ネーベイアの黄金、あるいは辺境の蛮姫
草野猫彦
序
第1話 英雄の誕生
沈み行く夕日が雲を捲いて美しい。
名前も付けられていない急峻な岩山に、ごくわずかな護衛を伴って登ったアーリアは、平野部の敵軍の全景を目にした。
「なるほど、これは負けそうだ」
「姫様、呑気なことを言っている状況ではありません。およそ四倍、四万の兵数です。野戦は論外として、退却するにも野外陣地を構築するにも、即断が求められます」
辺境伯家の家宰にして、事実上の軍の司令官である騎士マルードは、主君の第四子、そして長女である14歳のアーリアに、苦い忠言を吐いた。
戦場において拙速は巧遅に優る、そんな格言が前世ではあったかなと思いつつ、アーリアは頭の中で計算する。
「普通に考えれば退却して籠城か。しかしそれをすると領地が荒れるからな。野外陣地と言うが、工兵と魔道士を使っても、満足なものは出来ないだろう」
初陣において冷静なアーリアに、マルードは困惑する。50を超える年月で、辺境伯家の武人として数々の戦いを経験してきた彼だが、初陣でこのような態度を取る貴族を見たことがない。彼女の父である辺境伯でさえそうだった。
まさか状況を全く理解していないのかとも思ったが、言葉を聞く限りではそのようなこともない。辺境伯家の人間として、女であっても当然ながらある程度の軍略は既に叩き込まれているはずだが。
アーリアは美しい少女だ。絶世の美少女とも言える。
瞳の色も髪の色も見事な黄金で、口さえ開かず動きさえしなければ、ネーベイアの黄金とまで称されるほどの美貌なのだ。
そして口を開いて動き出せば、辺境の蛮姫と呼ばれる本質が露呈する。
そのアーリアは目の前に、光で描いた地形図を生み出す。なるほど魔術にも秀でるとは聞いていたが、器用なものだとまたマルードは感心する。
しかし今欲しいのは命令である。一刻も早く退却し、籠城の準備を整える。周辺貴族からの援軍を待てば、負けることはないだろう。
野戦も野外陣地もありえないとしたら、それこそ退却一択のはずだ。
「見晴らしのいい平野部を抑えているから、奇襲も難しいな。夜襲をかけるのはどうだ?」
「悪い策ではありませんが、難しいかと。相手の意表を突くのが奇襲の要諦ですが、旗からも明らかに敵指揮官はゴルゴーン将軍。そのような油断を期待できる相手ではありません」
「まあ私も分かっている。退却して籠城が、戦術的には正しい。ただし戦略的には微妙であり、政略的には悪手なんだ」
「おい、姫様がご乱心だ。神官を呼べ」
何を言っているのか、という顔のマルードに、アーリアは苦笑して答えた。
「ガラハドの兵に拠点を作る隙を与えたくないというのが、戦略的な視点。政略的な視点では、ここいらで勝っておくと、宮廷でのネーベイア辺境伯の立場が強くなるんだ。そして私の立場もな」
「……後方の問題を戦場に持ってくるなど、軍略においては下の下ですぞ」
ある程度事情は理解しているが、そもそも勝つという前提がないと意味はない。そうマルードは言いたいのだが、アーリアは軽く返した。
「いや、いけそうだ。右翼の第一大隊を横に薄く展開する。私の騎兵は一番右へ。どうにか移動できるだろう」
マルードは嘆息した。
「盤面上は森を使って、相手の兵力を分断できるでしょう。ですがそれでも多数相手には消耗戦。飲み込まれるだけです」
「盤面だけを見ていればそうだろうな」
軽く応じたアーリアは、マルードの胸を叩く。
「右翼騎兵は私が指揮する。マルードは本軍を率いて、私が失敗したら即退却しろ」
「無茶なことを。どうせ死ぬなら、私にその役を命じください。お嬢様を死地に出して、老骨が生き残るわけにはいきません」
それに対しても、アーリアは軽く笑った。
「全軍の指揮は、戦場経験豊かな卿の方が確実だろう。だが騎兵はプライドの塊だ。初陣で女の私が行くのを、座して無視するわけにもいかない」
「死ぬつもりですか」
マルードの真顔の問いに、アーリアは真顔で返答する。
「騎兵が全滅しても、私だけなら魔術で逃げられる。まあその前に、ダメそうならすぐ逃げるさ。そのための足の速い騎兵だ」
一理ある。それに土地勘に関しては、明らかにこちらが上なのだ。試すだけなら良いだろう。……良いのか? よくないだろう。
「おい、姫様がご乱心だ! 拘束して簀巻きにしろ!」
そう言ったマルードの体を、鎧の上からアーリアは叩いた。
その軽い一撃でマルードの内臓に衝撃が走り、痛みと不快感に耐えられず、彼は膝を折った。
「心配するな。手加減はしてある。……出来てないな、ごめん。『治癒』」
触れられた場所から、痛みと不快感がすぐに消える。そしてアーリアは逃げた。
岩場を軽快に駆け下りていくアーリアの背中に、マルードは声をかけられなかった。
ネーベイア辺境伯家は武門の家である。国境の領主に対する動員権を持っているのだから、武門の家でないと困るわけだが。
アルトリア王国の中でもその軍事力は名高いもので、東方の国境は磐石だと思われていた。事実これまで建国より300年、魔物の暴走も敵国の侵攻も、全て撥ね退けてきた。
だが今回だけは別だと思えた。
問題は、アルトリア王国の宮廷事情にある。
長期政権であった王が病に倒れ、その後継者争いがこの数年、水面下で行われていた。
普段であれば中央の事情など、ネーベイア辺境伯家には関係ない。辺境伯家には単独でも、充分にガラハドの侵攻を防衛するだけの力を備えている。
だが幾つかの例外的な出来事が、連続で起こってしまった。
ネーベイア辺境伯の正妻が、中央へのパイプとなるセメア伯爵家出身であったのだが、その伯爵家が、陰謀に巻き込まれたのだ。
当時王都に駐在していた辺境伯本人と、次男と三男が拘留され、そして状況を知った長男までが、釈明のために領地を空けて王都へ召喚されたのだ。
残されたのは王都の学園から、休養のために戻っていたアーリアのみ。そこへガラハドの侵攻である。
通常軍隊の動きというのは、どれだけ隠そうとしても隠し通せるものではない。
必要となる物資の市場価格や、ごく普通の商人達の行動から、出陣の時期などあっさりとそれが読み取れるのだ。
遊牧を主とする狩猟民族などは別だが、領地に基盤を置く国家は、完全な奇襲など不可能なのだ。兵站を完全に略奪で補ってもだ。
それでも国内に分散して置かれている兵力を、集めて編成する必要はあるからだ。
しかしそれに関してはゴルゴーン将軍は、分散したまま進撃し、敵国内で合流するという無茶を行って成功していた。不敗の二つ名は伊達ではない。
戦術の要諦は、戦力の集中である。しかし戦力は増えれば増えるほど、その進行速度は遅くなる。
ゴルゴーン将軍はそれを、軍を編成しながら移動させ、戦場となる場所で合流させるという、離れ業で克服した。
ガラハド王国の北と東の戦線で無敗を誇る名将。その真髄をこのような形で見ることになるとは。
部隊の動きが三つに分かれて行われたので、辺境伯家の情報収集も、その全貌を把握することが出来なかった。
そして常識より速い進軍速度によって、こちらの軍の召集も、満足ではなかった。集められたのはネーベイア辺境伯軍だけでも全てではない。
おそらくこの軍編成と進軍・合流の仕方は、今後の戦争においても新たな戦略として使われることになるだろう。
ゴルゴーン将軍は名将であり、天才でもあるのかもしれない。少なくともこの危険度の高い進軍方法に関しては、今後の各国の軍に影響を与えるであろう。
それも勝利の結果が伴えばだが。
(せっかくだから今後は私が使わせてもらおう)
馬の背にゆったりと乗り、アーリアは自分の騎兵隊に向かっていた。
逆にネーベイア辺境伯は、優位なはずの迎え撃つ立場でありながら、兵站を含め充分な準備を整えられなかった。
周辺諸侯へ参軍する命令を出せるのは、辺境伯自身かその名代である一族の者である。
そこまでみこしておいて、ネーベイア辺境伯家が動けなくなったところで、本格的に動いたということである。
明らかにこれは、アルトリア宮廷に裏切り者がいる。
自軍を統率し、敵国の意表を突き、後方を撹乱する。
まさに見事と言うしかない名将ぶりである。
今回アルトリア王国側には、敗北する理由しかない。
アルトリア王国の宮廷事情は、当然ながら周辺諸国にも知られている。
中央の貴族は政争により、辺境の実情に目を向けている余裕が無い。
本来であれば絶対に動かしてはいけない前線に接する軍の司令官を、中央政争に巻き込んでその軍から離してしまった。
この一撃でアルトリア王国が致命的な打撃を受けるとは思えないが、ガラハドの太い牙を、その国内に食い込ませることになる。
王の後継者争いというこの状況にあっては、それを本格的に打開し、前線を押し返すことは不可能に近いだろう。辺境伯の手にある戦力だけでは足りない。
だから後々のことを考えれば、ここで無理をしてでもガラハドを押し返す必要がある。逆にガラハドも、損害を出しても橋頭堡を築けばその利は大きい。
ネーベイア辺境伯軍としては、しかしその無理というのが、自軍の精鋭を失うのはどうしても避けたい。
東方の守りは辺境伯軍の精鋭が中心となる。いくらここでガラハドを撃退しても、すぐに育成が不可能な熟練の精鋭を失っては、次に侵攻があった時、それを阻止することは難しい。
つまりこの戦いは、ガラハドが大軍をもって辺境伯領に侵攻し、それを撃退しようとする辺境伯軍が兵力を集め切れていない時点で、既に戦略的に敗北しているのだ。
画期的な新戦術を行使して、ネーベイア軍が少ない損害でガラハド軍を撃退する。そんな物語のような奇跡でも起こさない限り、選択すべきは撤退一択である。
そして新戦術などというものは、事前に兵の統率を現場で行う、大隊指揮官以上には、徹底して教育しておく必要がある。
ガラハドとネーベイアは過去多くの小競り合いを起こしており、その軍の構成も、動員兵力も、戦術も、お互いにほぼ把握している。
新しい戦術や練兵なども、ちょっとした諜報活動で明らかになるだろう。
ならばゴルゴーン将軍という名将を指揮官に迎えたガラハドの方が、着眼点の新しさという点で有利であろう。
騎兵陣地に急行するアーリアに随伴する者はいない。
いくらお飾りの指揮官とは言え、これはありえないことなのだが、それだけアーリアの腰が軽いということでもある。尻軽なわけではないが。
「ティア、予定通り、魔境に飛んでくれ」
「かしこまりました、ご主人様」
敬いつつも、どこからからかうような響きの声。誰もいないはずの単騎行で、そんなやりとりが行われた。
騎兵陣地に到着したアーリアは、旧知の騎兵たちに迎えられた。
騎兵であって騎士ではない。騎士もまた騎兵ではあるが、随伴する従士からなる歩兵を持つ。
騎兵隊は本来、貴族の中でも次男や三男、あるいは馬を維持できる富裕層が中心となって形成する、まさに騎兵のみの集団である。
一撃の突破力では優れているが、歩兵による対処法が研究されている現在では、その運用にも才能が求められる。だがアーリアの率いる騎兵は違う。
「姫、撤退はまだか?」
気安い調子で呼びかけたのは、第一騎兵中隊の隊長であるオイゲンであった。彼もまだ二十歳と若いが、既に戦場の経験は積んでいる。
汚れた武装の中にもどこか気品を感じさせるのは、元は落ちぶれた騎士の家系の出で、野盗などをしていたのをアーリアが捕まえて子分にしたものだからだ。
良い買い物だった、と無料で手に入れたアーリアは言ったものである。
そしてこのオイゲン率いる中隊300名こそが、アーリアの完全な子飼いと言える。
辺境伯家の直系とはいえ、女子で相続から遠い位置のアーリアは、良くも悪くも下級指揮官との距離感が近い。
「明日の早朝を待って撤退だ。だがおそらくその前に、一騒ぎある。その混乱に乗じて、敵将の首を取る」
呆気に取られた様子のオイゲンに対して、アーリアは肩を叩く。
「秘密だけどな。とにかく準備だけはしておいてくれ」
その笑顔は美しいが、血を求める物騒さを喚起させた。
常識的に考えて、この戦いにおいて最も重要視すべきは、ネーベイア軍の維持である。領地の奥にまで侵攻され、橋頭堡を築かれても、王国の深くまで侵攻されるのは避けられる。
そして確率は低いが、ガラハド軍を撤退させれば、それは勝利である。会戦での勝利は無理だろうが、領地の奥深くにまで侵攻させ、兵站線を切っていくなら可能性はある。
まずありえないが、ガラハド軍に対して打撃を与え、しばらく侵攻ができないほどの被害をもたらせば、大勝利と言えよう。
だがアーリアの目指すものは、その更に上である。
ガラハドの不敗将軍ゴルゴーン。その首を狙う。
常識的に考えても、非常識的に考えても、それはありえない。
軍略に優れている者ならば、それが不可能であると分かる。敵軍の精鋭の奥深く、将軍として座するゴルゴーンの首を取るなど、戦術を少しでも分かっている者なら計画すらしない。
自軍の戦力を結集し、正面から全力で中央を突破。その後ゴルゴーン将軍の首を狙うというのは、机上の空論としては存在する。
だが実現は不可能だ。敵兵力は四倍。決死の覚悟で突撃しても、ガラハドが倍の兵力でそれを受け止め、同数の兵力を左右から襲い掛からせれば、ネーベイア軍は包囲され壊滅する。
どう考えても勝利の筋など見えないが、女の妄言として検討の余地すらないとは、オイゲンは思わなかった。
それは彼が、アーリアという人間を知っているからだ。
味方右翼の端、騎兵隊が天幕を張る中で、アーリアとオイゲンは向かい合って座っていた。アーリアは男のように股座を開いて座っているが、鎧の構造上それは仕方がない。
敷物を敷き、その上に簡単な地図を置いてある。
いくらなんでも、もう少し作戦を教えろというオイゲンの真っ当な意見に、アーリアが応じた形である。
「何をどうしても、撤退しかないだろう。奇襲をかける地形でもないし、ゴルゴーン将軍が油断をすることはない。勝ち目があるなら命を賭けるが――」
そういい募るオイゲンの台詞を、地図を示したアーリアの指が止めた。
ガラハド軍の右翼、ネーベイア軍の左翼をさらに北へ進むと、森となっている。だがそれはただの森ではない。
魔境。魔物の支配する、人間の手の及ばぬ土地だ。
「!? まさか魔境を通って奇襲するのか!?」
愕然とするオイゲンの言葉に、アーリアは笑いながら手を振った。
「まさか。数人ならともかく、一定以上の集団で魔境に入れば、魔物に襲われるのが必然だ。魔物に特化した部隊でもあれば別だろうが、しかしそれでは奇襲が不可能」
アーリアの笑みは妖しく、しかし力強い。
ここは自軍の右翼である。魔境とは反対の位置だ。
「鎧をつけたまま眠れ」
アーリアの命令を、オイゲンは頷いて部下達に知らせた。
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