ドルチェ先輩は僕を青春にしたい
白乃友。
眼球スプライト殺人事件
第1話 映画People
ドルチェ先輩が訪ねてきた。
一年一組における、土曜日の日常。半日授業が終わった放課後。
僕は、自分の居場所である窓際最後列の席から、対角線上、教室の入り口付近に立っているドルチェ先輩のことを見つめている。窓の外では、雨が降っている。
彼女は、黒板のすぐ傍の席に陣取っていた三人の女子たちと、まるで気の置けない同級生同士であるかのように親しげに二、三言交わした後、そのうちの一人へ、自分の手に持っていた傘を差しだした。ビニール傘ではない、洒落た柄をした青い傘である。女子たちは、身に余る光栄に高揚した様子で傘を受け取り、ドルチェ先輩へお礼を言った。すると、今度はなぜかドルチェ先輩の方が顔を赤らめ、ともすれば傘を貸してもらった少女たちを上回るような喜色を滲ませながら……
「私は、大丈夫。……当てが、あるから」
きっと、そう言った。
教室の隅からでは声を拾うことはできなかったが、間違いないと僕は思った。
ドルチェ先輩の言う当てとは、十中八九、彼女の恋人のことであろう。
その様子を見ながら、僕は僅かに憂鬱になった。
なぜなら、
「お待たせ、アクラツ君」
僕は今日、小さい折り畳み傘しか持ってきていないのである。
僕の席の元へとやってきたドルチェ先輩は、穏やかな微笑を浮かべながら、いつものように声をかけてきた。
雨音が、少しだけ弱まった気がした。
「一緒に帰りましょう。そ、それで……私、今日は傘を忘れてしまったの。天気予報を見ていなくて……だから、その……アクラツ君の傘に、私も入れてくれないかなぁ、なんて……。ほら、そういう恋人らしいことって、そろそろアクラツ君も、やってみたくないかなぁ、とか……」
「困ってる後輩に傘を貸してあげたところ、見ていましたよ」
「ええっ、あ、う」
両手の指先を胸元で合わせながら、ドルチェ先輩は顔をそらす。
「は、恥ずかしい……」
僕は彼女に、折り畳み傘しか持ってきていないと告げる。
すると、雨が止むまで校内で時間を潰そうという話になった。
ドルチェ先輩は僕の肩が濡れるかもしれないと案じてくれたのだろう。
僕も、彼女の肩に対して同様の心配をしていたため、雨宿りに賛成した。
僕たちは、自分たちが所属する第二映画部の部室へと、並んで歩いて向かった。
部室にはプロジェクターがある。それで短編映画を見ましょうよ、と、先輩が提案する。
古いDVDだかブルーレイディスクだかを持ってきているらしい。先輩の顔は、まるで楽しみにしていた大作映画が封切りされた日のファンみたいに、浮かれているようにも見える。
彼女が愛している映画のジャンルを思い返し、再び憂鬱になるが―――
「君と出会ってからね、雨の日は時々、傘泥棒が現れるのを望んでしまうの―――」
甘さが何一つ控えられていない欧米の菓子みたいにこってりとした、憂鬱であった。
学園のアイドル。
なんて矛盾した言葉だろう。
大衆が日常からの救いを求めるからこそ、アイドル―――偶像の需要が生まれるというのに、僕ら高校生にとっての日常たる学園の中で、神秘の似姿というものが成立し得るだなんて。
だが、ドルチェ先輩という存在を一言で表すなら、まさに学園のアイドルそのものである。
肩口までのふんわりと波打った美しい髪、習慣づいた微笑が少しずつ堆積して形成されたかのような二重のタレ目。
どんなに捻くれた人間であれ、彼女からの慈愛に対してだけは何の嫌味も言えはしないのではないかと思わせる。
ましてや、友達を作れない性質とはいえ人並外れて曲がったところもない少年だったら、どうだろうか。
僕がドルチェ先輩に初めて会ったのは、高校の入学式においてだった。
僕たちの通う高校には、少し変わった風習(変わっていると思う)があって、入学式の目次の中に「先輩たちからの胸花贈呈」という項目がある。
何をするのかというと、まず先輩たちが新入生全員と一対一になるように向かい合って付く。そして校長の合図とともに胸ポケットにつける形のコサージュを一斉に手渡す、という儀式なのだった。
そして僕の前に立ったのが、他でもないドルチェ先輩だったのである。
あの時。最初、彼女は僕に対して微笑を浮かべながら「入学おめでとう」と言っただけだった。僕も、優しそうな先輩だなと思いながら、「お花って、どちらかというとお別れにもらうイメージです」と世間話のつもりで言った。そこまでは普通だった。その十秒後、彼女が僕にコサージュを手渡す際になった瞬間あたりから、異変が起こった。校長の合図に反応して、先輩たちの手から新入生の手へ贈られ始める中……ドルチェ先輩はなんと、僕の胸に直接、コサージュを取り付けようと、距離を詰めてきたのだ。胸元への取り付け自体は、新入生自身が行う決まりだった。新入生と先輩が男女の組み合わせ―――まさに僕と彼女のように―――になることもある以上、当然のことである。僕は、周囲から明らかに逸脱した行いをしている彼女に驚いた。周囲の人間たちも、ざわつき始める。彼女は、僕の両眼を、熱に浮かされたように見つめていた。狂った手元は、コサージュのクリップで二回、僕の乳首を刺した。
その後も彼女は、ことあるごとに理由をつけては後輩である僕に話しかけてきた。日々の中で、僕は彼女がドルチェ先輩というあだ名で呼ばれ、学園中から愛されていることを知っていった。そしてある日、彼女は僕に恋愛感情を告白した後(どうして、ぱっと見冴えない年下の男子を彼女が気に入ったのかは、ここでは割愛する)、当時は彼女だけが所属していた第二映画部の部室へと連れて行って、彼女の「趣味」である映画を見せてきたのだ。
僕は、彼女の想いを受け入れた日を思い返しながら、プロジェクターのスイッチを入れる。
第三視聴覚室は、昔この学校で映画製作の部活動が盛んに行われアマチュアの賞を獲りまくっていた時代に作られた、三番目の視聴覚室である。
第一、第二の方が設備が良く、また本館の校舎に入っているため便利だが、僕とドルチェ先輩はこの場所が気に入っていた。ドルチェ先輩の人望と彼女の家族による好意のエアコン設置投資が効いているのか、学内では部室というより第二映画部の私有地のように扱われていて、他の生徒たちはおろか、教師たちも決して寄り付かない。だから、今日も二人きり、僕たちは映画を楽しむことができる。
二つ並べた椅子の片方に座ったドルチェ先輩のもとへ、手にしたDVDの安っぽいパッケージを眺めながら近寄る。
「変わったタイトルですね。一発で読める人なんているわけない」
「でも、ロマンチックだと思わない?」
思う。
丁度着席したタイミングで、映画の再生が始まる。隣にいるドルチェ先輩から、映像に集中している気配が伝わってくる。
冒頭から五分も経たないうちに、映像の中の若い男女がキスを始める。そして―――
唇と唇を重ねたまま、女優の方が手に持っていたカボチャ用包丁を、男優の手首に叩きつけた。
身体の一部を切り飛ばされた男優の絶叫が、響き渡る。
それに、重ねるような形で、
「ひゃっ、ああああああああああああああんんんんんんんんんんっ」
僕の恋人の声が、視聴覚室に響く。
ドルチェ先輩は、気持ち内股になりながら右手の平で口を押え、必死に声を漏らすまいと耐えようとしている。だが、無駄だった。
「んんっ、んっっいやぁっ!」
急病だとか、そういった話ではない。彼女の体を支配しているのは、なんと強烈な官能……性的な興奮なのである。
僕も、彼女から告白された日、「私の全てを見て欲しい」と言われ、最初にこの部屋で今と同じ状況に置かれた時は腰を抜かしたものである。
勿論、今も完全に慣れたかと聞かれれば、答えはノーなのだけれど。
キスをしたはいいものの、何故か唇と唇が接着してしまい離れなくなってしまったカップル。その愛情が憎悪へと変わり、殺し合いに発展するというストーリー。
「アン、アンッ、アン! りゃめぇっ! ごつごうしゅぎ、気持ちよしゅぎりゅのぉっ! ふたりとも、おたがいの舌、噛み切ろうとしちゃダメえぇっ! とろけちゃう、倫理、とろけひゃうぅっ!」
短編映画は、その尺の中を駆け抜けるように、急展開を見せる。
恋人たちによるゼロ距離の殺し合い。その最終決戦の舞台は、なんと都市の上空を飛ぶヘリコプターの中だった。
ドルチェ先輩は、恍惚とした表情で映画のカップルに感情移入している。僕は、どちらかといえば、後部座席で意味の分からない殺し合いが繰り広げられているにもかかわらず無言でヘリを飛ばし続けているパイロットに興味を惹かれてやまない。
「いま、へりこぷたーさんからとびおりちゃりゃめえぇっ! 男の人のはみでた腸、ドアのフックにひっかかってりゅのぉっ! 内臓バンジーになっちゃうっ! りゃめ、飛ばないで、飛んじゃう、や、ああああああああんんんんっ!」
そして、映画はクライマックスを迎えたのだった。
正直、グロや残酷描写抜きにしたところで、僕自身は映像芸術そのものにそこまでの関心を持っていない。
だが、ドルチェ先輩の喘ぎ声というモーツァルト級の副音声が付くのなら別である。
一つの映画を二人で見るという体験を通じ、僕と先輩は、それぞれの人生最良の時間を経験することができる。
気づくと、ドルチェ先輩の視線が、僕に向いていた。
その表情は、僕という存在が彼女にとって、虚構たる映画の世界と比べても遜色無い価値を持つ幸福な現実であることを、示していた。
プロジェクターは、黒地の背景と白い文字列で構成された、よくあるタイプのエンドロールを流し続けている。
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