志怪小説

ニ羽 鴻輔 にわこうすけ

第1話【人皮虎】

 若い兵士が死にかけている。

 幾本いくほんものはら穿うがたれ、山の中まで逃げてはきたが、そこですっかり力尽きた。

 大きく立派な体躯たいくであったが、男の心根こころね柔弱にゅうじゃくにすぎて、戦働いくさばたらきに向かなかった。


 ひとたび木陰こかげにくずおれたならば、もはや腰は立たなかった。

 息の絶えるのを待ちながら、男がただひとつ気がかりとするのは、さとに残した母親のことだ。


 おれの不甲斐のないために、母には気がかりをばかりさせた。

 力仕事しか能のないおれでも、いなくなっては苦労であろう。

 そのうえ死んだらどれほどまでに、母は哀しむことだろう。


 そうと思えば胸は痛み、孝行したかったと思うと涙が出た。

 拭おうにも、とうに腕はえていた。


 そのとき男は、なにかが己をじっと見ていることに気づく。

 顔を上げると、笹薮ささやぶの中から虎がこちらを覗いている。


 さては血の匂いに誘われてきたか。

 それにしては動けぬおれに、喰らいつこうという様子もない。

 おれが死ぬのを待っているのか。


 すると虎が口をきいた。


 いや、たしかに口をきいたように思ったが、何を言ったかうまく聞きとれぬ。

 すでに耳も萎えたかと、諦念ていねんしかけて、男は我に返る。


 どうして人の言葉と思った。虎が口をきくはずがない。

 きっと心細いがあまり、虎が喉を鳴らしたのをでも、言葉と思い込んだに違いない。


 己にあきれながら男は虎の顔を見る。

 すると虎がまた口をきく。

 どうしたわけか、先ほどと、同じことを言われたように思う。

 おれはとうとう気までふれたか。


 虎と目が合う。

 虎が更にもう一度、同じことを言う。

 今度は虎の口が、はっきりと動くのが見える。


 おまえがしんだらかわをくれ。


 ああそうか、口の作りが、人の言葉に向かぬのか。ぎこちない発音がようやく頭の中で意味を成す。


「おれの皮がほしいのか」


 虎がゆっくりとうなづく。


「皮を得てどうする」


 ひとのすがたになろうとおもう。


「おれのすがたになるのか」


 そうだ、と虎が答える。

 それをきいた男の頭に、ある考えが去来きょらいする。


「やってもいいが、そのかわり、ひとつ頼みを聞いてはくれぬか。

 故郷の村に母がいる。一年かぎりでいい。俺に代わって孝を尽くしてほしい」


 虎がゆっくり瞬きをした。


 かならずまもる。


 その返事ばかりは妙にはっきり聞きとれた。


 おかしなことだ、と男は思う。

 俺はやはり気がふれたのかもしれぬ。

 死ぬるのを前にかすんだ頭で、夢でも見たか。

 到底うつつとは思われぬが、虎はたしかにそこにいる。


 ゆめでもうつつでもかまわぬ、と男は思う。

 ほんの今まで母を残して逝くことが悲しくて仕方がなかったが、このおかしな夢のおかげで気が楽になった。


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