第七章 第四話「嶺からヒカリが降り注ぐ」
つくしさんがはいていた靴は……壊れていた。
左の靴の靴底部分が大きく剥がれ、だらしなく口を開けたカエルの顔のようにも見える。
一見するだけで、もう使い物にならないと分かった。
「私を助けたとき、つくしさんの靴が壊れちゃったんです……」
松江国引チームの子の言葉を聞いて、ようやく彼女が泣いている理由が分かった。
自分のせいで仲間の靴が壊れて歩けなくなったとしたら、私だって泣いてしまいそうだ。
ライバルチームの身に起こった災難に、私も動揺が隠せなかった。
「すごくたくさんの山に登ってトレーニングしてたんですが……、靴がここまで消耗してたことに気付かないなんて、本当にミス以外のなにものでもないんです……」
つくしさんはひどく落ち込んでいる。
力なくチームメンバーに顔を向けた。
「みんな、ごめんね。……リタイア、だね……」
リタイア……。
その言葉を聞くと、自分の事じゃないのに胸が締め付けられる。
当事者じゃないのに苦しい気持ちになるぐらいだから、当人の気持ちは計り知れない。
「……どうにか直すことはできないんでしょうか?」
私がたずねても、つくしさんは首を横に振るばかり。
「もちろん……色々と試しました。
でも、ガムテープは雨ですぐ剥がれたんです。
針金も試しましたが、きちんと止めようとすると足が圧迫されすぎたし、両足だと長さも足りなくて……」
「両足? ……まさか、左右どっちの靴も壊れたんですか?」
耳を疑うと、つくしさんは両足を持ち上げて見せてくれた。
なんと、左右の靴底が同じようにベロンとはがれ、かかと部分でかろうじてくっついている。
こんな偶然はあるのかと思っていると、千景さんが私の背後から顔を出した。
「粘着剤の劣化は……両足で同時に、進む。
きっと……無理な力が加わり、同時に剥がれた」
「……そうなんだ。そういうことって、あるんですね……」
「……私たちはリタイアとなります。
二日目の体力点が零点になりますから、間違いなく八重垣高校の勝ちです……。
おめでとうございます」
つくしさんから力のない声で祝福の言葉が送られ、私は呆然とする。
「私たちの……勝ち?」
まだ大会の途中だというのに、こんなにあっけなく勝負が決まるなんて思いもよらなかった。
釈然としない気持ちにとらわれ、私はみんなと顔を見合わせる。
ほたかさんも千景さんも素直に喜べない様子で、困り顔になっていた。
……その沈黙を破ったのは剱さんだった。
「ひとまず……みんな笑いましょうか」
そう言いながら、暗い顔が並ぶ中で一人だけ歯を見せてニカッと笑っている。
「美嶺ちゃん……? 急にどうしたの?」
「山で憂鬱になってても仕方がないんすよ。
……せっかくめんどくさい日常を離れて楽しめてるんだから、
楽しいのが一番っす」
そう言って、一歩前へ踏み出す。
「わがままを言いますけど……、部長さんの靴を直して、ばあちゃんも無事に下山したうえで、みんなで笑って大会に復帰したいっす。
なにせ、『笑いは人の薬』って言うくらいっすからね!」
剱さんの言葉を受けて、つくしさんは困惑した顔を見せる。
「わ……私たちはライバル同士。
……今は大会なので、変に気を使う必要はないんですよ……」
「なーに辛気臭い顔してるんすか! 部長ならドーンと構えなきゃ。
空元気でもいいんで、ひとまず笑顔になってみるんす。
すると、いつのまにか元気になってるんで、オススメっすね!」
そう言いながら剱さんはつくしさんの背中をバンバンと叩き、強引に励ましている。
そんなやり取りを見ながら、私は胸の高鳴りが抑えられなくなっていた。
笑いは人の薬……。
そして、空元気でも元気……。
その言葉は、私がスランプだった時に贈ってくれたリリィさんの言葉……そのものだった。
やっぱり剱さんがリリィさん本人だったのだ。
今までくれた温かい言葉も、同じ趣味を楽しんだ日々も、彼女がくれたものだったのだ。
どうしよう……。
今はそんな状況じゃないのに、走り寄って抱き着いちゃいたい。
嬉しさで手が震えて、どうしようもない。
「変に気を使うなってのも変な話っすよ。……なあ空木?」
「あぅっ! な、なに?」
急に剱さんが振り返るので、私は上ずった声で返事してしまった。
「いやさ……。アタシたちの助けを断るなんて、おかしいよな~。
自分らはアドバイスくれてたのにさぁ」
剱さんの言葉で、昨日の出来事を思い出す。
「そうだ、そうですよ!
昨日の登りでは浮石を教えてくれたし、お互い様ですよ!」
「……そ、それは山のマナーとして当然のことを言ったまでです……。
それに、靴を直すって簡単に言いますけど、もうすでに色々と試しましたし……」
つくしさんの顔はさえないままだ。
すると、千景さんがおずおずと手を挙げた。
「ボ、ボク……。な、なお……」
何かを言いかけたが、千景さんはすぐに引っ込んでしまった。
でも、その手がウェストポーチの中のウィッグに触れているのを、私は見逃さない。
道具に詳しい千景さんには、つくしさんの靴を直す算段があるのだ。
今は懸命に勇気を振り絞ろうと、あの銀髪のウィッグに想いを込めているように見えた。
「千景さん……。何がしたいのか、教えてください。私がやるので」
千景さんが恥ずかしくてできないことがあれば、私が代わりにやればいいのだ。
しかし千景さんは、首を横に振り、おずおずと手を差し出した。
「手を……握って。勇気をくれるだけで、いい」
私にだけ聞こえるような囁く声。私はうなずき、言われた通りに手を握る。
千景さんの手は雨で濡れ、細い指は冷たくなっていた。
私は体温と共に、ありったけの勇気を注ぎ込むように念じる。
すると、千景さんは真剣な目でウェストポーチに手をつっこんだ。
「それは……!」
千景さんの指には銀色のウィッグが掴まれていた。
カッパのフードと帽子を外し、ウィッグを勢いよく頭にかぶる。
……目の前の千景さんは、ヒカリさんになったのだった。
ヒカリさんは深呼吸を一つすると、つくしさんの前までさっそうと歩いていく。
「靴を見せてください。直してみせるのです!」
「伊吹さん? そのかっこうは……何ですか?」
つくしさんは驚いてるけど、無理はない。
店員さんモードになった千景さんはまったくの別人と言っていいからだ。
ヒカリさんは周りの視線にさらされながらも、かまわないように胸を張った。
「ヒカリです! 今のボクはヒカリなのです。
道具の事なら、ボクにお任せなのですっ!」
千景さんはほたかさんがバテた時、ウィッグを付けられなかったことを悔やんでいた。
この変身は千景さんの覚悟の証明。
私たちは驚きと共に、ただ見守ることしかできない。
ヒカリさんはつくしさんの足元に座り込み、破損箇所を調べ始めた。
「この靴は革靴ほど固くはないので、針金は避けたほうが良いのです。
針金だとつよく圧迫しすぎて、足の血行が悪くなるのですよ……。
美嶺さん。キネシオテープを出してほしいのです」
「あ……。は、はい!」
剱さんが茶色いテープを取り出すと、ヒカリさんは靴を履いたままの状態でつくしさんの靴にテープを巻いていく。キネシオテープは伸縮性の粘着テープだって剱さんも言ってたし、動きの激しい靴にも適しているのかもしれない。
靴底のグリップを損なわないように土踏まずを中心に固定するなど、ヒカリさんの仕事は本当に丁寧だ。
瞬く間に、剥がれた靴底はぴったりと靴に固定されていた。
「靴は直ったのです。
……ですが、これはただの応急処置。
お近くの登山用品店で、あらためて補修や買い替えをオススメするのです」
あまりの早業に、つくしさんは目を丸くして驚いている。
「伊吹さん……。あなたはいったい?」
「ただの山道具屋さんの娘なのです。それと……」
「それと?」
「つ……つ、つくしさんとは背の低い者同士、親しみを感じていたのですっ!
……これを機会に、な……仲良くして欲しいのです!」
そう言ってヒカリさん……いや、千景さんはつくしさんに手を差し出した。
大会の開会式前、千景さんはつくしさんを目で追っていた。
友達になりたそうに見つめていた視線を私は忘れていない。
恥ずかしがり屋の千景さんは、ウィッグをかぶりでもしなければ本音を言えなかっただろう。
千景さんに勇気を注ぐことができて、本当によかった。
つくしさんは驚きの顔を浮かべながらも、やがて優しく微笑みだす。
「……もちろん! 私も伊吹さんには親近感を持っていて……。
ぜひ友達になってください!」
千景さんとつくしさんは手を取り、微笑み合う。
……その笑顔はとってもまぶしかった。
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