外伝 勇者編
第57話 勇者リョウタの物語
目が覚めた俺は感覚的に寝坊したことを悟った。
寝起きの良さには自信のある俺ではあったけれど、今日に限って目覚ましをかけ忘れてしまっていたようだ。人間なのでそんな失敗はしてしまうこともあるとは思うのだけれど、いつもと違うことが一つあった。寝坊した俺を起こしてくれるはずの母さんが起こしに来てくれていないのだ。
俺は皆勤賞なんかに興味は無いのだけれど、遅刻して目立つことがたまらなく嫌だった。俺の担任は性格がひねくれているようで、ちょっとした生徒のミスを見付けてはネチネチと嫌味を言うことが多い。きっと暗い青春を過ごしていて、その腹いせに生徒たちに嫌がらせのようなことをしているのだと俺は思う。仕事に個人的な感情を持ち込むなよと俺は思っているけれど、今はどうやってその嫌味をかわすかということに全神経を集中させなくてはいけない。
いったい今は何時なのだろうと時計を確認しようとしたのだけれど、ここは俺の部屋ではないようだった。
というよりも、俺の家でもなく全くの知らない場所のようだった。
周りを見渡すと、壁という壁が水槽になっていてその中を知らない魚がたくさん泳いでいるのだった。
「なんだよ、ここは。俺はまだ夢の中なのか?」
辺りを見回してみても、壁も床も天井も全て水槽になっていた。
もしかしたら、俺はガラス張りの部屋ごと海の中にでも落とされたのではないかと思うような光景が広がっているのだけれど、出口が見当たらない以上はどうすることも出来ない。
周りを水に囲まれているので多少は圧迫感を感じているけれど、密閉されている部屋の中にいるはずなのに息苦しさなどは感じることも無く、むしろ清々しい気持ちになっていた。
名前も知らない魚が優雅に泳いでいる姿を眺めていると、水槽に反射している自分の姿を見ることが出来た。
いつもの部屋着で少し寝癖のついた髪が毎朝変わらない俺の姿だった。何故か俺の後ろに見知らぬ女の姿が見えてしまったで、俺は思わず変な声を出して飛び上がってしまった。
クラスの女子ともまともに話したことのない俺のすぐ後ろに女の人が立っているなんて想像も出来なかったのだけれど、そんな俺を見て女の人はクスクスと笑っていた。
「うわあああ、びっくりした。いつからいました?」
俺はぎこちなく後ろを振り返りながら女の人に話しかけたのだけれど、相変わらず女の人はクスクスと笑っているだけだった。
「あの、ここってどこですか?」
「すいません。あなたの反応が可愛らしくてつい。ここがどこかと聞かれますと、そうですね。わかりやすい言い方をすると、ここは天国ってとこですかね」
「天国?」
俺は女の人の口から出た言葉が全く予想もしていなかったものだったので驚いてしまった。
大体、天国ってもっと広々として綺麗な景色が広がっているのだと思っていた。
この部屋も水槽を中から覗いているみたいで綺麗ではあったのだけれど、天国がこんな場所だよと言われても信じる人は誰もいないだろう。綺麗な場所ではあるのだけれど。
「天国ってことは、俺は死んだってことですか?」
「うーん、正確に言うと、あなたは元々暮らしていた世界では死んでいるのですが、今はまだ死んでいる途中の段階なんですよね。肉体的には確実に死んでいるのですが、精神的にはまだ死に切れていない状態なんですよ。普通の人だったら肉体が死んだら一緒に精神も死ぬんですけど、あなたの場合は肉体と精神が完全にリンクしていなかったようで、精神が体の死を受け入れなかったみたいですよ」
「じゃあ、俺は特別な人間だったってことですか?」
「そうですね、特別な人間であることは間違いないのですが、それをちゃんと生かすことが出来るかは別の問題なんですよ」
「特別な人間である俺が何かしたら生き返れるってこともあるんですか?」
「生き返ることは出来るかもしれないですけど、あなたの体はもう荼毘に付されていますので生き返るだけ無駄だと思いますよ。戻る肉体がないんですからね」
「それならどうすればいいんですか?」
「そこで相談なんですが、話だけでも聞いてもらってもいいですか?」
「話を聞くのは構いませんが、俺がその相談を断ったらどうなるんですか?」
「えっとですね、私の相談を聞いてもらえないんでしたら、精神が朽ちるまでこの部屋でずっと魚たちを見てもらうだけですかね」
「それって、俺に選択肢ないじゃないですか」
「そうかもしれませんね。そこで相談なんですが、あなたには新しい世界で新しい肉体を手に入れて、勇者として活動してもらって大魔王を退治して欲しいのです」
「ああ、そんな事なら望むところです。逆に、こちらからお願いしたいくらいの話じゃないですか。昔からそういうのに憧れていたんですよ。俺が勇者になって冒険をして、仲間と共に大魔王を倒すってのがね」
「それは良かった。あなたが理解力のある方で助かりました。では、簡単に自己紹介をさせていただきますね。私の名前はリリスです」
「俺の名前はリョウタです。期待にこたえられるように精一杯頑張ります」
「そうそう、神から賜わりし魔剣がありますのでリョウタさんにお渡ししますね」
リリスが壁に手を入れると、その中から何かを引っ張り出してきた。
勇者のはずの俺が受け取るのが魔剣というのは少し引っかかるけれど、強力な武器をもらえるのは嬉しいことだ。案外、魔剣使いの勇者という響きも悪くないと思う。
リリスが俺に手渡してきた魔剣は刀身も黒いのだが、あまりにも黒すぎるためか自分の姿すらも映し出してはいなかった。
「その魔剣なんですけど、血を吸えば吸うほど切れ味が鋭くなっていきますからね。普通にその辺の動物とかを斬ってもいいんですけど、出来ることなら魔力の高い生物を斬った方が強化の度合いが高くなりますからね。大魔王を斬ることが出来てその血を魔剣に吸わせることが出来れば、その時点でリョウタさんの勝利は揺るぎないものとなるでしょう」
「大魔王に傷をつけて血を吸わせれば勝ちって、そんな簡単なことでいいの?」
「ええ、そんな簡単なことで良いってくらいその魔剣は優れているのですよ。魔力が強い物の血の一滴は弱い者の血を全て吸収するよりも得るものが大きいのです。ましてや、大魔王の力となると天井知らずなはずですからね」
「へえ、なんだか行けそうな気がするよ。ちなみに、その大魔王ってどんなやつなのかな?」
「簡単に言いますと、元々は神の使徒だったのですが、何らかのきっかけがあって神と戦うことになったことがありまして、神を一度退けているのです。その時から堕天使ルシファーは大魔王としてあの世界に君臨することになったのです」
「大魔王ルシファーか。どんな姿なのかはわかりますか?」
「ええ、わかりますけれど、今のあなたには会ったところで何もできずに終わると思いますので、あなたが強くなるまではその情報を与えないようにした方がいいかと思いますよ。間違って出会ってしまっても、それがルシファーだと認識していなければ向こうも襲ってはこないでしょうからね」
「よくわからないけど、そういうものなんですね」
「そういうものなんです。あと、今いるような結界内以外で大魔王ルシファーの名前を言ってはいけませんよ」
「言ったらどうなるんですか?」
「ルシファーはどういうわけか勇者を探しているのですが、勇者であるあなたがルシファーの名前を言ってしまうと、目の前にルシファーを呼び寄せてしまうことになるのです」
「もしかして、その言い方だと、過去にいた勇者がルシファーを呼び寄せてしまったことがあるんですか?」
「そうですね、詳しいことを言うとリョウタさんが恐れてしまうかもしれないので言いにくいのですが、そんなこともあったかもしれませんね」
「出来るだけ気を付けます」
「じゃあ、大魔王のいる世界にあなたを転送しますね。準備はいいですか?」
「あ、一つだけ確認したいのですが、俺はなんで死んだんですか?」
「それは思い出さない方がいいと思いますよ」
リリスは俺を強く抱きしめてきたのだが、その力が強くなっていけばいくほど俺の体をまぶしい光が包み込んでいた。
強い力で抱きしめられている痛みと、あまりの眩しさで意識が遠くにいってしまいそうになっていた。
再び俺が目を覚ますと、そこは何もないただの草原だった。
せめて街中で目覚めさせてほしいと思ったけれど、贅沢は言っていられない。
「よし、とりあえず大魔王ルシファーを倒すために頑張らないとな」
俺は昔から何かをするときに口に出して確認してしまう癖があるのだった。
この癖は死んでも治らないのだと思ったのだが、そんな俺の目の前に見たことも無いくらい恐ろしい表情をしている男が立っていた。
その男は背中に無数の羽をはやしているのだが、そのどれもが黒々としていた。まるで、俺の持っている魔剣の刀身のようだった。
「勇者に名前を呼ばれたと思って来てみたのだが、お前が本当に勇者なのか?」
大魔王ルシファーの言葉は強い口調ではなかったのだが、その言葉の奥から感じる殺意のようなものが俺の背筋を凍らせていた。
俺が何も答えることが出来ない姿を見ても大魔王ルシファーの殺意は変わらないようで、俺は言葉よりも先に魔剣を大魔王ルシファーに向けていた。
「その剣で俺を殺すつもりなのか?」
「ああ、そうだ」
俺はやっとの思いで言葉をひねり出したのだが、そんな俺の姿をあざ笑うかのように大魔王ルシファーは俺の間合いに易々と踏み込んできた。
「さあ、その剣で俺を斬り殺してみろ。出来るものならな」
俺は恐怖に押しつぶされそうになる気持ちをぐっと抑え込んで、魔剣に力を一杯込めて突き刺した。
何度も何度も突き刺したのだが、その刃が大魔王ルシファーに傷をつけることは無かった。
それではと、大魔王ルシファーに向かって思いっきり上段から振り下ろしたのだが、その刃も大魔王ルシファーに傷をつけることが出来なかった。
「なんで?」
大魔王に傷を付けるだけで勝てると言う簡単な話だったはずなのに、どうしてこれだけやっても傷がつかないんだ?
俺は一心不乱に魔剣を振りまくったのだが、大魔王に傷を付けることが出来ず、自分の力のなさに落胆するばかりだった。
「本来ならお前みたいな小物は無視しても問題ないと思うのだが、お前の持っているその剣とお前が勇者である事実を考慮すると、お前を生かしておく理由は無いな」
いつの間にか大魔王ルシファーの手に俺の体よりも大きな刃のついた大鎌が握られていたのだった。
アレで斬られるとマズいと本能で感じた俺は恥も外聞もかなぐり捨ててその場から逃げだろうとした。
逃げ出そうとしたのだけれど、足が思うように動かなかった。
足が動かないのではなく、足が無くなっていたのだった。
痛みも何も感じることがないまま、足は切断されていたのだけれど、ふと振り返ると、俺の体が地面に倒れこんでいた。
立ち上がろうと思って手に力を入れようと思ったのだが、いつの間にか手も切断されていた。
痛みも何も感じないのを不思議に思っていたのだけれど、俺はこのまま死んでいくことをちゃんと理解していた。
意識ははっきりしているし、何が起こっているのかもはっきりと確認できたのだ。
俺の体を斬り刻んでいたのは大魔王ルシファーの持っている大鎌ではなく、俺の持っていた魔剣だったということを。
俺は背中に刺さっている魔剣の感覚を感じていたのだけれど、だんだんとその感覚もなくなっていき、今度こそ死んでしまうのだということをはっきりと理解しているのだった。
俺を見下ろす大魔王ルシファーは今まで一度も感じたことのないような憐れむ目で俺を見ていたのが印象的だった。
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