第三章 第八話「ヒカリ届かぬカゲの世界」
床に落ちたノートの文字。
……そこに書かれているのは、間違えるはずもなく、千景さんの文字だった。
私の視線はついその中身を追いかけてしまい、『疲れない歩き方』という見出しに目がとまる。山歩きのコツが細かく書いてあり、マーカーで印がつけられ勉強の跡を感じさせた。
『サブリーダーになったから、がんばるのです』
『楽しく登ってもらえるための歩き方』
そこに書かれていたのは、まぎれもなく私が入部した直後の
千景さんは私たちのためにこんなにも準備してくれてたんだ。
あの日にもらった言葉を思い出して、涙腺が緩んでしまう。
こんな素敵な人を辱めたなんて、私はなんてドジで馬鹿なんだろう。
よく見ると、棚の中にも同じようなノートがたくさん置かれている。
床に散らばったノートには登山靴やザックの特徴や機能に関しても細かく記されているので、多くのノートはお店の商品についての勉強ノートなのだろう。
きっと倉庫で商品を見ながら勉強していたのだ。
めまいがするほどの勉強量に、千景さんの努力がうかがえる。
すると、私がノートを見ていることに気付いたのか、千景さんはノートをかき集め始めた。
「……勝手に見ては、ダメ」
そして中身を見たことを責めるように、私をじっと見つめてくる。
もしかすると、このノートは私のイラストのように、絶対の秘密だったのかもしれない。
そう考えると申し訳なくなる。
でも、決して恥ずかしい物じゃない。
「……ごめんなさい。……でもすごいです。
あの商品の膨大な知識の源がわかって、感動しました。
……それに、私たちのことを考えてくれてただなんて……」
私は感動をそのまま伝えた。しかし千景さんは冷めた表情で首を横に振る。
「こんな場所で、こんなにも必死にならないと……なにも覚えられない。
……そのノートは、ボクの不器用さの……ただの象徴だから」
そうつぶやいた瞬間、千景さんの目から雫が零れ落ちた。
「ボクはいつも……イジイジしてて。
声も小さいし、ボソボソ……しゃべるし。
は……はずかしがり屋、だし。
千景では……父と母の力に……なれない」
「千景さん……。そ、そんなことない……」
「ダメ。千景では、ダメ……。
ヒカリじゃないと……ダメ」
力なく首を振る千景さん。
その頬を流れ落ちる雫を前に、かける言葉が見つからない。
千景さんは再び棚の下に潜り込み、奥に挟まったというウィッグを取り外す。
そして再びかぶったかと思うと、みるみると表情が明るくなっていった。
「お見苦しいところを見せてしまったのです。忘れてもらえると嬉しいのです」
銀髪の『ヒカリさん』に変身した千景さんは、にっこりと笑った。
「千景さん……」
「違うと言ったのです。ボクはヒカリ。間違えてはダメなのです」
千景さんは
こんな千景さんを見ていると複雑な気持ちになってしまう。
鬱っぽい千景さんは見ていられなかったけど……、それでも本音を知れて、少し嬉しかった。
だけど「見苦しいから忘れて」と言って、本当の自分に蓋をしている。
心に踏み込む決意をしてここまで飛び込んだけど、もう無理かもしれない……。
なんだか体から力が消えていく感じがして、ふらっと地面に膝をついてしまった。
その時、スカートのポケットからスマホが滑り落ちる。千景さんに絵を見せつけた後、乱暴にポケットに放り込んでいたからだろう。
スマホには待ち受け画面が映し出されている。
リリィさんにも喜んでもらえた私のイラスト。
それを見て、『自分に自信を持って欲しいの』というリリィさんの言葉を思い出す。
私はオタクだとバレて以来、『学校の私』と『創作する私』のギャップに苦しんでいた。
欲望のおもむくままに絵を描こうとしても、現実を生きる『学校の私』が冷めた目で見るようになってしまい、絵が描けなくなってしまったのだ。
何もできなくなってしまい、リリィさんの言葉に支えられるまでは無気力の塊になっていた。
そのことを思い出したとき、ハッとした。
もしかして、千景さんも同じなのだろうか?
『いつもの自分と違いすぎるのが苦しいって、千景ちゃんは言ってたの』
……ほたか先輩が教えてくれた、千景さんの言葉。
てっきり知り合いにバレるのが恥ずかしいからだと思い込んでいたけど、違うかもしれない。
知り合いバレが恥ずかしいのは当然だけど、それ以上に、それこそ致命的に「いつもの自分と店員の自分が混ざって、いたたまれなくなっている」からなのかもしれない。
私は現実を生きるために『創作する私』を封印したけど、千景さんはご両親とお店が大切なあまり、『現実の千景さん』を封印してしまっている気がする。
もしそうだとしたら、そんなの歪すぎる。
現実の私が結局は無気力になったように、『店員ヒカリさん』もいつかおかしくなってしまう。
私は確信に近い予感を胸に、千景さんに歩み寄った。
「ヒカリさん。……いや、千景さん」
「どうしたのですか? ……怖い顔をして」
そんなに怖い顔に見えるのだろうか?
でも、怖いと思われてもかまわない。
そんなことよりも、千景さんを放っておいてはいけない予感が胸に渦巻いている。
「そのウィッグ……。着けるの、やめませんか?」
千景さんは驚いたように目を見開いたかと思うと、ウィッグを手で押さえて後ずさった。
「ダ……ダメなのです!」
「少なくとも今、ここには千景さんと私しかいません。
もうバレる心配なんて必要ないので、ヒカリさんのふりをする必要はありませんよ」
「
いつも隠れて震えるばかり。
……あんな奴、ヒカリの『
影……。
その言葉を聞いて
明らかに「影」を、「ヒカリ」より悪いニュアンスで言っている。
そもそも店員さんモードの時の名前を「ヒカリ」と名付ける時点で、確かに違和感があった。
千景さんは自分が嫌いなのだ。
……私の悪い予感は、完全に確信に変わってしまった。
「千景さんもヒカリさんも、どっちも同じ千景さんです。
千景さんだってなんでもできますよ」
私が抑えた口調で伝えると、千景さんは言葉全てを否定するようにブンブンと首を振る。
「できなかったのです!
千景は頑張りましたが、学校では何もできなかったのです。
ほたかにもいっぱい迷惑をかけたのです。
せめて学校でヒカリになろうとしても、できなかった!」
この言葉を聞いて、ようやくヒカリさんが言っていた事が理解できた。
『いつも使えるわけではない力』
……それはヒカリさんを演じた時に発揮される「完璧な店員さんモード」のことなのだろう。
きっとこのお店が千景さんにとって特別に大切な場所だから、その場所を守るため、お店という場所限定で変身できるようになったに違いない。
だから、学校だけではなく、お店の外では変身できないのだ。
お店やご両親を想う千景さんのいじらしさに、私はいても立ってもいられなくなった。
千景さんに元気になって欲しい。
今の私に何ができるだろう。
いや、小細工なんていらないのだ。
リリィさんに教えられた通り、私の気持ちをまっすぐにぶつけるだけで、きっといい。
私は想いを乗せて、一歩を踏み出した。
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