第二話 綻び

 好きになった人を忘れるのはどうやら生まれつきのようだった。事故などの後天的なものではない。もう、呪いの域だ。タマちゃんがなにをしたというのだろう。


 昔からタマちゃんは変わらない。明るく、元気で、いつも前ばかり見ているような快活な足取りを、あたしはいつも追いかけた。


 記憶をなくすから、変わらないのだろうか。どちらにせよ、過去を蝕んでいるのはあたしだ。好きでいてくれるのは本来なら喜ぶべきことなのに、どうしてこんなに苦悶しなければならないのだろうか。


 好きになるのも、好きになられるのも辛い。恋とはそういうものなのかもしれないが、あたしたちにおいてそれは少し違う気がした。


 それに、恋なんてとうに過ぎている。そんな未発達な感情はすでに芽を出して、咲いて・・・・・・枯れてはいないけど、成熟している。


「安藤・・・・・・」


 口に出すと、スッと思い出が溶けていくようだった。他人行儀なその呼び方は心苦しいけど、昔からの呼び方はもっと苦痛を伴う。


「バイト行こう」


 時計を確認して、足を速める。


 もっとお金を稼いで、あたしは引っ越すのだ。ここから消えて、タマちゃんの前からいなくなって、互いに平穏を過ごす。それがきっと最善なのだ。


 希望はなくとも、目標があるのは案外心を楽にしてくれた。小刻みに進んでいく日々を忘れられる程度に、働くことができる。


 飲食店で働きはじめて約2年。もう仕事に関しては考え事をしながらでもこなせるようにはなっていたが、その考え事をしたくないため必死に働いた。汗が伝うたびに、安堵するように。


 今日もせかせかと皿を運んではメニューを取り、何故か会計まで任せられる。


 店長はどうにもあたしをレジに置きたいらしい。一度理由を聞いたが「顔」とだけ言われて結局詳細までは分からずじまいだった。


 そんなわけで小銭の確認をしながら、この手で料理を運んでいいのか疑問に思いつつも職務に従事する。


 やがて客足が少なくなってきた頃、厨房に引っ込んでいたあたしは再びレジに呼び戻された。仕事が増えても給料は増えない。なら働き損だなと思いながらも、けどこの時だけは自分が辛いだけだからマシだった。誰かのことを思うともっと胸が痛い。


「あれ」


 早足でレジに向かうと、見知った顔があって声を漏らす。あちらはあちらで、そこまで驚いてはいなかった。会計の時にはきっとあたしが来ると分かっていたのだろう。


「明日原さん・・・・・・」

「よ、久しぶり」


 相変わらずさっぱりした姿勢だった。久しぶりなのかを思い出すのに、少々時間がかかる。


「どうしてここへ?」

「んや、ちょっと会議を。な」

 

明日原さんが視線を横にずらすと、そこには見知らぬ女の子がいた。巻いた髪が可愛らしい、そんな印象だった。あたしと目が合うと、肩を跳ねさせて一歩下がる。


「お、俺・・・・・・あ、いや。えっと、さ、先に出てるなっ!」

「あいよ」


 その女の子は慌てた様子で走り去っていった。妙に勇ましい走りっぷりだったけど、そういう子なのだろう。視線を明日原さんに戻して、話の続きを促す。


「まぁそれと、タマのことで話があってな」

「・・・・・・そうだろうね」


 あたしと明日原さんにそれ以外の接点はない。というか、それでしか関わりはない。友達とは到底呼べない軽薄な関係だった。


「また忘れてる」

「知ってる。蜜葉ちゃんに聞いた」

「そうか。まぁ、そうは言っても、土曜日に約束があったんだろ? 気付かずにタマを連れ回しちまったからさ、まずはそれを謝らせてくれ。悪かった」


 あたしはきっと、目を丸くしている。てっきり責められるのだと思っていたから。いや、明日原さんはあたしを直接責めたことなんてない。ただ、毎回「頼む」とだけ言われて頭を下げられるのだ。


 明日原さんがどれだけタマちゃんを大事にしているのかが分かる。分かる度、疼く。


「あたしのほうこそ、ごめん。またダメだった」

「いや、いいんだよ。あいつを抑え込むのって相当大変だろ? 私が逆の立場だったとしても、多分そうなってた」


 それって、明日原さんも・・・・・・いや、詮索するのはやめよう。


 明日原さんは財布を取り出して、レジに表示された金額をトレーに乗せる。確認して、機械に入れると自動でお釣りを出してくれる。


 ガシャガシャと中で小銭が回る音を聞きながら待つ。


「わかんねぇよな」

「え?」

「どうすればいいかってことだよ」

「ああ、うん」


 曖昧な返事は、不明瞭な現実を表す。浅い息遣いは頼りない。


「でも、これだけは言わせてくれ」


 あたしが渡したお釣りを受け取ると、財布には仕舞わずにポケットに直接入れた。乱雑な手つきは、苛立ちのようにも見えた。


「タマを苦しめるのだけはやめてくれ」

「・・・・・・・・・・・・」

「あいつに不幸は似合わねぇんだよ。いつもヘラヘラ笑って、ドン引きするくらいの奇行に走って、誰かに怒られて、それでも幸せそうにしてる姿が、あいつには似合うんだよ」


 それは、分かる。痛いほどに。タマちゃんが苦しむ姿なんてあたしだって見たくない。だけど・・・・・・だから・・・・・・難しいのだ。


「なにが正解かなんてわからねぇし、きっと選択はひより。お前にしかできない。私には口出しする権利もねぇし助けてやれる名案もねぇんだ。だから・・・・・・タマの幸せを考えて、選んでくれ。私が言えるのはそんだけだ」

「うん。だからあたしはもうここから消えるよ。どこか遠くに行って、もう二度とタマちゃんの前には現れない」


 それが、タマちゃんにとっての幸せだ。幸福なんて人それぞれかもしれないけど、人並みの人生を送るのが前提だ。細切れに消えていく記憶なんて、およそ幸福のそれではない。


「心配かけてごめんなさい。今度こそうまくやるから」

「・・・・・・そうじゃなくてな」


 明日原さんは頭をかいて、めんどくさそうに口を開けた。


「タマにとっての幸せがなんなのかよく考えろ。私よりも付き合いの長いお前なら分かってるだろうが、あいつはマジで、単純だぞ」

「それって、どういう意味?」

「幸せって、結構くだらないものかもしれないってことだ」


 あたしは首を傾げて明日原さんを見る。その言葉の真意を探そうにも、すぐに蓋をされてしまって分からない。口にした当人も、肩をすくめていた。


「ま、誰もお前を責めたりしねぇってことだ。誰も、誰も悪くないんだよ。この件に関しては。うん、あぁ。だから」


 頼む、とそれだけ言い残して明日原さんは店を出て行く。見送った背中は、いつもより小さく見えた。


 あたしはバイトが終わって、真っ直ぐ家へ帰る。店から駅へ近道となる路地裏は、今夜は通らないことにした。


 服を脱いで、シャワーを浴びながら今日の出来事を思い出す。


「みんな、タマちゃんが大事なんだ」


 色々な人に大切にされているって分かる。それは諸々の事情も絡んでいるのだろうけど、他に、人懐っこい性格とか、前向きなところとか、表情がコロコロ変わって可愛いところとか、変なこだわりがあるところだとか、普段は天真爛漫なくせに妙に照れる時があるところとか。そういった数々のものが、関係してくるのだろう。


 心の火に炙られたように、次々に沸いてくるタマちゃんのいいところ。


 あたしはそんなタマちゃんに憧れて、惹かれて、好きになったのだ。


 黒い事情に浮かぶ、桃色の感情。どっちを向けばいいか分からなくなり、湯船に顔を沈める。


 ぶくぶくと泡が生まれては、消えていく。手ですくっても、抱えるように守っても、なにをしたって弾けて消える。


 生まれて消えるのを摂理というのなら、この世は薄情だ。結果に文句はないけれど、せめて過程くらいには少し趣を持たせてもいいじゃないか。どうせ消えいくものなのだから。


「ぼうぶれう゛ぁ」


 あたしの疑問を、水面が濁す。不確かな音となり浴室に反響した。


 昔、近所のプールに行って一緒に背負い投げの練習をしたのを思い出す。あたしは運動神経もよくないから習得に時間がかかって、タマちゃんは器用だからすぐにあたしを遠くへ投げ飛ばせるようになった。


 すごい! と言うと、胸を張ってグハハと笑うタマちゃんは可笑しくも、頼もしくもあった。


 けど、タマちゃんはその記憶すらも忘れてしまった。泳ぎ方も、背負い投げの仕方も、なにもかもを忘れて。そうやって、積み重ねた時間が消えていく。


 あたしの手だけが、いまだあの時を彷徨っている。水中から手を伸ばしても、掴むのは虚空だけだった。


 お風呂をあがって、歯を磨く。口の中で、シトラスの香りが広がる。粘っこいクリームが舌を転がり不快なものを運んでくる。


 泡立たないそれが、歯磨き粉ではなく洗顔クリームであることに気付いたのはうがいをした後だった。


 おぼつかない足取りでベッドに向かう。タマちゃんがここで跳ねて壊れたバネもそのままだ。無反動の感触に迎えられ、目を閉じる。


 枕に顔を埋めると、濡れていた。まだ半乾きだったのか、それとも。


「タマちゃん・・・・・・」


 どうしてタマちゃんだけなのだろう。どうしてこの思い出はあたしだけのものなのだろう。


 考えても、きっと分からないし。答えにだって辿り着けない。


 蜜葉ちゃんと明日原さんに言われたことを思い出す。


 幸せ。


 幸せって、なんだろう。


 また分からないものが増えた。


 人は支え合って生きている。だから、片方へ傾くのは本質的にどうしようもないことで、ひどく切ないものなのかもしれない。


 それでもあたしは。


 過ごした時間を忘れたいと思ったことは、一度もなかった。

 

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