第5話 メンデルスゾーンはお好き?③
(まさか…)
呆然としていたら白の玄関ドアが開き、30代くらいの女性が出てきた。
派手な化粧でもないのに遠目からでも綺麗な女性だとわかる。白ジーンズとグレーのTシャツなのにパッと目を引く。
(えっ…)
ボクは女性の後ろにいた女子を見て水筒を舗装に落とした。派手な金属音とともにお茶がアスファルトに流れる。
目は彼女に釘付けだった。
塾の模試でボクの前に座った髪の長い女子。目が覚めるようなレモン色のワンピースを着ている。
試験の時は無表情だったが、今はひまわりのような笑顔だ。
ボクは足元に水筒を落としたままで見とれていた。
「こんにちは。美樹の知り合いかしら?」と女性は歌うようにボクに聞いた。
女の子は笑みを引っ込めてボクに視線を移し、ゆっくり首を横に振った。
(覚えてない、よね)
ボクは黙って頭を下げ、水筒を拾って一目散に走った。
帰ってきたボクが居間で呆然としていたら、丸眼鏡がこっそりボクに声をかけた。
「大丈夫?困ったことがあるなら僕に電話しておいで」
彼はメモに何かを書き込み、ボクに差し出した。
そこには律儀なカクカクした字で名前と電話番号が書かれている。
「あ、ありがとう…」
ボクは受け取ったが、母を狙っている丸眼鏡に父の浮気相談など出来ない。
「どうした、タカシ?」
ボクが自分の部屋で机に突っ伏すと、ユンジュンが壺から出てきた。もっぱら面白がっているのを見て目が覚めた。
よく考えたら別にボクは悪くないし、まだ確定ではない。
根拠は女性が綺麗過ぎるからだ。
「…父さんが知らない家から出てきたんだ」
「それは興味深い。でも浮気じゃないと思うぞ。マナブならありえるがな」
「えっ、伯父さん?」
ボクはびっくりして目が覚めた。
伯父より父のほうがモテると思っていた。
父は体育会系でいわゆるいい会社ってやつに勤めている。それに比べて伯父は文化系の物書きだ。
ボクの考えはお見通しのユンジュンは呆れて言った。
「バカだな、おまえの父さんは女性にモテない。よく見てみな」
ボクは天地がひっくり返ったくらいの衝撃を受けて声も出なかった。
その週は勉強が手に付かなかった。
父にどう聞こうか計画を練っていたのだ。
(やはりコレかな…)
ボクは行動に移した。
「ソフトボール教えてもらえない?」
土曜日の朝、父を誘った。
母のピアノの手が止まり、兄はバターを塗ったパンを皿に落とした。誰よりも
「そ、そうか…病気も治ってきたしな。よし、明日の午前に公園でキャッチボールでもどうだ」
すると兄が「…オレも少しだけやりたいな」と言い、父の肩がびくりと跳ねた。
父はまだ母がヒステリーだと思っている。
しかし母が、「あら、いいわね。明日はお弁当でも作って皆で公園にでも行きましょうか」とウキウキしだしたので父は余計に目を丸くした。
彼は知らない家族に紛れ込んだかのように居心地悪そうに「そ、そうだな」と答えた。でも決して嫌そうじゃない。
戸惑ってはいたが嬉しそうだ。
ボクと兄は目を合わせた。
(家族、みたいだ)
兄もそう思っているのは明らかだった。
次の日、ボクらは公園に出かけた。
ピクニックシートに座る母の前で、男3人が恐る恐るキャッチボールをした。ボクは勘が悪くてボールを上手く取れなかったり投げられない。兄も早いボールから逃げている。
ボクたちが幼稚園児みたいに下手くそでも、父はとても嬉しそうだった。
そしてお世辞にもモテそうには見えなかった。
くたびれたジャージ、髪の毛がぼさぼさの薄ぼんやりしたマッチョな人に見える。
そういえば父が家でジャージ以外を着ているところを見たことがない。
「隆も背が伸びて身体が締まってきたな。でも身体が治ってきてるとはいえ、あまり無理するなよ」と言いながら父はボールを緩く投げた。
ボクの病気は大きくなると治るので、もう
兄を亡くした父は、以前のように『病気は本人の気力で治る』なんてもう思っていないようだ。
父はきっとボクの為を思ってそう言ったのだろう。人は善意で言ったことは忘れてしまうものだから。それが誰かを傷付けたとしても、だ。
弱いボールなら取ろうとする兄にも、「無理して取るなよ、もうすぐコンクールだろ」と笑っている。兄も恥ずかしそうに笑った。
ボクのイメージと違う父がそこにいる。ボクらを見て母は大きな口を開けて笑った。
本物の家族の様で居心地が悪い。そしてその居心地の悪さが愛おしい。
お弁当を母が皿に取り分けて渡すと、父はまんざらでもなさそうだ。
(父さんに女性の気配がない…母さんも丸眼鏡には脈がないようだし、うちは『ブラームスはお好き?』みたいにならないかも。なんだ、心配して損した。しかし今回もユンジュンにしてやられたな)
ボクはマスタードの効いたキュウリとハムのサンドイッチをほおばりながら、次に食べる唐揚げに狙いを定め、そばに自称軍師がいないことを残念に思った。
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