第26話 春よ、恋②

「おかしいと思った!トモ君がこんな浮かれた場所に呼び出すわけないもの!それに悩んでるなんてトモ君に嘘つかせるなんて本当にバカなの?」


 美樹の母、由樹は仕事帰りに坂上智さとしに都内の屋上にある半戸外のバーに呼び出されたが、そこにオガハルがいるのをみて心底うんざりした顔でそう言った。彼女はたまに幼馴染を昔のようにトモ君とうっかり呼んでしまう。綾子に気を使って気を付けているのだが、つい馴染みが深い名前が口から出てしまうのだ。


 由樹の実家は植木屋だから緑の多いお洒落なバーで喜ぶかもと思っていたオガハルはがっかりしたが、なんとか持ち直して適当に由樹の好きそうなもの(しかしそれも彼女の好みを大体外していたそうだ)を注文した。


「で、何?」と諦めた様に由樹に聞かれてオガハルは息を飲んだ。


 由樹の目が怒りをたたえていて怖い。夜に美樹を放っておいてまで来たのに、つまんない用事ならぶっ飛ばすと目で言っている。身の危険を感じてオガハルは身をすくませた。


「えっと…」


「何?美樹の話?」と仕方なく由樹が振ると、オガハルは頷いた。


「…由樹があの時『どうする?』と俺に聞いたのは由樹が仕事をしたいから子供を産むのは困る、って意味だと思ったんだ。もし由樹が産みたいって知ってたら、ちゃんと責任取って…」


 責任、という言葉で由樹が反応し、目が吊り上がる。間違いなく失言だった。

 彼女は責任を取って欲しいわけではなかったのをオガハルはわかっておらず地雷を踏みぬいた。彼は全く女心というものがわからないタイプなのだ。


「責任?そんなの無理にとって欲しくななんかない。やっぱり私のことそんな風に思ってたんだ…やっぱりあなたとは…」


 せっかちな由樹がオガハルの言葉を遮って厳しく決めつけると、彼は顔色を変えて立ち上がった。椅子が派手な音を立てて転がり周りが二人を見たが、オガハルは珍しく怒っていたので全く気にならなかった。いや、気が付かなかった。


「ちゃんと俺の話を聞けっ!俺は由樹を大好きだったし、あの時子供が出来たと聞いて飛び上がりたいほど嬉しかった。でも嬉しそうにしたら由樹が気を遣うと思ってどうするつもりか聞いたんだ。本当にどうしたいのか、由樹の気持ちを知りたかった。産んで一番人生が変わるのは女性側だと思ったから…由樹は俺の話をいつも聞かない、勝手に決めつけて進めてく。でもそんなまっすぐな由樹が今もやっぱり好きだし、美樹と由樹との時間を取り戻したいんだ。今更だけど、遅すぎることなんてないって思いたいんだ。俺に父親をさせて欲しい。由樹、あの家は女二人で住むには危ないし、3人で暮さないか?本当は結婚して家族になりたいけど、由樹が嫌ならいい。どんな形でもいいから二人と一緒にいさせて欲しいんだ。頼むよ…」


 最初は怒っていたオガハルも最後は泣きそうな顔で彼女のそばで膝をついて手を握りしめていた。

 見た目よりがっしりした由樹の手は、オガハルがしてこなかった義務を果たしてきた大人の手だった。

 俺もそうなりたかった、一緒に美樹を育てたかった、と綺麗な手をしたオガハルは心から思っていた。


 由樹は意外なオガハルの側面を見てしまい驚いた。彼女の前で彼が怒ったことなんて一度もなかったのだ。


 長い空白の時間のあと、由樹はおもむろに声を発した。


「それならそうと早く言ってくれたら…12年も無駄にしちゃったじゃない!私だって絶対子供を産みたいくらいあなたの事が好きだったのよ」


 久しぶりに聞く自分に向けられた優しい声でオガハルは身体を震わせた。一緒に住んでいた若い時を思い出す。


 オガハルの不器用で真摯な気持ちは由樹に届いた。由樹はかつて信じきれなった彼の手を両手で握り込み、今度は信じてみようと自分の頬にそっと当てた。


「ほう…いい話じゃないですか。でも、ボクは全く関係ないと思うんですが…」

「それがね、隆君!由樹が結婚の条件として美樹の了解を出してきたんだ。でも、美樹ってば俺のこと毛嫌いしてるからさ…助けて、隆君!」


(なんだこの人…大人のくせに「助けてドラえもーん」的なお願いをこんな子供に言ってる自覚はあるのか?)


 ボクがドラえもんの気持ちになってしまい困っていると、


「じゃあさ、隆君はなにか欲しいモノとかない?俺に叶えられることなら」と提案した。


 どうしても橋渡しして欲しいようだが、生憎今のボクに願い事なんて思いつけない。


「うーん…」


「頼むよぅ!」とボクの目の前に頭を下げると、美樹とよく似た形の美しい耳が見えた。やはり、親子だな、と眺めていたら、


(あ、そういえば…)


 ボクはひとつお願い事を思いついて、ユンジュンを振り向いて見た。


 彼はボクの意図が読めずにきょとんとした顔でボクを見返した。そんな顔も素晴らしく美しくて、住吉のおばさんが放したがらなかった気持ちがわかる気がした。

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