第14話 子犬に関する結論
篠崎が俺の事を想って、子犬の面倒を見るって言ってくれた事は解ったけど――
「篠崎、そう言ってくれるのは嬉しいけどさ……おまえの提案には無理があるぞ」
毎朝、俺の家に来て犬の世話をすると篠崎は言うが――
篠崎の家からうちまでは、徒歩とバスで約三十分。そこから子犬の散歩と餌やりと遊んでやったりすれば、一時間くらい掛かるだろう。これから夏になるから、犬の散歩も結構汗を掻くし、女子が着替えもシャワーもせずにそのまま登校というのは難しいだろう。
さらには、うちから学校まで一時間……俺は自転車でショートカットしてダッシュするから三十分で着くが、篠崎がバスと徒歩で行くなら、それくらいは掛かる。
着替えと身支度で三十分と計算すると――全部で三時間だ。八時半の登校時間に学校に着くには、篠崎は自分の家を五時半に出る必要がある。勿論、家を出るための身支度や朝食を食べる時間もあるのだ。
「毎朝、遅くても五時起きだ。朝飯か犬と遊ぶのを諦めれば、もう少しマシだろうけど……それじゃ本末転倒だろ?」
「でも……だったら、ワンちゃんと遊ぶのは諦めるよ」
「いや、それでも無理をするのには変わりないし。そこまでして貰うのは、さすがに俺も申し訳ないって思うよ」
子犬の世話や散歩だけでも、犬好きとしては楽しいだろうが――それだけのご褒美のために、篠崎に無理をさせようとは思わない。
「うーん……でも……」
なんで篠崎が、そこまで俺のためにしてくれるのか。それは解らないけれど――篠崎の気持ちには、応えたいと思う。
「篠崎……勘違いするなって。俺はもっと良い方法があるって言いたいんだよ」
「え……榊原君、どういう事?」
不思議そうな顔をする篠崎に、俺は微笑む。
「朝だから無理な話で……学校帰りなら、何とかなるんじゃないか?」
「でも……榊原君は忙しいから、家に早く帰れないでしょう?」
「ああ。だから……合鍵を渡すから、悪いけど俺のうちに勝手に入って貰えるか?」
学校帰りなら身支度を整える必要も無い。散歩用にジャージとかあった方が良いと思うが、汗を掻いたって、どうせ自分の家で風呂にはいるのだ。
それでも、俺のために篠崎に面倒を掛けるのは申し訳ないと思うが――毎日犬と遊べるのだから、篠崎としても、そこまで悪い話ではないと思う。
なかなかの名案だろうって、俺が篠崎の方を見ると――篠崎は沸騰しそうなほど真っ赤になって、目をくるくる回していた。
「さ、榊原君の家の……あ、合鍵を私に……」
篠崎が何を言いたいのかは、俺にも解ったが――
「いや、
思わず赤面して、篠崎から目を逸らす。
「で、でも……榊原君は、私の事を信頼してくれるって事だよね?」
「ああ、勿論だ……篠崎と
「榊原君……わ、私……凄く嬉しい……」
両手で顔を押さえて、涙ぐむ篠崎に――俺も暖かい気持ちになる。篠崎の優しさとか、人の事を想う気持ちとか……それを自分に向けられると、少し照れ臭いけれど、素直に嬉しかった。
そんな風に俺が思っていると――いきなり後ろから肩を掴まれて、強引に振り向かされる。
「颯太、人が黙って聞いていれば……あんたねえ! いったい、何を考えてるのよ!」
まるで般若のように怒った顔で、葵が俺を睨みつける。
「な、何だよ、葵……だから、変な意味じゃないって言ってるだろ?」
俺は初めて、女が怖いと思った。
「だからって……なんで篠崎さんに合鍵を渡すのよ? 犬の世話くらい、私がしてあげるわよ!」
「いや、篠崎が犬と遊ぶのも目的の一つなんだからさ。おまえがやったら意味がないだろう?」
「だけど、女の子に鍵を渡すとか……そんなの駄目に決まってるわよ!」
「仕方ないだろ、そうしないと家に入れないんだからさ」
正論を言う俺に――葵は完全に切れた。
「もう……なんで、颯太は解ってくれないの! 篠崎さんだけだなんてズルわよ!」
勢いでそこまで言い切って――葵は真っ赤になって固まる。『やってしまったと!』と葵の顔に書いてあった。
葵の好意に……俺は全く気づいていないほど、鈍感じゃない。いや、それが愛とか恋という意味かは解らないが、少なくとも俺の事を憎からず思ってくれている筈だ。
だから……俺は気づかないフリをする。
「何だよ……合鍵くらい。だったら、葵にも渡しておこうか?」
「「え……」」
葵と篠崎の声が重なる――唖然としているのは、二人とも同じだった。
今の距離感から言えば、篠崎の方が近い。篠崎の事を可愛いと思うし、一緒にいると楽しいと思うが……だけど合鍵の事は本当に俺にとって、そこまで特別な事じゃなかった。
それに葵の事だって、幼馴染で性格も解っているし、信用もしている。そして……三年近くも距離を置いてしまった事を、今さらながら申し訳ないと思っていた。
その罪滅ぼしになんて、ならないと思うけど……葵が望むなら、少しくらいは言う事を聞いてやりたいと思ったんだ。
二人の女の子に合鍵を渡すなんて――篠崎は引いてしまうだろうと俺は思っていた。
だけど、確かに篠崎は最初、唖然としていたが……すぐに優しい笑みを浮かべて『私は良いよ』って感じで頷いてくれ。
しかし、葵の方はというと――それだけでは納得しなかった。
「颯太……もう一つだけ、私のお願いを聞いて!」
覚悟を決めたような葵の言葉を、俺は正面から受け止める。
「何だよ……約束はしないけど、言うだけ言ってみろよ」
「合鍵の事は……篠崎さんと同じになったけど。私とも……もう少し付き合いなさいよ!」
「付き合うって……葵には悪いけど、俺にはそんなに時間がないんだ」
「そんなの、隣に住んでるんだから解っているわよ! だから……朝のランニングを、また一緒にさせて欲しいの!」
俺のランニングは小学生の頃に始めたから、当然葵も知っていた。
「いや、葵……おまえと一緒に走ったのなんて、小学二年までだろう? 今の俺のペースに付いて来られるのか?」
俺はほとんど毎日走ってるし、男女の体力や筋力の違いもある。
「颯太、馬鹿にしないでよ! 私だって陸上部だし、毎日走ってるんだから!」
葵の部活の事は知らなかったが――へえ、空手部じゃないんだ?
「まあ、葵が付いて来られるなら俺は構わないが。言っておくけど、おまえにペースを合わせるとか、絶対にしないからな?」
「だから、馬鹿にするなって言ってるでしょ! でも、言質は取ったからね……絶対約束は守って貰うわよ!」
葵は何故か胸を張って、勝ち誇るように笑う――いや、ちょっと胸が足りない気がするが。
これでようやく葵の機嫌も直ったみたいだなと、俺は苦笑しながら、内心でそう思っていた。
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