「パニック」「超能力」「ペットボトル」 作・麦茶

 彼は昼休みになる前に、持ってきたお茶を全部飲み切ってしまったらしい。トイレの横にある給水機で水を汲む。空のペットボトルに冷たい水が溜まっていくにつれて、彼は征服感にも似た満足を感じているようだ。目がらんらんと輝き、口元はだらしなく緩みかけている。そして、足踏み式のペダルに体重をかけ、いくらか前傾姿勢になりながら、透明な容器の中で透明な液体が踊る様子を見ている。


 水が満杯になったペットボトルを片手に持って、屋上への階段を上がる。もう少しで屋上につくというところで、僕は階段に腰を下ろす。人間のざわめきは遠のき、ただ自分自身だけが生きているような気分になる。水の重さが手の中で揺れる。このペットボトルは特別で、僕は毎日このボトルに茶を詰めている。ただ午前中に身体を動かすようなことがあると、こうやって昼前には水を入れることになる。水を入れたペットボトルはとても危険だ。僕は他人に害の無いように、こうしてボトルに水を詰めた直後は屋上のドアを背にして薄暗い階段に座り、ただひたすらボトルを見つめる。決して屋上に出てはならない。しかし喫煙場所は屋上にしかないから、禁忌は容易に破られる。

 屋上のドアが開くと、真夏の陽光がどっとなだれ込んできて、ペットボトルを照らし出す。水は滑らかなプリズムとなり、虹を吐き出す。水はボトルの中で自在に揺れ、そのたびにきらきらしい光を僕の目に投げかける。虹が迫ってくる。視神経を圧迫し、脳髄のすみずみを蹂躙する。灰白色の脳髄がもう駄目だと言い出すときには、僕には虹色の能力が備わっている。とても危険な能力だ。他の人に与えてしまっては、すぐに破滅してしまうだろう。僕は指先をペットボトルに突き刺す。音もたてずに穴が開き、そこから水がだらだら溢れ出してくる。その水の端々に、まだ陽光の奇術が閃いている。恐慌状態が水の形をとって僕の足元に這い寄ってくる。そしてそのまま僕の足にまとわりつき、徐々に心臓部をめがけて上がってくる。ふくらはぎと太ももと、腹、背、腕を締め上げながら、僕の心臓を止めようとする……。これが虹色の魔術の本質だ。能力は己を手に入れた人間から精気を奪い、自らの糧にする。能力は人間を利用して肥大化する。今までこんな恐慌を味わったことはなかった。明確に奴は進化している、僕の精気を吸い取っている。僕がまだ若いから生き延びていられるというだけで、もしこのボトルの持ち主が隣室の老人だったならば、数日で魔術に寿命を根こそぎ持っていかれていただろう。そして老人の死体は人知れず処理され、ペットボトルの怪異は闇に封じられるだろう……。ああ心臓に水が迫ってきた。ちろちろと蛇が舌なめずりをするようなかすかな音が、僕の命を狙ってやってくる。助けてくれ助けてくれ助けてくれエエエーッ…………。


9月21日月曜日、206号室の患者が脱走ののち死亡。脱走についてはすでに常習犯であり、数十分もすれば帰ってくるのが常だったため看護師も心配はしていなかった。しかし21日深夜、巡回の警備員が屋上そばの階段で倒れているところを発見し、死亡が確認された。患者の胸は抉り取られたようになっており、心臓が失われていた。最初は事故死と見られたが、血痕が胸部周辺以外に認められず、警察は何者かの犯行と見て調査する方針だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る