3 親友・宿敵

 日の光が瞼に当たったのを感じて、アーチは目を覚ました。


「おはよう、アーチ。すっかり君専用になりつつあるね、その場所」

「……他にが使えるベッドがありませんから」


 フィリップ・ヘンウッドは、アンブローズ・カレッジの上級魔術院に進学し、そのまま流れるように養護教諭として帰ってきた優秀な男だ。柔らかな物腰と豊富な知識を持っていて、ユーモアもあり、生徒にも人気がある――ただ、不思議なことに女の影だけはないが。

 アーチにとっては唯一の親友だから、彼の前では少しだけ素が出てしまっていた。

 朝日を背負って焦げたようになっていた髪が、壁の陰に入って元の栗色に戻った。フィルは近くにあった丸椅子に腰かけて、思慮深いブラウンの瞳を心配そうに細めた。


「聞いたよ。あの三人を弟子に迎える、って」

「……耳が早いですね」

「大丈夫なの?」

「……なにが?」

「仕事さ、君の。妨げになるんじゃない?」


 アーチはぼさぼさになった髪の毛を掻きまわし、欠伸をしながらベッドに腰掛けた。スーツケースから櫛を取り出して髪をとかす。ようやく、元の長さ――四年前の吸血鬼暴走事件の時に切り落とす前と同じくらい――に近付いてきた。

 それを首の後ろでひとつにまとめながら、ちょっと肩をすくめる。


「何とかしますよ。仕方がないから」

「無茶しないようにね」

「それは依頼次第ですね」

「どんな依頼であっても、だよ。この間のドラゴン討伐の時だって――」

「その話はもういいでしょう。希少な龍の血石をあげたことを忘れたんですか?」

「貰ったその場で、半分を君の治療に使ったんだけどね」

「そうなんですか?」

「そうだよ。君の右腕が今きちんとくっ付いていて、ちゃんと動いているのは、そのおかげなんだから」


 意識を失っている間の話を恩着せがましく言われても、と思ったが、アーチは黙った。

 立ち上がり、昨日の仕事終わりに着替えてから今まで着っ放しの服に手を当てる。「『サッパリ綺麗にrefreshing』」と唱えると、金色の光がふわりと漂って、すぐ空気に溶けた。寝ている間に付いた皺が取れたかどうかを確認して、ネクタイを締める。

 フィルは深い溜め息をついた。


「“サッパリ綺麗に”、都合よく記憶を消すのは君の得意技だな」

「僕が一番まともに使える不可視性魔法インビジブルですからね」

「アーチ」


 フィルは目を尖らせた。軽口に付き合う気はないようだ。

 昔からそうだ、生真面目な奴め、と思ったが、彼の治療に何度も命を救われていることは事実として確かだ。アーチはそれ以上反発するのをやめた。銀色のタイピンを留め、椅子に掛けておいたジャケットの袖に手を通す。


「分かってますよ。別に僕だって、怪我をしたくてしているわけじゃないんです。怪我をせずに済むのなら、それに越したことはない」


 赤いコートを羽織る。


「それに、僕がまだ死ねない・・・・ことは、君も知っているでしょう」


 そう言うとフィルは黙った。彼の目がこちらをじっと見ているのが分かったが、たとえ親友であっても、音になる前の言葉を汲み取ってやるほどアーチは優しくない。

 最後に眼鏡をかけて、完全に普段の姿になったアーチは、にっこりと笑いかけた。


「さぁ、朝食の時間です。行きましょう、フィル」



 医務室を出て、玄関ホールを横切る。

 寮の方から壁をすり抜けてきた生徒たちが、数人ずつの固まりになって歩いていて、ホールには彼らの談笑がこだましている。九月ごろに来れば壁抜けに手間取る新入生の進退窮まった姿が見られるのだが、二月ともなればもう皆慣れているようだった。

 食堂を目指す生徒たちの視線が遠慮なく集まってくる。黒いローブを着た集団の中に、アーチの真っ赤なコートは驚くほど目立つのだ。このコートのおかげで、彼があの・・スリム・ウルフであることは、誰もが一目で察していた。おそらく三人組の弟子入りの話も伝わっているのだろう。談笑の隙間に、貝殻を磨り潰すようなひそひそ話が混ざった。

 “黒い羊”扱いには慣れている。黒ではなく“赤”だが。アーチはまったく気にすることなく食堂に入って――

 ――そこで少年の声を聞いてぴたりと足を止めた。

 広い食堂の奥の方で、歓声と怒声の入り混じった声が上がっている。アーチの在学中にもよく見た光景だ。

 生徒同士の喧嘩。

 無責任なゴーストたちがやんややんやと喚きながら、火に油を注ぐように飛び回っていた。

 あと少し待てば先生が飛び込んできて、喧嘩に参加したものには残らず処罰が与えられるだろう。こんなものそれまで放っておくに限る。

 と思って、だがその考えはすぐに翻った。

 昨日見たばかりの金髪が中心で取っ組み合っている。


(一ヶ月は執行猶予期間だ、と言われたのを忘れたのだろうか……)


 周囲には茶髪と紺色もいて、すでに三人とも杖を出していた。彼らに相対する連中も数人いて、同様にしている。魔法が放たれたら誤魔化し切れないかもしれない。

 アーチは早口で言った。


「フィル、三分以内に収めます。無理だったら、ミル先生の足止めをお願いします」


 数テンポ遅れて事態を察したフィルが「りょ、了解!」と言うのを背中で聞いて、アーチは喧嘩の中心に踏み込んだ。


「ふざけんなよお前!」

「そっちこそ!」


 取っ組み合っていた二人が同時にバッと離れて、杖を振り上げた。


「『雷撃ビリビリblitz』!」

「『紅焔メラメラblaze』!」


 ぎりぎりだ。アーチは金髪の少年の手首を掴んで後ろにやりながら、自分の体を彼の前に滑り込ませた。

 背後で噴き上がった炎がアーチの毛先を焼いて、真正面から飛んできた稲妻が胸の中央に突き刺さった。ちょっとしたスタンガンより強い電撃がアーチの全身を駆け抜ける。周りから細い悲鳴が上がった。

 が、当の本人は、まったく何のダメージも負っていないように平然としていた。

 アーチは金髪の少年から手を離すと、静かな声で言った。


「全員、杖を収めなさい」


 少年たちはそれぞれの陣営同士で顔を見合わせた。もたもたしている。


「早く。先生に見つかれば、この場の全員に罰があることぐらい理解しているでしょう。それとも、今ここで私から罰を下しましょうか――『雷撃ビリビリblitz』」


 アーチが片方の踵を思いきり床に打ちつける。バチバチッ、と音を立てて真っ白い稲妻の破片が飛び散り、石の床を焦がした。先程の少年の雷撃とは比べ物にならないほど高密度であることは、誰の目から見ても明らかだ。

 それを見て、真っ先にゴーストたちが姿を消した。次にギャラリーたちがそそくさと着席し出す。

 その音に紛れるようにして、当事者の少年たちがようやく、おずおずと、あるいはしぶしぶと、杖をしまった。

 アーチは安堵の息を吐いた。どうにか間に合ったか。


「さぁ、あなたたちも早く席に――」


 と、振り返ったところで、アーチは食堂に入ってきた人物を認め顔をしかめた。フィルがその後ろの方で、申し訳なさそうに両手を合わせていた。

 ふんぞり返った中年の女性――魔性占星術を専門とするルシア・ミル先生――が、こちらに向かってつかつかとやってくる。体重からすれば“どすどす”という擬声語の方がよっぽどお似合いなのだが。胸より腹のせいでボタンが弾けそうになっている。かなりの毛量を誇る焦げ茶の髪を、これでもかとばかりにきつくひっ詰めて、頭頂部に二つ目の頭を顕現させていた。金枝階級ゴールドの魔法使いにだけ所持を許される大きな魔法の杖を、腕と一緒にブンブン振り回している。振れ幅から察するに、かなりお怒りのようだ。

 幅の狭い銀色の眼鏡の向こうから、暗い紫色の瞳が、アーチをじろりと睨み上げた。


「そこで何をしているのです? アーチボルト・ウルフ」


 反抗は認めません、否定はさせません、異論があればことごとく却下です、と断言するような一方的な尋問口調だった。彼女はいつもそうだ。そしてそのキツい性格と同じぐらい化粧も分厚くて、香水もキツい。

 鼻をつまみたくなるのを抑えて、アーチは笑みを張り付けた。


「ご無沙汰しております、ミル先生。良い朝ですね」

「形式だけの挨拶は結構。答えなさい、何をしていたのです?」

「お答えするまでもありません。ただの日常茶飯事ですよ」


 ミル先生は嘗め回すようにじっくりとアーチを見て、アーチの後ろで立ち尽くしている少年たちを見て、それから軽蔑するように歪んだ笑みを浮かべた。


「なぁるほど。さっそく師匠面・・・をなさっているようじゃありませんか、ウルフ? 随分とやる気がございますのねぇ」


 ムッとしたのを気取られないように、アーチは自分の爪の長さを確かめた。(少し長くなってきたな。そろそろ切らないと)

 それからわざわざ弱ったような声を出す。


「なけなしのやる気を振り絞っているのですよ。噂では、私の降格が検討されているようですので」


 ミル先生の顔色が変わった。


「……どこで聞いたのです」

「さて」

「バロウッズか。バロウッズですね! ああもうまったく、あの・・会議の内容は極秘だとあれほど言われていたにもかかわらず――っ!」


 どうやら、その会議ではよほど重要なことが話し合われたらしい。よくよく考えてみれば、一個人の階級の如何程度に箝口令が敷かれるなんておかしなことだった。

 ドカドカドカドカと象のような足が乱暴に近付いてきた。

 思わず後退りしそうになったのを、もうこちらの方がずっと背が高いのだから、と気力で押しとどめる。実際、かつては目と鼻の先で高圧的に睨んできた目が、今はだいぶ下の方にある。背伸びをしたって無駄だ、怖くもなんともない――出来るだけ近付かないでほしいことは昔から変わらないが。下品に塗りたくった化粧と髪をがちがちに固めるワックスのにおいが、混ざりながら押し寄せてきて、鼻が二百六十度曲がりそうだ。


「どこまで聞いたのです」

「いいえ、余計なことは何も」

「嘘をおっしゃい!」

「おや、私の嘘を見破れないほど耄碌したのですか? では、退職も間近ですね」


 今度ムッとした顔をするのはミル先生の方だった。

 そしてしばらくそのまま視線でアーチが死ぬことを期待していたようだったが、やがて視線だけでは無理なことに気が付いたらしい。ふん、と鼻を鳴らすと背伸びをやめた。

 ホッとしたアーチの鼻先に杖が突き付けられた。咄嗟に頭を反らせなければ、ハンドクリームだらけの持ち手が鼻に当たるところだった。危なかった。


「せいぜいこの一ヶ月間、死なないように……いいえ、死なせないように・・・・・・・・、お気を付け遊ばせ。特にそこのは」


 と、ミル先生は顎で金髪の少年を指した。


「死んだらこと・・ですからねぇえ」


 それがいったいどういう意味なのか、アーチは計りかねた。

 だが、彼女に詳しく聞くのはプライドが許さない(たとえ聞いたところで答えてくれるわけがない)ので、代わりに笑顔をプレゼントする。


「一ヶ月後、私どもが元気に帰ってきても、どうか呪わないでくださいね、先生。先生の・・・予言が外れるのはよくある・・・・ことですから」

「フンッ、どうやらウルフは、お弟子さんたちとの楽しい・・・朝食を邪魔されてご立腹のご様子ですねぇ。これは失礼。ではどうぞごゆっくり・・・・・


 どうあっても教員用の席には来るな、ということらしい。

 勝ち誇ったように遠ざかっていく後頭部に、ハゲ魔法をかけたくなる衝動がフツフツと湧き上がってきた。が、それをやったら間違いなく叩き出される。寸でのところで我慢して、アーチは振り返った。

 三対の目がじっとこちらを見上げている。

 アーチは少しだけ気恥ずかしさを感じながら――十二、三歳の少年と話すことなどないから、どう話しかけたらいいのか、よく分からないのだ――やや目を逸らしがちに言った。


「朝食の席、お邪魔しても?」


 少年たちはちょっと互いの顔を見合って、しかしすぐに金髪の少年が「もちろん!」と言うと、パタパタと席に着いた。


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