ先生だよな。
結局、僕以外梅サワーで、お約束のようにお姉さんが、ノンアルコール、OK? と言って僕の顔を見た。お姉さん、素晴らしい記憶力だ。酒場のお姉さんは、記憶力が良くないとやって行けないのかもしれない。アキラ先生は……あまり記憶力が良くない気がする。
「守山さん、お店、来てくれなかったじゃな〜い。わたし待ってたのに〜」
しなを作って、アキラ先生が下手糞な演技をする。
「来ましたよ。2回来ました。アキラ先生には、お会いできなかったですけど」
「ああ、そうなんだ。来たんだ」
そう言ってアキラ先生が、下を向いて大人しくなる。なんだこの反応は。
「アキラ先生の出勤日は月曜日です。それ以外は不定期ですから、今度、月曜日に来てください」
大輔君が、必要なことをはっきりと言ってくれる。はっきりと言いすぎです。
「もう振られてるのに……」
タマキ先輩のキツイ一言。聞かなかったことにしよう。
そこでお店のお姉さんが、山盛りのモツ煮込みをテーブルの上にのせてくれる。かぐわしいこの臓物と味噌の香り。最近は夢にまで登場している。口に入れると、他の食べ物では決して得られないプリプリ感がある。焼酎の味はそこまで好きではないけど、モツには最高に合っている気がする。奇跡のハーモニー。
「また守山さんが泣いてる」
タマキ先輩が笑って言った。
「いや、場がいいんですよ。これ、一人で食べてたら、こんな感動はないと思います。口笛教室のみんなで食べてると思うと、格別な感じになるんですよね」
僕は言った。
「いいこと言うねー!」
アキラ先生が梅サワーをぐいっとあおって、残りを一気飲みする。空いたグラスをドンと木のテーブルに打ちつけた。美人がもったいない。でも似合っている。
場が良すぎて、僕はかなり酔ってしまった。量はそんなに飲んでいないのに、頭がぐらぐらする。
「守山さん、大丈夫ですか。ちょっと顔が青いですよ」
心配そうな大輔君の声。
「しっかりしろ! 守山! 夜はまだ始まったばかりだぞ〜」
アキラ先生もだいぶ酔っている。あんまり酒が強くないみたいだ。人のこと言えないけど。
「ヤケ酒」
タマキ先輩のセリフが僕を追い詰めていく。
「ちょっとすいません。トイレ行ってきます」
これはまずい。自主的に胃を洗浄しよう。しかし店内にはトイレが無いのだと言う。呆然としている僕を、タマキ先輩が腕を引っ張って、外に連れ出してくれた。
「こっち」
近くの公園に連れて行ってくれると言う。頭がぐらんぐらんになりながら、夜の住宅街を小走りで進む。タマキ先輩が支えてくれてなかったら、道路に倒れこんでしまいそうだ。
「守山さんがんばって。あと少しだから」
今度は妙にやさしいタマキ先輩。
ようやく隅田川沿いの、小さな公園のトイレにたどり着いた。真っ暗でも、かなり汚いことが分かるけれど、この際贅沢言っていられない。
約十五分後。かなりすっきりして、生き返った感じでトイレを脱出する。タマキ先輩がベンチに座って待っていてくれた。
「タマキ先輩、ありがとうございました。助かりました」
はいどうぞ、と言って、タマキ先輩があったかいペットボトルのお茶を僕に手渡してくれた。
「うわ、申し訳ない。お金払いますよ。タマキ先輩もなにか飲んでください」
お金を渡そうとするのに、タマキ先輩は要らないと言う。先輩……。
「守山さん、どんな感じでした?」
「え? 何がですか」
「内臓から、内臓を吐き出す感覚」
思わずお茶を噴出しそうになってしまった。タマキ先輩が、興味津々な感じで僕の答えを待っている。
「……ゾロゾロ出てきました。よく噛んでなかったので、食べたときの形そのままで、次々と。気持ちよいくらいズルズル出てきました……」
なんとなく、こういう表現のほうが、タマキ先輩にお喜びいただけそうな感じがする。
「ゾロゾロと……ズルズル」
タマキ先輩が満足げに頷きながらつぶやく。
「……胃液は?」
まだ聞きますか……タマキ先輩……。
「最後ちょっとやばかったですね。調子に乗って出しすぎて、出すもの無くなったのに無理をして。最後は胃液だけでした……。喉が焼けそうになってたんですけど、タマキ先輩のお茶に救われました。まさか、この事態を予測されていて、お茶を買ってくださったのでしょうか?」
うんうん、とタマキ先輩が頷く。そして、頭の中で想いをめぐらすような表情をしている。何を考えているのか、想像もつかない。
「そろそろ戻りましょう。アキラ先生と大輔君が心配してるだろうし」
僕は言った。頷いて、タマキ先輩がベンチから立ち上がった。
さっき来た道を、ゆっくりと歩いて戻る。危機を逃れた安心感で、ずいぶん穏やかな気持ちになっている。
「タマキ先輩、ほんとにありがとうございました」
僕の顔を見て、タマキ先輩が無言で頷く。
「モツはいくら咀嚼しても、上手く噛み切れないですからね。そのままの形でした」
僕の言葉に、タマキ先輩がゆっくりと頷く。
「守山さん……。アキラ先生のこと、諦めてないんですか?」
タマキ先輩が、小さな声で言った。
「大輔君にも励まされまして、まだ行けるかなと思ってるんですけど。未練がましいですかね」
「守山さんのこと、アキラ先生は嫌いじゃないと思います。……大人の世界のことは、わたしにはよく分からないですけど」
タマキ先輩が、歩いている地面を見ながら言った。
「タマキ先輩にそう言って頂けると、勇気が湧いてきますよ。もう少しがんばろうかな」
僕は言った。ちょっと気合を入れないとな。
お店に戻ると、アキラ先生が酔いつぶれて、テーブルの上に突っ伏して寝ていた。僕らの顔を見て大輔君が、もう出ましょうか、と言った。お会計は僕が払って、みんなで外に出る。無理矢理起こされたアキラ先生が、大輔君の背中に覆いかぶさるようにして、目をつむって歩いている。
「大輔君、大丈夫?」
「慣れてますから。このまま家までがんばります」
慣れてるのか……。
「じゃあ、ここで解散しますか。お疲れ様でした」
僕が言って、みんながそれぞれの方向に歩き出す。あ、守山さん、と大輔君に背中から呼び止められた。
「アキラ先生も、ヤケ酒だったと思いますよ」
大輔君がにっこり笑って、ペコリと頭を下げた。アキラ先生を重そうに担いで、ゆっくりと歩いて行く。小学生……。どこまで分かって言っているんだろう……。
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