第十二章 「立ち上がる少女」
リンの上に圧し掛かったイドラが震えだした。からだをくねらせている。その動きによって、胸に角が押し込まれた。震動とともに伝わる疼痛が、とても不快だった。
角は、胸の皮と肉を突き破ったあと、リンの「心」に対して聖杯連結を行った。その連結を使って、心に、そして聖杯に侵入するようだ。
イドラは震えとともに、人のかたちを失っていった。肉塊のようだったからだは、真っ黒で締まりのない澱に変わる。
ぼたぼたっと、そのすべてがリンのからだの上に落ちてきた。黒い澱がリンのからだを包み込む。積もった部分から凝りはじめ、固いゼリーのような感触となった。
角は胸に突き刺さったままだった。あいかわらず、ぐいぐいと聖杯への侵入を続けている。
黒い澱の中には、光や音が届いていなかった。ここは、夜の闇よりも暗く静かな、黒の世界。時間や空間を感じることができない。ただ、リンの意識だけがある。
胸に突き刺さった鋭利な角が、ひっきりなしに押し込まれる。ずきずきとうずくような痛みが次第に大きくなっていく。
やがて、その痛みが、皮と肉を貫かれたときと同じ激しさになったとき、角が「心」に届いた。そこで止まってはくれず、さらに奥へ進み続ける。
与え続けられる、からだや心への痛みが、リンの思考と感情を塗りつぶしていく。
からだの内を駆け巡る雷のような痛みに、体内をかき回されているようだった。
吐き気、むず痒さ、強ばり、震え、力みが混ぜ合わさった複雑な身体感覚は、自分のからだであることを忘れるほどに現実感がなかった。
何よりも、リンの心を塗りつぶすのは、未来を閉ざされる絶望感だった。
それは、怒り、悲しみ、いら立ち、あきらめの感情でまだらに塗られていた。ときおり、激しい怒りや深い悲しみが、強く濃く現れたかと思えば、それは唐突に薄れ、暗く冷たい、無色の領域となる。
すべての感情は、心にとどまらず、絶えず流れていった。
抗いたい。拒絶したい。否定したい。でも、怖くてできなかった……。
不用意に、少しでもからだを動かせば、痛みと不快なものが増してしまう。
考えなしに、抵抗の意思を表せば、その意思ごと尊厳を貶められてしまう。
きっと、このままの方がいい。そっとしておけばいい。
からだと、心を閉ざし、触れずにいれば、過ぎ去っていくはず。それが一番良い方法だ。そうに決まっていた。そうでないと、救われない。
リンはひたすらに祈る。
黒い闇に拘束され、手も組めず、何に対してかは、わからないが、祈った。
どうか、このまま痛みがなくなりますように、と……。
ぴきっ、ぴしぃ。
何かが割れる微かな音。黒の闇の静寂を破るには、充分だった。
ぱりん。
リンの直感。これが、聖杯の割れる音。イドラの角が聖杯に届いた証。
「あああああぁぁあああああぁっ!」
リンの祈りもむなしく、今までよりもひどい痛みと強い感情が襲ってきた。悲鳴は黒い澱に吸収され、少しも響かない。
激しい偏頭痛。側頭部に釘を打たれているようだった。
胸の痛み。万力で締め付けられているようだった。
さきほどまでは、通り過ぎていくだけだったまだらな感情が、串刺しにされた心にしみる。強い感情は、より大きくなり、自分では扱いきれない。発狂してしまいそうだった。
リンはそうならないために、まだらな感情さえもなくそうとする。
そのとき、イドラの角から、大量のイドラ・アドミレーションが聖杯に流れ込んできた。壊れた蛇口のように、とめどなく。とろりとした液体があふれてくる。
聖杯の底に黒いものが溜まっていく。リンの心が、さらに暗く、さらに冷たくなる。
聖杯が満杯になってもイドラ・アドミレーションの流入は止まらなかった。聖杯からこぼれたものが、心の内側を黒く染めていった……。
からだや心に訪れる、数々の痛みを、自分という存在を無視することでやり過ごす。
それは、十分にも満たなかったのかもしれない。しかし、リンの体感としては、いつ止むのかもわからない、数時間もの間の虐待に等しかった。
やがて……リンが知覚し、心に思うものがすべて通り過ぎ去った。唐突だった。
聖杯へのイドラ・アドミレーションの流入が止まっていた。聖杯浸食が終わったのだ。
目を開ける。からだの力を抜く。
リンに圧し掛かっていた黒い澱がきれいになくなっていた。巨漢のイドラもいなかった。いつの間にか、輝化も解除されていた。
開いた目に見えるものは、空。どんより曇った灰色の空だ。それは、先ほどまで見ていた黒い闇と変わらないくらい行き詰まった空だった。
ここまで受けてきた痛みのすべては、嘘だったように、きれいさっぱりなくなっていた。でも、その消えた痛みとともに、自分であるもののすべてが流れ去ったようだった。
リンという人間から「リン」が押し流され、虚無が残った。虚無からは虚無しか生まれない。リンは感ずるものすべてに意味を見出せなくなっていた。何を知覚しても、何を心に思っても、出力されるのは、「虚無」だった。
突き立てられたイドラの角は、胸から消えていた。聖杯の中に突き刺さり、埋まっている。心の奥に、無視できない引っかかりを感じる。
心の中の異物感は、この出来事が悪夢ではなく、現実であることを強く意識させる。
それを認識するたびに、イドラの角に傷つけられたこと、聖杯に傷を刻まれたこと、無理やりイドラ化させられたことを思い出さざるを得なかった。
それは、何をしていても目に触れてしまう大きさの汚れに似ていた。洗っても洗っても落ちることのない汚れにそっくりだ。それが付いているだけで、もう誰の前にも立ちたくないと思ってしまう。こんなに汚された自分は、誰の目にも映らずに、消えてしまいたい。そんな恥の感情が襲い掛かってくる。
聖杯浸食の前と後で、何かが、決定的に違う。もう……以前の自分には戻れそうにない。
どうにもならない。どうしようもない。先が考えられない。
自分の人生が断絶していた。まったくつながりを感じられない。
今の自分は、これまで生きてきた自分ではない。そうとしか思えなかった。
リンは、地面に倒れたまま、ぼうっとしている。からだが動かないのだ。動けない。動く力が湧いてこない。動こうと思えない……。すでに自分でないものを動かすことなんてできない。
今、ここにいる「自分」をどう扱えばいいのだろう?
ルナの顔が視界に入る。口元に薄ら笑いを浮かべていた。
「死んだ? それとも、黒のアイドルになった?」
ルナの目を見る。何の感情もなく、見る。憎しみも憤りも黒いものが持ち去っていた。
「生きてたんだ。これでアタシといっしょだね」
ルナの表情がころころと変わる。安堵の表情かと思いきや、一転、リンを侮蔑する表情に。
「いっしょ、なんかじゃないね……。アタシ以下だよね? だって! リンが侵されているところは、あんなに汚らわしかったものっ! それに比べたら、アタシは、きれいだよね!」リンがナイフを静かに抜いた。「そんなに汚いお前は、間違っているわ……。きれいで正しいアタシが、お前をここから排除してやるっ!」
ひざをついたあと、ぶつぶつとつぶやきながら、ナイフを逆手に持ち、リンの胸に向かって振りかぶる。
「……正しくきれいなアイドルが、粛清する……間違った汚らしいイドラを粛清する……心を切り開き、聖杯を取り出して……切り刻んでやる……」
ルナの言動を目の当たりにしても、リンはまったく動じなかった。
(これで心を壊されて、消えることができるなら……、楽になれそうだ。こんな自分をなくしてくれるなら……)
他人に頼るのも悪くない、と思えた。
自分の胸に向けられたナイフの切っ先をじっと見つめるリン。
そのとき、ナイフの切っ先がちかっ、ちかっと光った。
ナイフが完全に振り上げられた。その向こう側。そこにあったのは、ひとすじの光。
曇り空を切り裂いて降り注ぐ、太陽の光だった。
その光芒が、リンの心の奥に残る、美しくて強い思いにスポットを当てた。その思いが、きらきらと輝きだす。
それは、リンが十二歳のとき。キリアとの出会い。そして、アイドルへの憧れ。
――あのときの空にも、雲の切れ間から幾すじもの光芒が伸びていた。遠くに見える山々を明るく照らし、キリアの立つ場所も、スポットライトのように照らしていた――
その光景を見たときに感じたキリアへの、そしてアイドルへの憧れは、深くつよく聖杯に突き刺さり、四年もの間とどまり続け、リンの聖杯を過激に劇的に変えた。
その変化と比べれば、イドラの角による変化など、小さすぎて何の価値もなかった。
リンは、その憧れという楔を信じて、自分の残りの人生を駆け抜けることを誓ったのだ。
アイドルになることがゴールじゃない、キャメロットになることもゴールじゃない。
(わたしもキリアさんのように、絶望の淵に立たされた人を助けられるようになりたい! 『駆け抜けた先』は、今、ここじゃない!)
リンの聖杯の中心、さらに奥底にあった四年前から変わらない「未来」。
それが、聖杯浸食によって断絶された「過去」と「現在」を力強くしなやかに結びつける。
その「未来」から、橙色をしたアイドル・アドミレーションの奔流が噴き出した。圧倒的な量と勢いで、イドラ・アドミレーションを押し流していく。やがて、イドラの角さえも聖杯から排出される。聖杯は、アイドル・アドミレーションで満杯となった。
心がはじけそうになる。聖杯が割られたときと同じような、偏頭痛と胸の痛みを感じた。しかし、そのときとは違って、さわやかでしびれるような、こそばゆい痛みだ。
からだにも力が戻ってきた。両手両足に力が集まってくる。そのとき、
ルナがナイフを振り下ろす!
心に任せて、とっさに起き上がる。ルナのナイフを左手で抑え、彼女を突き飛ばした。
ルナが尻もちをつく。驚いた顔のまま、呆然とリンの姿を見つめている。
リンはルナに告げた。
「四年前に決意した『キリアのようなアイドルになりたい』という気持ちは、今も変わっていなかった……。それは、わたしにとって、なくしたくない、なくせないものだったの。
どんな状況だったとしても、たとえイドラに聖杯浸食されたとしても、アイドルとして、それを追いかけていきたい。だって、どうしてもあきらめきれないからっ! それがあってこその、わたしだから!」
リンは、ひざをがくがくと震わせ、ふらつきながら上体を持ち上げる。
「今、自分が過去と比べて決定的に変わったとしても、わたしはわたしをあきらめない!」
こぶしをにぎりしめ、リンが堂々と立ち上がった。
「聖杯を侵されたアイドルが、そんなこと、できるはずない! ありえない!」
「そうかもしれない……でも、そうじゃないかもしれないっ!
わたしにとって、良いも悪いも、きれいも汚いも、正しいも間違いもない! どうしたいのか、どうなりたいのか。ただ、それだけなのっ!
わたしを動かすのは、わたしのからだと心。
わたし以外に、わたしを動かすことなんてできない!
だから、わたしだけはあきらめない! わたしが納得できるまで、絶対にやり遂げるんだっ!」
リンが自分の決意を言い終えたとき、からだの芯が燃えるように熱くなった。
火照りのような熱さだけでなく、手や腕の内部がぼうっと橙色に発光している。脚やからだにも同じ現象が起きていた。
全身の燃えるような熱さ。そして、アイドル・アドミレーションが、皮膚の裏をくすぐるようにからだに満ちてくる感覚。それは、輝化する前に似ていた。
内から湧き上がってくる強い思いがアドミレーションとなり、からだが破裂しそうなくらいに膨らんでいる。
これ以上抑えていられない。リンは、叫びとともに力を解放した。
きぃん! という耳鳴りのような、か細い音のあと……
アイドル・アドミレーションが爆発した。
目の前が、強く輝く橙色で満たされる。
採石場の灰白色。灰色の雲、青空。そして、ルナ。すべてが橙色で塗りつぶされていった。
ごぉう! という音ともに、アドミレーションの炎がうず巻く。
高く激しく燃え上がる炎が、リンから勢いよく噴き出している。
炎とともに、聖杯の中に浸食していたイドラ・アドミレーションが体外に排出された。
目で見るもの、耳で聞くもの、鼻で匂うもの、口で味わうもの、肌で触れ合うもの。
それらすべての経験に対して、思い、感じ、意味を見出すことができる。そのとき抱いた感情が流れずに、しっかりこころにとどまってくれる。
それらが普通にできることに、安心した。とてもうれしかった。自然に笑みがこぼれる。
このあふれる力を使いたくて、仕方がなかった。うずうずして、じっとしていられない。
心配なのは、のぼせたように、頭が熱っぽくふらふらすることだけ。
ルナが落ち着きなく頭を横に激しく振り、こぶしを地面に激しく打ち付ける。
「リン! いったい何者なのよっ! イドラ・アドミレーションを自力で排出できるなんてっ! 見たことも、聞いたこともない!」
立ち上がり、リンをまぶしそうに見つめる。まぶたに隠れた瞳から怒りがにじみ出ていた。
「それに……、こんな量のアイドル・アドミレーション……。
ありえないっ! 意味がわからないっ! なんなの……何が起こっているのよ!
お前みたいな、間違って汚いアイドルが、なぜこんなことができるのよ!」
それは、リンにもわからなかった。しかし、知らなくても何とかなる。この炎のようにあふれるアイドル・アドミレーションは、それぐらいの大きな自信を与えてくれる。そして、再び立ち上がり、走りはじめるための力を与えてくれる。
「この力で、臨んだ未来まで、駆け抜けてみせるっ!」
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