第25話 少女の自覚と、素敵な『赤猫のキキの大冒険』

「学舎を辞めることにしました」


 ミーナは、いつも自分の指定席のようになってしまったカウンター席に腰掛けながら、カウンターの中で洗い物をしていた黒髪の少年に告げた。

 唐突な報告に黒髪の少年、この『サクラ亭』のマスターが洗い物の手を止め、私の顔を見詰めてくる。


「……そうですか」


「……はい」


「ミーナさんは、その決断に納得はされているのですか?」


「お母さんと何度も相談して決めたことです。勉強が出来なくなることには少しだけ後悔がありますけれど、もう一度あの場所に通うのはどうしてもここが辛くて……」


 ギュッと胸を押さえながら、私は力ない笑みを浮かべる。

 大きな恩のあるマスターには、出来ることならもっと良い報告が出来れば良かったけれど、それは無理だった。

 お母さんにいじめのことを打ち明けた時は辛かった。

 いつも仕事でヘトヘトだけど、家では泣き言一つも漏らさずに家事もこなす大黒柱なお母さんがあんなに涙を流している姿を見たのは初めてだった。

 「気付いてあげられなくて、ごめんなさい。本当にごめんなさいね」と何度も何度も泣きながら謝るお母さんの姿に、私もいつの間にか涙でグシャグシャになった顔で「ううん、良いの。ごめんなさい、ずっと黙っていて」と謝った

 お母さんはすぐに学舎に連絡をして、娘には家の仕事をしばらく手伝ってもらわないといけなくなってしまったので、復学の目途が付くまでは休学扱いにしてもらいたいという希望を伝えてくれた。

 学舎での就学は義務ではなく、子供に学問や教養を身につけさせる為に通わせる教育機関なので、親の仕事の都合による子供の休学や自主退学(家業を継がせることになった等を理由に)はままあることなので、あっけなく受理された(いじめのことを告発していたら、そのゴタゴタで私の精神が参ってしまうのではないかと、お母さんは思ったらしく、いじめの事実は告げなかった)。

 私は休学中の普段の生活は基本的に自宅とサクラ亭で過ごして、心の静養期間を穏やかに過ごした。

 その数日の中で、自分でもう一度学舎に通うだけの心の強さがあるのか試してみようと思い、学舎へと足を向けた日があった。

 結果は散々だった。

 学舎の前を通ろうとすると足が竦んで立ちすくんでしまい、校門から出てくるかつての級友達の姿を見ると心が悲鳴を上げて、彼らに見つかることが恐ろしくて仕方がなく、きびすを返して逃げ帰ってしまった。

 怖かった。

 たまらなく怖かった。

 あの場所が。

 あの人達が。

 またあの場所に戻れば、ゆっくりと癒えてきた心が、もう一度ボロボロに壊されるだろうと悟ってしまった。

 もうあそこには戻れない。

 それがハッキリと自分の中で答えとして出た瞬間だった。

 そして、お母さんとも色々話し合った結果、学舎を退学するという決断に至り、退学届を提出してそれも受理され、自分は学生という身分を手放すことになった。

「あははっ、自分でももっと頑張れるかなと思ったいたんですけれど、ちょっと無理そうでした」


 空元気が丸分かりな笑顔しか作れない自分の不器用さに辟易しながら、私はカウンターの木目に視線を落とす。

 情けないと思う。

 本当ならこんな結末しか選べなかった事実を口にするのも気乗りしなかった。

 だけど、この人には絶対に伝えなくてはいけないと思った。

 あの雨の日に、心がズタズタに切り刻まれて彷徨さまよっていた私を見つけてくれたこの人には。

 中々顔を上げることが出来ず、沈黙が流れる。

 いや、今はこのお店にいるお客さんは私だけではなく、少し離れたテーブル席に座っている、とても可愛らしいテディベアを膝の上に置いてニコニコと幸せそうな笑みを浮かべる茶色がかった赤髪の女の人と、その少女の友人らしい私と同じ栗色の髪をした女性が楽しそうに会話していて、その話し声がお店の迷惑にならない程度のボリュームで響いていた。

 彼女達の声が店内に染み込んでいく中、私は情けない告白をしてマスターの顔を見る勇気が萎んでしまい、俯き続けていると、

 ポンッ、と。

 私の頭の上に温かな掌の温もりと、以外にも大きな手の感触が伝わって、


「よく頑張りましたね、ミーナさん」


 そう言って、マスターは私の頭をそっと撫でてくれた。


「……えっ?」


 彼の掌の感触に決して嫌なんかじゃないくすぐったさを感じながら、私は予想だにしなかった言葉に目を白黒させる。

 ……頑張ったのだろうか、私は?

 ただ私は、あの場所から逃げることしか選ぶことが出来なかったのに。

 こんな私は頑張ったと言えるのだろうか?

 そんな疑問に心が満ちそうになるけれど、


「ミーナさんは、お母さんにいじめのことを打ち明けて、自分の足で辛い思い出のある場所に行って、沢山沢山苦しんで、自分なりの答えを導きだしたんです。

 それは、とっても難しいことです。

 とっても大変なことです。

 だからこそ、それを成し遂げた貴女は情けなくなんてありません。

 とっても頑張った貴女は胸を張って良いんです。

 なので、私は何度でも言います」


 私を救ってくれた魔法使いはもう一度魔法をかけてくれる。


「頑張りましたね、ミーナさん」


 私の背中をそっと押してくれる魔法を。






「……ああ」



 ああ、駄目だ。

 もう、誤魔化しきれない。



「ミーナさん? なにやらお顔が赤いようですが、どうしましたか?」



 この胸に灯っているこの気持ちは本当だ。

 本物だ。



「体調が優れませんか?」



 気遣わしげに、どこかオロオロとした口調の彼の声が響く。

 その言葉が、その声が、その優しさが。

 とても愛おしくて、愛おしくて。

 やっと自覚した。

 そうだったんだ。

 初めての感情で、よく分かっていなかったけれど今なら分かる。



 彼の温もりに包まれた掌の感触に名残惜しさを感じながら、私はゆっくりと顔を上げる。

 彼が安心してくれるように、熱く火照った顔のままだけれども笑顔を浮かべる。



 私は、きっと。



「いいえ、体調は問題ありません。ありがとうございます」



 この人に恋をしているんだ。







 私がマスターへの恋心を自覚した後、『ミーナさんはとっても頑張ったで賞』という賞を私に贈ってくれたマスターからプリンアラモードをご馳走になって、身も心も幸せ一杯で満たされていると、マスターは奥のテーブルで談笑する二人に意味ありげな視線を向けた後、何やら面白いいたずらを思い付いた小さな子供のような茶目っ気のある笑みを浮かべる。

 そして、私が食事中に汚してはいけないとカウンターの隅に移動させていた本を指差し、


「そういえば、その『赤猫キキの大冒険』はどうでしたか、ミーナさん」


 そう、何故か大きめな声で私に質問を投げかけてくる。


「この本の感想ですか? えっと、そうですね……」


 いきなりの問いかけと、彼への気持ちに気付いてしまった後の心の整理がまだついていなかったこともあり、中々言葉にまとめることが出来ない。

 『赤猫キキの大冒険』と表紙に描かれた本を手に取り、パラパラとページをめくって、お話を振り返る。

 ……マスターが執筆した本にしては文章が稚拙に感じられる部分も多々見られるけれど、お話全体の構成が上手で、読んでいると心がポカポカとした気持ちになってくる素敵な物語だ。

 そんなことを思いながらページをめくっていると、何やら先程まで楽しそうに会話をしていた別の席の二人のお客さんの会話がピタリと止み、一体私がどんなことを言うのだろうと、どこか耳を澄ませているような様子を感じるのだけれども、恐らく気のせいだろう。

 そんな不思議な雰囲気を背中で感じながらも、私はこの物語を読んだ率直な感想を述べることにする。


「この本は、私が今まで読んだきた本の中でも、とってもお気に入りの本で、読んでいると心がポカポカとしてきて素敵な時間が過ごせます」



「はうっ!?」

「ちょっと、アンナ、大丈夫ですかっ!?」

「だ、大丈夫。ちょっと、私のハートが撃ち抜かれただけだから……」


 少し離れた席で赤髪の女の人が胸を押さえて机に突っ伏してしまったけれども大丈夫なのだろうか……?


「なるほど、なるほど。他に感じたことはありますか?」


 何故か口元に指を添えてクスクスと口元を綻ばせているマスターに首を傾げながらも、私は感じたこと率直に口にしてみる。


「ええっと、あっ! キキが他の雄猫達から馬鹿にされていた時に彼らを思いっ切り叱った雄猫がとってもかっこ良くて、私がキキなら絶対に好きになってしまうだろうなあって思いました」



「は、恥ずかしくて死んでしまいそう!」

「あらあら、アンナったら図星だったの?」

「ち、違うから!? 私のこの気持ちは恋なんかじゃなくて、こう何というか頼りになるお父さんに対する憧れというか慕っているような感情なんだってば!」


 林檎のように真っ赤になった顔で、首をブンブン左右に振りながら何かを否定している様子の赤髪の女性と、その様子を楽しそうに眺めながらからかっている様子の栗色の髪の少女が少し気になったけれども、私は感想の続きを述べる。


「キキと、彼女を認めてくれた雄猫との時間がまるで実体験かのように感情豊かに描かれていて、読んでいてとても惹きつけられます。

 文章全体が温もりに満ちていて、文章の完成度が高い訳ではないんですけれども、それを補って余りある程の愛情が詰まっていて、きっとこの本を書いた人はとても優しくて素敵な人なんだろうなあって感じました」



「もう私、あの娘のこと抱き締めてきていいかな!? あの娘と是非お友達になりたいんだけど!」

「いきなり今の貴女みたいに嬉し涙でボロボロ泣いている見知らぬ女性から抱き締められたら、衛兵所に連行されて愛しのギルバート隊長に怒られるんのではないかしら?」


 私が感想を話していると急に号泣してしまった女性に流石の私も何事だろうと、彼女達のテーブルに視線を向けて困惑顔を浮かべていると、マスターはもう我慢できないとばかりに楽しそうに「あははっ、すみません。イタズラが過ぎましたかもしれません」と笑い始めて、私は更に頭が混乱してしまう。


「あ、あの、マスター? どうしたんですか?」


「いえいえ、すみません。軽いイタズラのつもりだったのですが、予想以上に原作者の心を射止めてしまったミーナさんのコメントと、アンナさんの反応についつい堪えることが出来ずに、笑ってしまいまして」


「?」


「ええっと、実はですねミーナさん。その本を書いたのは実は……」




 その後、『赤猫キキの大冒険』の作者がマスターではなく、あのテーブルに座っていた赤髪の少女・アンナさんであることを聞かされて、見ず知らずの彼女の前で臆面もなく率直な感想を述べていた自分が恥ずかしくて仕方がなかった私だったけれど、


「私の書いた物語をあんなに誉めてくれてとっても嬉しかったの! 私と友達になってくれないかな……?」

「あら、それなら私もお友達に立候補しようかしら? あんなに素敵な表情で本の感想を話す貴女とこのお店の本についてお話もしてみたいし、ほら、私と貴女の髪って同じ髪の色でしょ? まるで姉妹みたいで、貴女さえ嫌でなければもっとお話がしてみたいのだけれども……」

 

 そう言いながら、私の席の側にそっと歩み寄り、私の答えをどこか緊張した様子で待っている二人を前にし、マスターの優しげな視線に背中を押されて私は返事を口にした。




 お母さん、私、今日お友達が2人出来ました。

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