チャイナガールと革命戦記
桃李 もも
第1話 銀座煉瓦街
真っ赤な火の手が上がり、群衆が一つのうねりとなって炎の周りでとぐろを巻いている。
まだら模様の人々の流れはモダンな
警官隊は警棒を振り回して制圧にかかるが、多勢に無勢、幾人かの警官が人の津波の下敷きになったかと思うと、群衆は一気に堰を切ったように流れ出した。
京橋の警察署からも煙が上がっている。
大通りの隅から野次馬をしていた17歳ばかりの学生、
「に……逃げないと」
彼は殺到する人々の流れに逆らえず、人々と同じ方向に走り出したために、さながら群衆の一部と化した。
しばらく走ってやり過ごしていたが、新たな黒い隊列が目の前の道を封鎖していることに気づいた。
「やばい、ぶつかるぞ」
群衆は足を緩めることなく警官隊に突っ込もうとしている。このままでは彼も最前線で警官隊と衝突することは目に見えていた。
なんとか止まって道の端に寄ろうとするが、次から次へと殺到する人々に押し出され、もみくちゃになった。すると今度は誰彼構わず殴りつけている警官の警棒を腕に食らい、よろめいて地面に手をつくと、すぐさま身体が蹴り飛ばされた。とっさにうつ伏せになったものの、頭を上げられる状態ではない。
「くっそ。もう少しで路地に入れるのに」
次々と頭や背中を踏みつけられ、秦は苦痛で顔を歪めた。
頭が蹴り飛ばされ思わず身体が仰向けになってしまった瞬間、彼は手首を掴まれ引きずられる感覚を覚えた。
「早くこちらに!」
女性の声が聞こえたものの、秦は片腕で顔を覆っていたため何が起こったのかわからず困惑していたが、そのまま背中を引きずられていった。
しばらくすると群衆の喚声が遠ざかり、彼はどうやら安全な場所に連れてこられたらしいことを悟った。
恐る恐る目を開けると、ワインレッド――当時はこれを
秦は立ち上がりながら服に付いた土を払ってから女学生を見上げた。
「ありがとうございます」
彼女は秦よりやや年下に見えたが、返ってきた声色は大人びて力強いものだった。
「どういたしまして。大丈夫ですか?」
「はい。特に怪我とかはしてないみたいで」
正直膝をすりむいたり蹴られた腰が痛んだりしていたが、とりあえずあたりさわりのない返事をした。
「よかった。ここはまだ危険。だからむこうに行きましょう」
大通りで衝突が起こっているのをしり目に、二人は小さな路地を通って新橋の近くまで抜けた。
「ここも危ないかもしれないです」
彼女の言う通り、銀座だけでなく各所で騒ぎが起こっており、大通りにうかつに出ればまた殴り合いに巻き込まれるだろう。二人はしばらく煉瓦でできた建物が並ぶ路地裏に隠れることにした。
「そんなに講和条約が嫌ですか」
彼女は突然口を開いた。
これまでほうほうの体で逃げて来たので気に留めなかったが、彼女のしゃべりにはきつい訛りがあった。
「人もたくさん死んで、重税にも苦しんで戦争をやりぬいたのに、あんな内容じゃ納得できないでしょう」
先日結ばれたポーツマス条約は日露戦争の講和条約であり、日露戦争における日本の一応の勝利を確定させたものだった。しかし、取った領土は樺太の南側だけ、賠償金も得られず、多くの国民は屈辱的な取り決めだと憤った。
実は日本にはもう戦争を継続するだけの金も物資もなく、ロシアには足元を見られていたのだが、講和会議の手前そのような事実を公開できたものではない。結果的に講和会議の日本側全権である小村寿太郎は売国奴と罵られ、命を狙われる騒ぎにまで発展した。
秦はこう続けた。
「日清戦役の後にも、ロシアやフランス、ドイツの要求に屈して、せっかく得た遼東半島を手放したんだ。またあの屈辱を味わえっていうのか」
女学生は少し考え込んでから、秦をまっすぐ見据え言った。
「でも、自分の国が侵略されなかった。そのことがうらやましい」
彼女はたどたどしく答える。
秦はそんな次元の話ではないと思ったが、植民地化を防ごうと維新以来日本が奮闘してきたことを考えると、悪い気はしなかった。
秦は尋ねた。
「お国はどちらですか」
「浙江です」
秦は聞き覚えのない地名を聞いて眉間にしわを寄せた。
「セッコウ? どちらのセッコウで?」
彼女はまったく恥じらうことなく答えた。
「浙江省――清国の浙江省です――」
「清国!?」
秦は目の前の女学生がそう答えたことに驚きを隠せなかった。
さっきは、遼東半島半島が惜しいとかなんとか言ってしまったこともあり、かなりきまりが悪い。
しかし、彼女は気にも留めず続けた。
「そして、このように国民が政府に主張できる。政府は集会を禁止したのに、それでもやった。この気持ちを持っている人達は本当にすごい」
「でも、これはさすがにやりすぎでしょう」
「でも必要なことかもしれないです」
正直、秦はそんなことよりも目の前の清国人に興味があった。
「なぜ日本に来たのですか?」
「留学です。日本で学問をします」
秦も清国から近頃留学生が来ているらしいとは聞いていたが、実際に会ったのは初めてであった。なによりも女が留学しに来ているということが衝撃的であった。
「女も留学をするのですか?」
「はい、しかし人はとても少ない」
しばらく興味のままに質問攻めにしながら狭い路地を歩いていたが、秦はこの女学生がヒョコヒョコと奇妙な歩き方をすることに気づいた。
「ちょっと、あなたも脚を怪我されているのでは」
彼女もあの場にいたのだとしたら、怪我を負った可能性もなくはない。
しかし彼女はそれを否定した。
「そんなことはありません」
「でも歩き方が」
すると彼女は少し首を傾げ、少し間を置いてからこう言った。
「これはね――纏足ですよ」
「テンソク?」
一瞬なんのことだか理解ができなかったが、少し脳みその中の知識を全部ひっくり返してからやっとその意味を飲み込んだ。
「清国の女性はみんなそうするの?」
「そう。だいたい。だから走れない」
彼女は履物をパッと脱いでみせると、足は見たこともないほどに小さく、足袋の先がだぶついている。
秦は思わず唾を飲み込んだ。
「日本人はみんなそのように反応する」
「――申し訳ない」
秦は彼女を傷つけたと思い謝罪したが、返事は意外なものであった。
「謝らないでいいです。私もこれが嫌いだから」
彼は、清国人もいやいやながらこれをやっているのか? と問いたかったが、気まずくてそれ以上は追及しなかった。
秋晴れのまだ汗ばむ陽気のなか、二人はゆっくりと喧騒から遠ざかっていった。
東に大きく迂回してから北上し、日本橋を通って神田近辺まで来た。このあたりまで来ると、さっきまでの騒動が嘘のようにいつもと変わらない。
「私はこの近くに住んでいる」
よく聞くと本郷で下宿しているのだという。
このあたりは学生のための下宿屋がひしめいていて、質はかなりピンキリであった。まずい飯に加え不愛想な主人ということもざらで、学生も学生で酒を飲んで大騒ぎし、下宿からたたき出されるということもしばしばである。
この当時から学生がうろつく場所は魔境のようなもので、まして女性が下宿などというのは果たして大丈夫なのだろうかと秦は心配になった。
「女が下宿は危ないでしょう?」
「私を守ってくれる人がいるから問題ない」
あまりに自信たっぷりに答えるので、相当信頼の置ける人物がいるんだろうことは容易に想像できた。なかなか涼やかで利発そうな容姿をしているし、いい男の一人でもいるんだろうかと秦は思ったが、結局具体的なことを尋ねるのはやめておいた。
しばらく、歩くと大きくて立派な建物が見えてきた。どうやら旅館で下宿屋も兼ねているらしい。
「これ?」
「いいえ、違う。これは本郷館。今年できた新しい下宿」
「へえー、僕もここに住めたらいいなあ」
秦は自身の早稲田にある小さな下宿を思い出して、ここの住人を心底うらやましく思った。
「じゃあ、あなたのは?」
「私のは元日館」
「なるほどガンジツカン……ジンギスカン……」
秦は一人でツボに入って笑いをこらえていたが、彼女はなんだかわからないらしくきょとんとしていた。
「ほら、いきましょう」
「いや、いつの間に僕も行くことになっているの」
「いいものを見せてあげるから」
「それは誘拐の常套句では?」
いつの間にかふたりはだいぶ打ち解けてきていて、いつのまにか敬語を使わなくなっている。
秦はそこらで会った男を簡単に部屋に呼ぶなんてどういう風の吹き回しなんだろうかと
しばらく歩くと、さきほどの本郷館ほどではないものの、小ぎれいな二階建ての木造旅館のようなものが現れた。女学生はピタリと足を留めた。
「ここね」
開けっ放しの門をくぐり曇りガラスの玄関前まで来ると、彼女は秦を振り返りこう言った。
「女将にバレるとまずいから、静かに侵入しよう」
「そ、そんなうしろめたいようなことなら、僕は帰るぞ」
「いいじゃないか」
彼女は左手で秦の袖をグイっと掴むと、もう一方の手で玄関の戸を器用に音もなく開けた。
「誰もいない……」
彼女は袖を離してから手招きし、履物を脱ぎ捨ててすり足で奥に進み始めた。
秦も草履を揃えて端に寄せてから進み、彼女が階段を上がるのを後ろからついていった。
階段がギシギシと音を立てる。すると階下から女中の声と足音が聞こえて来たため、秦は冷や汗をかいた。
「大丈夫なのかこれ」
「バレなければ大丈夫」
「バレたら大丈夫ではないんだね」
通常学生の下宿では、女を連れ込んだりすれば主人や女将から大目玉を食らう。周りの迷惑になるから当然なのだが、学生は掃いて捨てるほどいるので「お客様」扱いはしてくれないことが多い。
なんとか無事に階段を登りきると、二階の廊下にはズラリと障子が並んでいる。
この建物にはこじんまりとした中庭があり、彼女はそれを横切る渡り廊下を前屈みになって進んでいった。
「見つかるから、低くして」
秦は言われるままに、ガラス窓より頭を低くして彼女の後をついていく。
渡り廊下を渡りきると、彼女はちょうど前にあった襖を開け放った。
「ここです」
意外と広めの八畳の和室である。昼間ではあるものの、日は差し込まず少し暗い。
机がぽつんと隅に置いてあるが、畳まれた布団が二組あるので、おそらくもう一人ルームメイトがいる。
秦はその人と鉢合わせすることが一番気まずい展開だと思ったから、すぐにでも帰りたくなった。
「お邪魔します」
机の上には筆と硯があり、半紙にびっしりと文字が書かれていた。
「よく勉強しているね」
すると、彼女は机の前に正座し、使い古した半紙の余白にデカデカと「李美玲」と書いた。
「これが私の名前」
「り・びれい?」
「いや、り・みれいだよ」
「普通は『びれい』だと思うんだけどね」
「私が決めたからこれでいい。日本語の漢字はたくさんの読み方があるでしょう。日本人の名前も読み方がたくさんある。だから、これでいい」
なるほど、日本人の名前に至っては同じ漢字でも音読みから訓読みまで
「チン・ルイシー」
美玲は突然口を開いた。
「えっ、なにそれは」
「あなたは元々清国人ですか?」
「いや、まったく関係ないけど」
「とても清国人みたいな名前」
秦はまったく考えたこともなかったが、名前がまるで清国人のように見えるらしい。確かに名字が一文字であるし、清国では瑞という文字は縁起が良いので名前によく使うという。
「なんと読む?」
「はた。『はたみずき』だ」
「なるほど。『はたみ・ずきだ』さん」
「違う! そこで区切るんじゃない。『みずき』と読む。『はた・みずき』」
美玲はほほうと感心した顔をして「日本人の名前は難しいね」と言いながら、漢字で書かれた秦の名前の横に平仮名でふりがなをふった。
秦は自己紹介をするたびに「女みたいな名前だな」と笑われて食傷気味だったので、このような反応は新鮮で少しうれしかった。
秦は美玲に何度か発音練習をさせると、だんだんうまく発音できるようになってきた。秦はついつい興奮して持っている筆を振りながら「そうそう!」と大声を出してしまった。筆から墨汁が飛び散り、美玲の顔に掛かった。
「いやぁ!」
彼女の悲鳴を上げると同時に、バンッ!――と大きな音を立てて襖が開き、薄暗い部屋の中に閃光が走った。
「えっ――」
よく見ると秦の喉元には白刃が突きつけられている。
彼はそのままこの刀の主を見上げた。
切れ長の女性の眼がこちらを睨んでいる。
「何者だ!」
秦は低く凄みのある声に気圧されて、完全に固まってしまった。
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