夢視

結城恵

始幕 Boy meets Dream

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

夢なんてモノは、不確かで、曖昧で、意味なんて無い。



ようで実は、それは運命の歯車のひとつでもあるのだ。

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+序+


「あーあっ、ったく面倒くせぇよな?」

 面倒なのはお前のほうだ、と一人ごちる。普段の友人との会話も面倒で面倒で仕方が無い。

 彼は何も答えずに押し黙る。

「なンだよ。つれねぇの」とあきらめたかのようなつぶやきを、机の前に残して友人は去った。

 その言葉を聞くか聞かぬか、彼は今一度の眠りに就いた。


 ――――何時いつまで続けるつもりだ――――


 自身の心の呟きが、頭の中に木魂こだまする。聞こえないはずの心の声に頭ががんがんする。仕舞いには眩暈めまいまでしてきて吐き気がする。

 幾度と無く過ごしてきたこの感覚。耳鳴りにも、眩暈にも、吐き気にももういい加減慣れていた。


 ―――うんざりなのは変わらないけどな―――


 眼を開ければ、周りの景色も自分の足元も、自分の体でさえも視えない。光の届かない、一切の闇だった。


 耳鳴りがするのは音が無い所為せい

 眩暈がするのは地面が無い所為。

 吐き気がするのは、キモチノワルイこの世界に精神ココロが耐えられない所為。


 いつもはそのまま、意識が落ちて終わりだった。でも、何の偶然か、今日だけはその例に外れていた。


 バサバサバサバサッ!


 静寂せいじゃくに響き渡る、鳥の羽ばたく様な音。それまでの無音と比べてとてつもなく大きな音量が彼の耳をつんざく。


 ――何?

 

 不意に、掌にふわりとした感触があった。重量は無に等しい。


 ――さっきのの、羽根?


 思考する間も無く、辺りに光が満ちる。映画館から外に出た時のような、眼を開けてられないあの感覚。

 光が満ちたことで、妙に気に留まったあの羽ばたく様な音の正体を掴もうと、眩しさをこらえて必死に眼を凝らす。


 ――一体何がどうなって――

 

 突然の光に未だ眼は慣れない。少しずつ慣れてきたことで今度は意識のほうが落ちそうになる。こちらのほうは彼にはどうすることもできない。


 ――待って、まだ。俺は、アレを見なくちゃいけない気が――――


 意識が途切れる寸前に見たものは、翼など無い、ただの人間―――の少女のようだった。



+翼+   


 ピピピピピピピピッ、ッバン!


 目覚まし時計の無骨な電子音と、それを叩く音。高い音と鈍い音の二重奏デュオが、乾き始めた部屋の空気を震わせる。

 蒲団ふとんと勉強机、今はカーテンで見えない小さなベランダに続く大きな扉兼窓。後は本棚、箪笥たんすで構成される、一人部屋としては割と広めのシンプルな部屋。その部屋の中央付近、目覚ましを止めた手だけが蒲団の領域からはみ出ている。


 ピピピピピピピピッ!


 再び、電子音が鳴り響く。

 二つ目の目覚ましは距離からして確実に起き上がって止めに行かなければならないようで、仕方なく体を起こして止めに行く。

 バンッ!

 この時点で大方起きてしまうのが普通なのだろうが、彼の中で最も優先させられるのは睡眠であり、蒲団に戻るのも億劫おっくうなのか立ったまま眠っている。

 …。


 ……。


 十分、十五分は経ったかというところで、ぱちりと唐突に眼を覚ました。

 そして手に持ったままの時計を見て彼の顔が凍りつく。

「―――や…べ」

 手に持った時計を放り投げ、慌てて支度をする。服は脱いで畳まぬまま、顔は洗っても髪を水だけで適当に整え、トーストは生で適当なジャムを塗って口に放り込む。

 遅刻だ―――早くしろ、と口にはトーストが入っているので、心の声で自分を鼓舞する。服は着替えて制服に、鞄の中身は前日に準備済み、髪は諦めるとして―――あぁ、眼鏡眼鏡―――

 自分のことながらよく眼鏡なしで朝の支度ができるものだと彼は思う。それだけ体に染み付いてるということなのだろうが。

 トーストを牛乳で一気に流し込み、玄関に向かう。靴を履いたら―――ダッシュだな。


「いってきますっ!」の声と、ガチャリと家の鍵を閉める音。二つの音が、誰もいない家に消えていった。




 ここは県立澄崎すみざき高等学校、二年五組の教室。

 この学校ではクラス替えがないので、二年ももう中盤ともなると友人関係がほぼ完成し、一年次のような落ち着きはまるで無い。各々が他人と趣味を共有して日々を苦しみつつも楽しんで過ごしている。

 現在この空間は、リラックスという名の怠惰な空気で満たされていた。


「裕介遅ぇな。今日も遅刻か」

 彼は、姿の見えない友人を心配してか呆れてか、少し曇ったガラスの向こうを見遣る。

「最近頻繁ひんぱんだよね、みずくん。僕心配だなぁ」

 と、男性にしては多少長めの髪を揺らして、別の友人がやってくる。

「なぁお前高二にもなって僕ってどうよって、愚問ぐもんだなお前には」

「? 何言ってるのさ」

 ホームルームが始まる前の、独特の喧騒に包まれた教室で交わすいつもの会話。二人して時計を見ると、ホームルームまで後五分有るか無いかというところ。

「今頃は廊下で担任とデッドヒートだな」

 この学校では、朝のホームルームで担任が出席確認するため、担任が教室に入って自分の名前を呼ぶまでは遅刻にはならないのである。だからといって毎朝廊下でチェイスしたいという物好きもそういないだろうが。

 バタバタバタッ、ガララッ、バン!

「……ッ……、ッァ、ハアッ、ッハ」

 けたたましい音とともに現れた彼は、膝に手をついて項垂うなだれ、断続的に肩で荒い呼吸をしている。その様子から見て、廊下でアメリカばりのチェイスを繰り広げてきたであろう事が予測される。

 荒い呼吸が続く彼に、背後から人影が近づく。

 ぽん。

 と出席簿で頭を軽くはたかれた。声を出す余裕はないので、顔だけで振り向く。

「うむ。素晴らしいな水神みずがみ君。その走りでバスケット部から陸上部に転部かね?」

 まぁギリギリセーフかなともう一度出席簿ではたかれて、それに押されるように彼は教室に入っていく。

「きりーつ、れいー、ちゃくせーき」とやる気の無い朝の挨拶が行われた後、朝のホームルームが始まった。

「やあやあ皆、おはよう。連絡事項は特に無い。まぁ、個人的に一言言わせて貰うなら、水神の真似は心と体の両方に負荷を掛けるから、良い子はやっちゃ駄目だぞ」

 ざわ、と室内の失笑を買った。クラス全体の友好度が高いからこそいえる台詞であって、いじめられっこにそんな事言ったら下手を打てば新聞沙汰だよな、と裕介は思った。

 担任が出席を取っている間に、呼吸を整える。それなりに体力には自信が有るので、自分が呼ばれるまでには、十分返事ができるくらいには回復していた。

「…ッ!、…水神ッ!」

「はぁい」

「なンだ気の抜けた返事だな」

「気合ならさっき使い果たしました」

「もういい、次。…ッ!」

呆れたのか時間がないのか担任は点呼を続ける。

「…ほいと、今日は全員出席か。寒くなってくから皆風邪引かんよーに。今日も一日頑張り給え」

 うわははは、とは続けずに担任が去っていく。彼女の年齢を聞くのが生徒間であらゆる意味でタブーとされているのは、この年齢不詳の口調からだろうか。


 再び、一限目が始まるまでのよくある喧騒に教室が包まれる。

「いよっ、遅刻魔」

「違ぇ」

 片手を挙げて近づいて来た彼は、先の一人称が『僕』では無い方の友人。ひたいだけを大きくを開けた短髪という妙な髪形が特徴的だ。彼に『デコ』の二文字は禁句である。彼はこの髪型にこだわりを持ってたり持ってなかったり。

「寝る」といっただけで、裕介は眼鏡をはずして机に突っ伏す。

「おいおい、どうせ寝坊なんだろうが、まだ寝たりないかお前。まさか深夜徘徊はいかいとかしてるんじゃあるまいな」

「勇次じゃあるまいし、水くんが変態的なことするわけないでしょ」

「るせぇ、この変態女装趣味」

「しーっ! 声がでかいこのボケっ!」

 最後の一言と同時に空手部仕込みの正拳を食らわす。無論ある程度の手加減はしているが。

「ぐぇ」と勇次が唸る。どうやら腹のほうに入ったようだ。腹を押さえてうずくまった。

「朝から元気だな、お前等」

 突っ伏した体勢のまま、裸眼の顔だけ横に向けて裕介が喋る。

「水くんが元気無いんだよ」

「俺は眠たいの」

 裕介はごろん、と再び顔をうつ伏せる。本格的に二度寝の態勢だ。

「…っぐ、貴記たかのりっ手前本気で殴りやがって」

 腹を押さえた勇次が、貴記を睨む。冗談半分とはいえ、痛かったので多少本気で憎しみを籠めている。

「本気じゃないよー、九割くらい」

「お前凄いことさらっというなよ」

「次あんな事言ったら十割超えるからね」

「すんません」

 とそうこうしているうちに一限目の教師がやってきた。

「あ、水くん起こす?」

「いいだろ、現国だし」

 既にまどろんでいた裕介を他所よそに、現国の授業は始まった。

「きりーつ、れいー、ちゃくせーき」



 ――そして、現在は昼休み。

「いや、流石に一時間も眠ればね」

「嘘吐けお前三限目まで寝てたろうが」

 ここは学校に設けられた食堂。ここを利用する生徒もいれば、コンビニ弁当で済ます生徒もいる。かかるコストも味もそう大差ないため、その日のメニューや金銭の問題、その他もろもろを含んだ『今日の気分』で大体半々に分かれるのが人間の不思議なところだ。

「やほー裕介、元気してるー?」

 小柄で、首に巻いたスカーフが目を引く少女がトレイを持って近づいてきた。我が物顔で勇次の向かいに腰掛ける。食堂は自由席。校則上、貴金類でなければ装飾品は許されているとはいえ、紺の制服に赤のスカーフは間違っているだろう―――と誰もが思いつつも口には出さないでいる。

「まぁたなんかうるせぇのが来た」

「勇次と亜輝で二乗ってとこ」とこれは裕介。睡眠は十分だったようで、表情から眠気は既に消え失せていた。

『ひっどーい』とソプラノ亜輝テナー勇次の二部合唱。

「勇次は気持ち悪いよ」

 横から貴記が毒づく。少女じみた顔の裏に、毒が詰まっているのが彼である。勿論もちろん外面そとづらは良い。内と外は釣合わぬが世の常である。毒っつうか電波っつうかなんか黒いもの以外にも桃色なモノも詰まってるぜあいつはよ、と過去に勇次がこぼしていたが、裕介がそれを実体験したのはごく最近のことである。一年以上もその片鱗へんりんを見せなかったのはある意味神業であろう。

「あら、皆して楽しそうね」

 ふと、背後から柔らかい声がして、四人がその音源のほうを目で追う。

「―――魔女が来た」

 時代も場所も全くそぐわない台詞を、その『魔女』に対して勇次が呟いた。

「失礼ね榎本えのもと君。高尚こうしょうな魔術に対して失礼だわ」

 高貴な物言いを台詞の内容で破壊している。彼女が『魔女』と呼ばれる所以ゆえんがここにあるといってもいい。それとも眼光だけで男子を黙らせる魔眼じみた瞳が原因なのか。彼女に対する噂は絶えず、一説では神話時代からの生き残りとまで称される始末である。どれもこれも誇張表現には変わりないが、それぞれに元になったネタがあるから真実彼女は恐ろしいのである。

 ウェーブした長い髪を揺らして、すっ、と貴記の隣に座った。さりげない所作に慣れを感じさせる。

「ごきげんよう、貴記君。今日も素敵ね」

「あああああの北原さん?」

「嫌ぁね、『ユキ』って呼んで」

 となにやら妖艶ようえんなオーラで貴記に迫る。つい、と顎を持ちあげて、うっとりとした目で彼の目を見つめている。彼女は本気だそうだが、周囲の視線は舞台や映画に向けるそれと等しい。

「あああああ」

 貴記はさっきから『あ』しか発音していない。彼の天敵は、彼女なのだろう。いや、誰にとっても敵に回せば最悪であるが。

「はいストーップッ、あやしいテンションやめーっ」

 亜輝が二人の空間に割って入る。

「お前そういうときだけ良識人な」

 何よそれどういう意味と亜輝は心中で呟いたが、口には出さずにおいた。だってあたしは良識人だしー、と自己弁護を付け加えて。

「ちょっとご飯時にそんな深夜なテンションもって来られてもねぇ」

 裕介が亜輝に続いて二人の暴走を止めに入る。そうしてようやく貴記は開放された。

「……しいわ」

 何がだ、と誰かが呟いた。彼女以外のこの中の誰かだろうが。状況的に、誰が言っても不思議ではない。

「全く残念ね、色々。頂きます」

「沙雪唐突ッ?」と勇次が驚きの声を上げた。因みに沙雪は彼女の名前である。この中で彼女を名前で呼ぶのは勇次くらいで、彼は同級生なら誰でも名前のほうを呼び捨てにする。少々態度がでかい様な気もするが、そこはそれ。

「…ユキにはかなわないわね」

 溜息とともに、亜輝の言葉が吐き出された。「かないたくはないけど」と言葉をつないで。

「とりあえずキリのついた今のうちに頂きますってことで」とこれは裕介。意識がはっきりしている状態ならば、彼がこの取留とりとめの無いグループをまとめる役に徹している。たまに取留めの無い側に回るが、そのときはリーダー役は亜輝に交代する。二人がいなければこの取り巻きは混沌と化すことだろう。

『いただきます』のハーモニーと憔悴しょうすいした貴記を残して、本日の昼食はやっとのことで始まった。



 キーンコーンカーンコーン、と学校特有の予鈴と同時に、

「きりーつ、れいー」

『ありあとやしたー』

 と最後だからとおざなりな挨拶とともに下校のホームルームは終わりを告げた。

「お前明日休みだからってはしゃぎまくってあたしに面倒かけねーよーに。おしとやかに休日を謳歌おうかしろ、若人!」

 いつも以上にキマりまくった担任の一言とともに一人また一人、次々と教室から人間が排出されていく。あるものは部活動に青春しに、またあるものは彼女とのデートコースの模索に市街地に出かけたり、またあるものは帰宅部で、まっすぐ家に帰らず喫茶店やゲーセンやウィンドウショッピングなどなど種々様々である。数少ない教室に残ったものは残ったもの同士で明日の予定や昨今の出来事などで雑談に花を咲かせていた。

 裕介等五人は高校生にもなって律儀にも部活動を続けている。裕介はバスケット、亜輝は水泳、勇次は硬式テニス。貴記は天敵のはずの沙雪とともに武道場で空手をして汗を流している。それぞれが思い思いに、暮れるまで時間を消費していた。

 

 ――――曰く、晩秋の黄昏たそがれはつるべ落としという。冬時間になって短くなった部活の時間を喜びつつもうれう季節。


 今日の裕介はすこぶる好調だった。ゲーム中のケアレスミスはいつもより目に見えて少なく、フェイクの切れも幾分いくぶん増していた。休日前の充実した時間を過ごせた、と裕介自身もやはり手ごたえを多少ではあるが感じていた。

 そんな薄闇の帰り道。汗が引いて冷えた体を抱えるように背を丸めて、朝、猛ダッシュで掛けてきた家路を一人歩く。彼の家の近くには友人は住んでおらず、部活帰りはいつもこうして一人だった。


 一人でいた所為ではない。朝、遅刻寸前で焦っていた所為だ。だから、服が一枚足りなくて、背を丸めて歩かなければならなかったのだ。

 ―――――だからきっと、偶然というものは、重複するものなのだろう。


 いつもの歩道。いつもの電柱。いつもの街灯。蛍光灯が切れかかっているのか、ちかちかと眩暈のように明滅していた。

 普段はなんということも無いその明滅の円錐の下、見慣れぬはずなのに記憶にあるものが、スポットライトに照らされるようにそこに落ちていた。

「……こ、れ」

 なんということは無い。寒かったから背を丸めて歩いていた。だから普段目が行かない足元に視線が行っただけ。それだけだった。しかし。

 丸めた背をすっとかがめて、それを手に取る。確かに覚えのある、無に等しい質量。ふわりとした感触。

 間違いなく、夢で見たあの『羽根』だった。

「なんだって、こんなものが、こんなところに……」

 辺りに異変は無い。夢の世界へ通じる扉も、それらしい道具も落ちてはいなかった。そこでは羽根の存在こそが異質で、夢の世界への道を探している彼は、もはや奇人でしかなかった。

「……ッ!」

 走った。

 走って、疲れも忘れて走った。

 

 ガチャ、ガチャガチャガチャ!


 手が冷えているからか、焦りからか、開け慣れた錠を中々外す事ができない。


 ガキンッ!


 ひどく冷たい音とともに、ようやく錠は外れた。そのまま転がり込むように家の中に駆け込む。

 傍から見れば真実奇人に見えただろう。自分の家にこれだけ焦燥して入る家人もいるまい。

 ともかく、彼はあの『羽根』をその掌に握り締めたまま家へと帰りついた。

「はがっ、ぐっ、はぁっ、っ、っは」

 彼の肺と心臓はこれでもか、と酸素と血液を送り出す。息切れはこれまで感じたどれよりも酷く、鼓動はまるで体が心臓に変わったかのように体中から感じられる。

 無理も無い。両親が蒸発して十年。それと同時に悩まされ続けてきた悪夢の一端が、現実として今ここにあるのだ。平然としているほうが、しかし狂人であるだろう。いくら慣れたとはいえ、あのような闇に浸るのが楽しいというようなマゾヒズムは彼は持ち合わせていない。何か手がかりがあればそれこそわらでも羽根でも掴もう。

「はぁ、はぁ、っは、は――――」

 家に駆けずりこんで三十分。よほどの体力消費だったのか、彼にしてはかなりの時間を要していた。それも彼の心境を察すれば当然の事だが。

 そうしてやっと、彼は握った手を開いた。

 曲がるか折れるか、良くても形は変わっていたであろうと思ったその羽根は、その全ての予想を裏切って拾った時同様の優美な曲線を描いたままであった。

「…只の羽根じゃ―――ないってことね」

 裕介の順応能力は高い。このような超常現象に陥っても平静でいられるのは、彼の予知夢に近い既視感デジャヴと例の悪夢のおかげといえばそうなのかもしれない。

 だがしかし、その羽根はただそれだけで全く微動だにしないし、口を利いたりすることも無かった。裕介は幼稚だな、とは思いつつも、心の端のほうではやはりそんなファンタジーを少なからず期待していた。

「―――妖精ティンカーベルでも、出てくるのかと思ったら」

 はぁ、と溜息を出したところで、立ち上がる。高校一年からの一人暮らしの生活。それまでは親戚の家に居候いそうろうしていたものの、肩身の狭さから開放されると思えば、少々家事をするほうが後々良いと自主的に始まった。もともと家事は出来る方だったし、親戚に迷惑は掛けられないと、子供ながらに勉強したりもした。

 ばこ、と引きがすような音をともなって冷蔵庫を開ける。

「うーわ、なんもねぇや」

 と冷蔵庫の中には昨日の残りの豚の生姜しょうが焼きがラップに包んで入ってるくらいで、肉や魚は買っていない。

「そういやカレールーも切らしてたし、卵も、醤油も、ってそうだよ調味料系ほとんどこないだの肉じゃがで使い切ったんじゃんか俺――― !」

 と頭を抱えて台所にうずくまる裕介。学生で炊事をしようと思えば、機会を逃せばこのような事態にしばしばおちいることだろう。

 仕方が無いので味噌をといて豆腐とシメジで味噌汁。キャベツを刻んで炒め直した豚に添えて、ご飯は昨日の分が余っていたのでレンジでチン。この作業を一年分の慣れでテキパキとこなす。おそらく同学年で、手際だけなら彼に敵う同級生はいないだろう。

 そして出来上がったメニューを机の上において、テレビをつけたダイニングで夕食をった。摂り終われば、足りない品をメモして置いておく。主夫の習性である。

 その後は食器類を洗って明日の米の支度。それが済んだら風呂。課題は出ていないから、風呂上りのプリンを食べたら少しして歯を磨いて就寝するといういつものコース。明日明後日は休日だが、裕介はバイトはしていないのでゆっくり出来る。生活費は『せめて学生の間くらい』と居候していた親戚からの仕送りが月一で振り込まれる。申し訳ないと思いつつも、面倒見の良い彼等に少なからず裕介は感謝していた。

「あ」

 蒲団を敷くときに、置き去りにしていた例の羽根を手にとって枕元に置いた。

「まだ諦めてないからな。いいかげんうんざりなんだぜ?」

 と、誰にともなく呟いて、部屋の明かりは消えた。


 ――――そしてやはり、その羽根は只の羽根などでは無かった。



+neverland+


 いびつ緻密ちみつな夢を見る。


 彼の悪夢はそこから始まる。うつつとは違う、けれども整合性のとれた嫌に正確な世界。

 頻度は多い。ここのところは毎日だが、見ない日も確かに在る。短い時も長い時もあるが、それぞれやはり、総天然色フルカラーで鮮明。現実と見紛う、否、現実そのものの感覚。


 彼は今日、不可思議な羽根を手にした。握っても形は崩れない、しかし他のところは至って通常。悪夢ユメを見ないで済むかと思えば、そのようなこともなく、過度な期待を抱いた自分に呆れを示すため、嘆息たんそくした。


「は――――ッ?」


 だが、嘆息は半ばにして強制終了を受けた。迫り来る膨大な光量に対して彼は息をんだのだ。

 

 朝の感覚がよみがえる。思えばたかが一片ひとひらの羽根にそこまでの希望を持てたのは何故だったか。


 光が収まる。膨大な光量に網膜は麻痺し、うまく像を結べない。光は適度に落ち着いただけで、闇の世界は訪れない。ただ無音だけが彼の鼓膜を切り裂いていた。


「いらっしゃい。通行手形パスポートは持ってるかしら」

 

 その無音の中に、しずくのような凛とした、どこか幼さを含んだ音が染み出した。

「え――ぁ、ぅ?」

『パスポート』などという酷く現実的で冷たい響きの単語に、彼の頭は掻き回される。

「―――ちゃんと持ってるみたいね。よしよし。それなら貴方はここの正式なお客様よ」

 追いつけない裕介の思考を他所よそに、彼女はくるくるとまくし立てる。


 ――――視覚が正常に戻ってくる。聴覚だけでは、この異常事態にはついていけるはずもない。


 薄らぼんやりした黒い視界の中に、女性の肢体特有の曲線を捉えた。シルエットや声から察するに、裕介よりも年下か、同年代。

「―――、君は、名前―――」

 混乱した頭で、つたない文法で、言葉を紡ぐ。

「あぁ、そうね。とりあえず名前くらいはお互い知らなきゃだめだよね」

 彼女はとても平静としている。落ち着いた少女と困惑する少年という構図は、黒に等しい何もない背景に、差し込む光と相まってまるで幻想を描いた絵画のようだった。

「わたし――わたしの名前は……」

 ようやく色を取り戻してきた視界の中に、徐々に彼女の姿が浮かび上がる。

「……守山もりやま千春ちはる。ここ"夢幻の庭園ネバーランド"の案内人よ」

 そうしてやっと見えた彼女の姿は、一瞬だけ夢に見た、あの時の少女に間違いなかった。



彼女の話によると、ここ夢幻の庭園、通称ネバーランドは人間の住む世界と、死亡した人間の貯蔵庫、所謂『』との境目に存在する境界次元なんだそうだ。そもそも、ヒトのユメというものは電子の移動で、それに伴い構成された脳内の擬似世界を見るものであり、そしてその"夢"という概念から『彼の世』へと繋がっているのだそうだ。一部不都合バグも存在するが、原則的に肉体を持って『彼の世』という別次元へ移動する事は出来ないことになっている。

「―――で、こっちネバーランドのほうにたまに迷い込む輩がいるもんだから、それを整理するのがわたし」

「何さ、俺は今まさに処分にかけられようってトコですか」

「ん、ちがうよ。"パス"持ってるでしょ」

 と、千春は裕介の胸元を指差す。そこには首飾りとなって揺れているあの羽根があった。

「あ、これ……」

「そう。それがここに正式に来るためのパスポート。遊園地みたいにチケットじゃないから、それを持ってる限り何度でもここに遊びにこれるよ」

 彼女の言う通り、ここには裕介と千春の二人だけが居るわけではない。他にも国籍問わず、ぐるりと見回しただけでも現実世界の街中と変わらないほど。それだけでなく、いまだ当惑していた裕介を引っ張って千春が案内したこの喫茶店カフェも目の前に置かれた珈琲もお茶請けのビスケットも―――ここでは、何もかもが質量と感触、五感、果ては六感すら反応する感覚に満ち満ちていた。


 ―――それこそここは、現実と全く相違ない―――


 違うといえば、国籍不問で沢山の人種が跋扈ばっこ(といえば聞こえが悪いが)しているにも関わらず、その口から発する言葉は不思議と理解出来ていた。

「この世界―――電界二十五次元は心象イメージの世界なの。たとえば、机、という概念を伝えたいとするでしょ。そしたら、『コイツは机だ』って口にすると同時にその彼における"机"という概念が伝わってくるの。そしたら発する言葉に関係なく、会話が成立するでしょ? 要するに、言葉の意味は分からなくても、イメージが伝わって理解できるっていうのがこの世界なの。勿論都合のいいことに、口に出さない、強く意識しない限りはそのイメージだって伝わったりはしないけどね」

 そしてこの世界は彼岸ひがんから管理され、遊戯目的として一部の一般人に開放している。適合する因子が遺伝子に含まれていないものはパスポートを知覚することすら出来ず、逆に適性のある者はパスポートのほうから近づいてくるのだそうだ。

「なるほど。今日の夢は要するに宣伝だった、ってわけかい」

「パスポートがどうやって一般人と接触するかは個人差があるし、そもそもそのパス特殊な形で前例がないし……。でもま、そういうことになるかな」

 もとは無意味と空虚が支配するこの世界を遊技場とした管理者の真意は知れない。ただ、ここが賑やかで楽しい娯楽空間であるという事実は、少なくとも裕介にとっては揺るがないものとして刻まれた。

「あ、もうこんな時間」

 と千春は手にした時計を見る。現実世界とリンクしているとすれば、裕介が就寝してからはや四時間が経過していた。

「ここに来始めは『夢酔い』って言って、体調が崩れちゃうから余り長居出来ないの。そろそろ影響でかねないから、帰ったほうが良いわね」

「帰るったって、どうやって」

「ここで、眠ればいいの。眠る、といっても、『睡眠を意識する』だけで良いんだけどね」

 聞いて、裕介は早速試そうとする。が、試みは千春の声に拒まれた。

「あぁ、待って! まだわたし、君の名前聞いてないよ!」

 そう。当人はすっかり忘れていたが、突然の急展開についてこれなかった裕介の脳はメモリ確保のためにその記憶を削除していたようだった。

「う、そうだった。ごめん」

 謝ったところで、名前は名前は、と彼女の顔が聞いている。

「俺の名は、エカテリーナ八世」

「うそ」

 見破られてしまったようだ。というか裕介は何を考えてそんなことを言ったのか。性懲しょうこりもなくまたヘンな名前を言おうとしたが、彼女の表情が期待から怒りに変わっていく様を見て、その思考はあえなく廃棄処分された。

「…わるかったよ。ほんとは水神裕介って言うんだ。よろしく」

「よろしく…って、今度はホントだよね」

 ずずい、と伺うような顔を近づける。裕介はここに来てやっと彼女の容姿が整っていることに気がついて赤面した。顔はやや幼さが残るが、スレンダーともいえる体は、それでいて女性らしさを感じさせる丸みに溢れていた。

「ホントだ、ホント。…っ、もう、名乗ったから、帰るんだからな」

 と赤面している顔を手で覆い隠し、俯いたまま裕介は目を閉じる。それをいぶかしげに見ながら「もう帰っちゃうんだ」と寂しそうに千春はらしていた。

「また、来るからな」

 目を閉じたまま、裕介が言う。彼からは、変化した千春の表情は伺えない。だが、その伺えない表情で、千春が何か言おうと息を吸うのは分かった。

「うん。また来てね、裕介くんっ」

 裕介は、滴のような彼女の声を最後に、夢幻の庭園ネバーランドを後にした。


 ―――そういえば、俺はまだ、彼女の名前を―――



+++++++


 始幕 Boy meets Dream / end


next / 二幕 EverLasting

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