泣き虫ニートの日常。

寅田大愛

第1話

1,




母は昔から冷淡で厳格なひとでした。言葉の端々に愛がなくて、冷たくて、そっけなくて、棘があって、嫌みで、極端に厳しい。年をとればとるほどその傾向が強くなっていくんです。老人になっていくにつれて、そういう面が強調されていくのかもしれません。純粋に、研ぎ澄まされていくというか。もうろくするとは言いませんけど、結構迷惑です。本当に。それなのに、そんな自分から目を逸らすためなのか、もしかしたらあまりにも母が愚かすぎてそんな自分の弱点に気づいていないためか、マンションの駐車場に住む地域猫たちに執拗にえさを配ってまわりながら、〈わたしって本当にお節介なのよね〉などと自分自身に言い聞かせるかのようにひとりごちるのでした。まるで自分があたかも心底愛情深い世話焼き婆あであると信じきっているかのように。わたしはそういう母が嫌いだし、憎たらしいとすら思いました。だってそうじゃないですか。どこの馬の骨かもわからない小さな命たちにはなんの見返りもなくても無駄に愛を注げるのに、血を分けたこの世でたった一人のこのわたしという娘には愛とは言わないもはや愛なんていらないけど、興味関心ひとひらを寄越すことすらできないということがすごく気に入らない。母はちょっとあたしに対して酷すぎるのではないのか。わたしはそう思っていたのです。定年を迎えてもまだ働いている母。店長というポストが気に入っているらしくアパレル関係が天職だと言ってはばからない母。若々しいと言われると嬉しいらしくアンチエイジングに余念のない母。休日はプラセンタ注射を必ず打ちに病院に行くくらいの必死ぶり。ぱっちりとした大きな眼。睫毛エクステに縁どられた閉じると影のできるちょっと派手すぎる目を伏目がちにしながら〈猫なんて〉母は言います。〈猫なんて昔は大嫌いだったわ。ちっともかわいいなんて思えなかったのに、年をとったせいか知らね、涙もろくなっちゃってね、あの猫たちのことが急に気になっちゃってね。どうしてかしらね。放っておけなくなっちゃったのよ。だって、かわいそうじゃない〉わたしは母にとっては猫以下の存在なのでしょうか。それはなんという悲劇なのでしょうね。シェイクスピアだってきっと生きていたらこういう場面では絶望的だ! と主人公に過剰に悲嘆させていたに違いありません。ふざけている場合ではなかったですよね。すみませんね。ええと、母は、わたしが赤ちゃんのころまではきちんと本物の愛を与えてくれた人だったんです。3歳くらいまでかな。わたしがどんな赤ちゃんでも、娘が娘だから愛してる。そんな無条件の無償の愛でした。わたしは、本物の愛を知っていた稀有な人間だったのかもしれません。そんな贅沢な思いなんて、しなかった方が、身のためだったのかもしれません。今後の人生のために、存在しなければよかったことなのかもしれません。それでも、小さなわたしは、そんなありがたい愛のなかでどっぷりと浸って育ってきたのでした。赤ちゃんのころだけ。わたしは初孫で長女で自分で言うのもなんですが、赤ちゃんでありながら自らみんなを笑顔にする技術をすでに身につけていた最強の愛嬌マックスのエンターテーナーベイビーだったのです。おわかりでしょうか。媚び売りっ子です。いや言いすぎる、アイドルですかね。はい。生れ落ちた家の人たちに愛の絶対量がそれほどないことをそのときすでに空気を読んで気の流れによって察知していたらしく、わたしは愛されることに一生懸命でした。愛がたくさんほしかったのです。こころが冷たい人たちから、なるべくたくさんの愛が欲しくてたまらなかったので、愛らしい赤ちゃんを演じていたことを、今でも覚えています。さて。赤ちゃんのころが終わった後、わたしは幼稚園では花が萎れていくようにだんだんと暗くなっていき、集団行動を強制されるのが苦手なわたしはついに学校が大嫌いな子どもになりました。学校に行くのが嫌で、友達もあまりできなくて、いつも鬱々として、根暗で、あまり笑わず、不幸ぶった、嫌な子どもになりました。学校に行きたくないと言えば母に説教されるので嫌々通っていましたが、不登校という手段だってとれたはずですよね? 母は不登校になることを赦しませんでした。大学まできちんと卒業しなければならないと、学校を嫌がるわたしに何度も言い聞かせました。それをわたしはひねくれているんですかね、母の世間体を守るためだと勘づきました。人様の眼を異様に気にする鼠のように気の小さい母は、人から見たら自分たちがどう思われるかを酷く心配していたのです。わたしにはどうでもいいことですけどね。あまり関心がなかったもので。母の気にする世間体なんて、台無しにしてやりたいなとすら思ったことだってあります。母はそのころからわたしに冷たくなりました。もう赤ちゃんじゃないんだから、とわたしに厳しく接しました。わたしにはわかっていたのです。本当は、まだあのころの赤ちゃんだったころの明るい性格のままの子どもとして愛おしい存在になってもらいたかったのでしょうね。絶対無理ですけどね。この世の終わりみたいな悲惨な顔をするので、親戚や家族や祖父母は以前のようにもうだれもわたしにカメラを向けることもなくなりました。当然と言えば当然ですが、わたしには辛い仕打ちでした。母はわたしのことを愛してくれない。おべっかを使って媚びたり、太鼓持ちのように母を気持ちよくなれるように褒めて持ち上げてあげたり、延々と続く愚痴を一方的に聞いてあげたり、お小遣いを貯めてプレゼントを贈りまくったり、子どもじみた手紙を書いてあげたり、単純に母に大好きと言ってみたり、勉強を頑張って優秀な成績をおさめたり、使い走りになって道具のようにこき使われたり、ありとあらゆることはすべてやってみましたが、だめでした。35歳になってもそう思います。もう10年以上家で引きこもりをしていますが、やはりそう思います。母は、わたしのことが嫌いなのでしょう。精神病に苦しむわたしのことを囚人、と密かに呼んで、一生外の世界には出さない、と他の家族に宣言しているみたいです。囚人。わたしは罪人なのでしょうか。わたしは一生母のご機嫌伺いをし、笑わせ、喜ばせ、愛情を乞い続ければよかったのでしょうか。そんなことをしたって、わたしは愛されなかったでしょう。そんなことくらい、わたしにだってわかります。母は、成長してしまったわたしに、愛情を感じない人間なのです。愛情のある母親のふり、はたまにしているのを見つけます。演技だなってわたしにはすぐにわかるんですけどね。くだらない、つまらない人。わたしは母のことをひとりでそう呼んでせせら笑っています。内心馬鹿にしたりもしています。囚人であるわたしはせいぜい狭い子ども部屋のなかで失敗作みたいな人生を嘆きながら送ることくらいしかできないんじゃないですか? わたしはそう思いますけどね。わたしが母親だったら、自分の子どもの才能を潰さないように大事にそっと育ててあげるような教育をしてあげたいなって思うんですけどね。こんな狭い牢獄のなかでは、わたしは大きな夢を見ることも叶えることもできない。凡人になりなさい。母は言います。平凡であるということが、人間の一番の幸福なのよ。なんて酷い言葉なのでしょうか。わたしは非凡でありたかったし、非凡であることが最大の幸福だと思っていたのに。非凡になりたいと言って足掻く私の手足をへし折って、動けなくして、どこにも行けなくしたのは、母でした。わたしは母にいっぱしの人間になる手段を奪われ、翼をもがれた小鳥のように地面に這いつくばって、空を飛びたいのだと羽根のない身体を鳥かごのなかで横たえたまま怨みがましく睨みつけながら一生を終えることになるのでしょう。でもね。わたしは最近思うんです。こんな狭い牢獄に囚人としてわたしを閉じ込めて、どこにも逃げ出せないようにしたのは、母の、母なりの、わたしへの歪んだ愛情表現なのかなって、最近ではそう思ってるんですよ。不器用ですよね。本当に、不器用。わたしの、母。わたしがいなければ、この子は死んでしまう。わたしがこの子を守ってあげなければ。一生、ずうっとわたしがあなたの面倒を見てあげるからね。なんでもしてあげるからね。母はそんな風に思っているのかもしれません。そんな、母の娘って、本当に苦労しますよね。だからわたしは家事もしないし就職もしないし、まるで赤ちゃんのころに戻ったみたいに、毎日寝てばかりいますよ。なんにも言わないし、なんにもしない置物か植物みたいな赤ちゃんですけどね。こうやって人間ってだんだん年をとって死んでいくんだなって、年々ひしひしとわかってきましたよ。母の手のひらのなかから出て行くことのない小さな人間に育ってしまったことだけが、唯一心残りですけど、わたしは、いまではなにかをするということに対して、なんの興味も未練も関心も、まったくないんです。つまらないし、くだらないでしょ? それでいいんです。しょうがないんです。わたしが冷たいあの人に愛を求めてしまったから。わたしがあの人に愛されない人間になってしまったから。でも、そんなことはもう、どうでもいいんです。まあ、こんな暗い話なんてどうでもいいので、めったに行きませんけど散歩にでも行って気分転換でもしましょうかね。


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