21 ダニエル

「【レディ・マフェットの瞳】というのは小さな宝石で、詳しいことはあまり伝えられていません。グイン・アップ・ニーズについてはやっていましたね。彼女の魂と能力を封じたものと言われていましたが、どうやら事実だったようです」


 アーチは本を何冊かピックアップして、綺麗に片付けられた食卓の上に置いた。

 それらをぱらぱらとめくりながら、


「【ハンプティ・ダンプティの黄身】というのは、別々の魂と肉体とを強制的にくっつけるための魔法具の一種です。魂の再利用は魔法法によって禁止されていますから、当然この道具も作製は禁じられています。……あった。これですね」


 記述のあったページを開いてテーブルの真ん中に置くと、三人が頭を突き合わせて覗き込んだ。

 文章は古めかしく、文字にはきつい崩しと飾りがあるために、非常に読みにくくなっている。

 だがアーネストはそれをすらすらと音読してみせた。


「汝【ハンプティ・ダンプティの黄身】を求めんとするならば、最も高名にして愛されし一月の男、誰からも見捨てられ害されし二月の女、怠惰に生き永らえ老いさらばえし三月の女、生き急ぎまろび出てきた四月の男、他を害するを生き甲斐とせし五月の男……」


 アーネストの滑らかな音読を聞きながら、アーチはぼんやりと思い返した。何度も読んだ本だから内容は覚えている。最も高名で愛された一月の男……一月生まれだった父の肋骨も、十二番目はなくなっていた……。


「えーと、とりあえず一月から十二月まで一人ずついて、その十二人から、えーっと、生きた胸の骨の右側の十二番目を集め、それを石臼で挽き、十二人の、しょ、じょ、の血を……“処女”ってなに?」

「いいから先を読めよ」

「僕聞いたことある。処女ってねー、男を知らない女の人のことなんだって」

「なにそれ。すっげー世間知らずじゃん」


 何も知らないアーネストと、比喩を理解していないダニエルに、唯一正しく知っているらしいヴィンセントが「いいから先を読め、って!」と悲鳴のような声を上げた。


「どこまで読んだんだっけ……そうそう、処女な。処女の血を十二夜かけて含ませ、その後、十二番目にこの世に出でしクスシヘビの十二週孵さないで保存した卵にニセアカシアの棘で穴をあけて流し込み、クスシヘビの幼体ごと十二時間煮詰め、完成した卵を塀の上から落とす。するとその中から現れるのが【ハンプティ・ダンプティの黄身】である。見た目は小さなガラス片だが、日の光にかざした時にウロボロス型の影が落ちれば成功である――あれ、これって」

「うん、たぶん、僕が拾ったやつだ」


 ダニエルがあまりにさらりと言ったので、アーチは思わず「はぁっ?」と素の反応をしてしまった。

 唐突な大声にダニエルは目をぱちくりとさせて、


「ごめん、最初に言うタイミング逃して、それからずっと忘れてた……」


 としゅんとした。


「失礼、怒ったわけではないんです。ただ驚いて」


 アーチは言い訳のようなものを呟いた。


「どこで拾ったんですか?」

「僕らが魔法を撃ったところ。血の跡を調べてたら、その中に落ちてたんだ」

「それは今どこに?」

「昨日ヘンウッド先生に話したら、危険だから預かるって。だから渡しちゃった」

「ああ、それなら安心ですね」


 フィルの手元にあるのなら、間違いなくバロウッズ先生にも伝わるだろう。

 アーチはホッと息を吐いた。


一つ目とmono-eye逆さ十字団and SSORCの目的はそれを取り返すことだったんでしょうね。フィルの元に行ったということは、もう君たちは狙われないのでは?」

「ヘンウッド先生のところに移動した、って向こうが知っていればな」


 とヴィンセントが冷静に言った。


「どちらにせよ、逆恨みはされてそうだし」

「それもそうですね。では引き続き警戒して、危険を感じたら迷わず魔法を使うように」

「戦う時のコツって?」

「躊躇わないことです」


 アーネストの質問に、アーチは即答した。


「簡単な魔法で構いませんから、使えるものを使いなさい。先手を打てば相手が怯みます。その隙に畳みかければ大抵の場合勝てます」


 ヴィンセントが「脳筋……」と呟いたのを黙殺する。


「ただ、君たちは三人いるのですから、私のように一人で突っ込んでいく必要はありません。役割を分担して、守りを固めながら安全な距離を保って、冷静に魔法を使いなさい。それが本来あるべき“魔法使いの戦い方”です」

「そういえば師匠マスターって、スーツケースで殴ってばっかいるよな」


 とアーネスト。


「それが一番早くて簡単で、一人でも確実に倒せる方法でしたから」

「ドラゴンもそうやって倒したの?」


 ダニエルが目を輝かせる。


「ええ。殴って気絶させて、それから魔法で仕留めました」

「ドラゴンって気絶すんだ……」


 ちょっと呆れたようにヴィンセントが言った。


「骨と脳のある生き物ですからね」


 その時に右腕を食いちぎられかけたことは黙っていた。あの痛みと焦りはあまり思い出したくない。何年やってもなかなか慣れないものである。

 アーチはちらりと時計を見て、本を閉じると立ち上がった。


「そろそろ買い物に行ってきますが、君たちも来ますか?」


 ヴィンセントは答えずに「これ読んでいい?」とアーチが積んだ本に手を伸ばした。それだけで行く気がないことが分かる。

 アーネストは「俺は宿題が……やばい……」と顔をしかめた。

 ダニエルも同じように渋い顔をしていたが、突然パッとアーチの方を向いた。


「あっ、師匠、行くならあれが欲しい!」

「あれって何です?」

「あの……赤いパッケージのシリアル……美味しいやつ」

「……分かりません。欲しいなら付いてきなさい」

「はーい!」


 ダニエルはぴょんと椅子から飛び降りて、寝室へコートを取りに行った。

 その間にアーチは灰色のダッフルコートをハンガーから取り上げて、スマホと財布をポケットに放り込んだ。


「鍵は閉めていきます。アーネスト、何かあったら連絡してください」

「うん、分かった」


 三人の中で唯一スマートフォンを持っているアーネストが頷いた。それから彼は、地味なコートを羽織ったアーチをしみじみと見た。


「普通のコート着てる師匠って違和感すごいな」

「あ、もしかして師匠、それ狙ってんの?」


 ヴィンセントが顔を上げた。


「赤いコートの印象が付けば、隠れたいときはそれを脱げばいいから……」


 アーチは“正解”と言う代わりに微笑んだ。


「言ったでしょう。印象操作は重要だ、と」


 その時寝室から飛び出てきたダニエルが「わっ、誰?! ……あ、師匠か。コートが違うと別人みたいだねぇ」と言って、その効果のほどを証明した。


 スーパーに着くと、ダニエルは素早くお目当てのものを発見してカゴに放り込んだ。


「これが美味しいんだ」

「何度も来るのは面倒なので、もう何袋か適当に選んでください」

「はーい」


 平日の午前中とだけあってスーパーは空いていた。そうでなくとも、赤いコートでなければ注目は集まらないのだ。

 しゃがみ込んで一番下の棚を物色していたダニエルが、ふとこちらを見上げた。


「ね、師匠ってさ、昔っからそうだったの?」

「そう、と言いますと?」

「うーんと……なんていうか……戦うのが上手い? の?」

「いえ、最初からそうだったわけでは……」


 言いながら、アーチは自分の過去を掘り返した。

 アンブローズ・カレッジでも基礎的な戦闘訓練は行なわれる。希望すればもっと上級の訓練も受けられて、アーチは当然それに喜々として参加していた。その時点ではすでに、戦うことに抵抗は無かった。

 なら、一体いつからそうなったのだろう?


(カレッジへの入学前、初等学校プライマリースクールの頃は……ああ、なんかすでに、気に入らないやつのことは殴ってたような気が……それでよく母さんが呼び出されていたような気が……)


 思い出した。途端、アーチは頭を抱えたくなった。

 基本的に短気な性格であることは自覚していたが、『口で勝てる内は手を出すな!』という姉の指導の賜物で、喧嘩は少なくならなかった・・・・・・。手を出す順番が変わっただけで、最終的に殴り合いになることに変わりはなかったのだ。

 姉の指導は今もまだ、己の人生に色濃く影を落としている――家庭環境の恐ろしさとはこういうところだ。

 ふ、と、ダニエルが視線を落とす。


「僕さぁ、駄目なんだよね」

「何がです?」

「戦うとか、喧嘩するとか、そういうの。口喧嘩も、言われっぱなしになっちゃう……言い返そう、って思うんだけど、いざその場になったら、全然言葉が出てきてくれないんだ。で、迷ってるうちに、アーネストとヴィンスが先に言い返してるの。いつも二人が、僕の代わりに全部言ってくれるんだ。でもそれじゃあ……よくない気がするから……どうすれば、戦えるようになるのかな、って……」


 彼は片腕で膝を抱え込み、もう一方の指先でシリアルの箱をゆらゆらとさせていた。

 アーチは返答に窮した。

 アーチの場合、言い返そうと思う前に言葉が出てくるし、出てこなかったら即座に手を出した。だから、ダニエルの気持ちは理解も想像も出来ない。

 隣にしゃがみ込む。


「すみません。私には分かりません」


 くるりとこちらを向いたエメラルドの瞳を、真っ直ぐに見返した。


「ですが、世の人がみんな血の気の多い人間になってしまったら、困ると思いますよ」

「……でもさぁ……」


 ダニエルは頬を膨らませた。


「僕だけ弱いのは嫌だよ。何をするのも遅いし、鈍臭いし……」


 アーチは眉を顰めて首を傾げた。三人の中で一番足が速くて体力があるのはダニエルじゃなかったか?


「呪文を覚えるのも苦手だし、数学も出来ないし、聖書も知らないし……」

「……それの何が悪いんです?」


 そう言うとダニエルはムッとしたようにアーチを睨んだ。


「足手まといになるじゃん。この間の、リーチェバラでだって、僕だけ怪我したし」

「自力で治していたじゃないですか」

「“裏道”に入る時転んだし」

「二回目は平気でしたよね」

「魔法バスに連れてかれそうになったし」

「間に合ったのだからいいでしょう」

「牛乳ぶちまけちゃったし」

「おっと、買い忘れるところでした。思い出させてくれてありがとうございます」


 アーチがにっこりと微笑みかけると、ダニエルはますますムッとした顔になって、ますます頬を膨らませた。

 このまま放っておいたら破裂するんじゃないだろうか――だがその時には堪忍袋も一緒に弾けるのだろう。

 そう思ってアーチは表情を改めた。


(気にするな、というのは無理なんだろうな。本当に、気にする必要はないのに……)


 ダニエルが足手まといになっているとアーチは思わない。たとえなっていたとしても、それをアーネストやヴィンセントが嫌がることはないだろう。

 だがそれはあくまで他人からの評価であって、彼自身の認識とは関係ないことだ。


(強くなりたいという気持ちを否定するのは、違う)


 自分は弱いと他ならぬ自分自身がそう思って、そのままでいることを認めないのならば、そこから脱するための努力を捨てて良いとは思わない。そんなことは言えない。

 そこまで考えてようやく、それがアーチにも覚えのある感覚だと思い至った。

 フリーランスになりたての、何をやってもうまくいかなかった頃。あの頃の自分の、嵐の海を筏で漂っているような恐怖と焦燥に近しいものを、彼が今感じているのであれば。

 欲しいのは保証だ。


「出来ないことが数え終わったなら、それらを一つずつ出来ることに変えていけばいいのですよ。時間は充分にありますし、君には勇気と体力がある」

「嘘。そんなのある?」


 不審げに聞き返したダニエルに、アーチは即答した。


「あります。敵の蛇からヴィンセントを守ったことを忘れたのですか? 地下水道で真っ先にマンホールに辿り着いて、開けてくれたのは誰ですか? 悪いところを数えるなら、良いところも数えておきなさい。何事もバランスが重要です。……行きますよ」


 カゴを持って立ち上がる。


「ねぇ、師匠。あのさ……」

「なんですか」

「あのね、僕……その……」


 ダニエルは言いにくそうに少し口をもごもごさせていたが、やがて「……シリアル、もう二つ、追加していい?」と上目遣いで言った。

 アーチが黙ってカゴを差し出すと、彼はひょいひょいとシリアルの箱を放り込んだ。


「そういう遠慮のなさも君の好いところですよ」

「普通は褒めないよ、そんなところ」


 言い返しながら、ダニエルはへへっと嬉しそうに笑った。

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