#5
透き通るような青みを帯びた空の元、私たちの小船は藍色の夜の水面を進んでいく。
ここは放棄された街。私が吐き出した夜に浸された一軒家の群れの中を、モーターボートが波を立てながら進んでいく。
マーニさんの治療を受け続けて数ヶ月。だいぶ調子が良くなった。悪魔が頭の中に現れる事が少なくなったのだ。出てきても、蚊程の大きさ。叫び声は蚊の羽音よりも小さいので、普通に無視して眠れる。点滴もしなくて良くなった。
それでも。
「この病室の中だと、解けない呪いが一つだけあるなあ。」
という訳で連れてこられたのが、この夜浸しの街である。正直、あまり気持ちの良い光景ではない。この街を滅ぼしたのは、間違いなく私なのだから。
「……罪悪感を感じるかい?」
「はい……」
「あまり気にするんじゃないぞ。やりたくてやったわけじゃないだろ?」
「はい……」
「まあ、歌えばその気持ちも晴れるだろうよ。」
やがて見えてきたのは、夜浸しになった私の家。二階の部分だけが、星が瞬く夜の水面に浮かんでいる。遠くには裾野が夜に浸かった山。マーニさんは、この場所に船を停泊させた。
「ベル、ちゃんと持ってきたよな?振ってみてくれ。」
ポッケから取り出したベルを振ると、チリンと煌めく音がする。それが静かに消えた頃、こちらに向かって飛ぶ影が一つ。アゲハ蝶の羽が付いた電子ピアノだ。船の周りを旋回した後、マーニさんの前に到着。
「私、歌いたい歌があるんです。ピアノ、弾かせてもらってもいいですか?」
私の家と山を見た途端。歌が浮かんできたのだ。
「いいよ!何を弾くんだい?」
言うよりも早く伝わると思い、「カナリア」という童謡の物悲しいフレーズを弾く。
「……カナリアか。始めてくれ。」
小学生の頃の事を思い出しながら、歌い出す。
♪唄を忘れた
ある日、私は逃げ込んだのだ。神隠しの噂が流れる裏山へと。
♪いえいえ それはなりませぬ
マーニさんの野太く、優しい声を聞きながら思い返す。
お母さんに勉強を教えてもらっている最中。いつもは優しいのに、その日は「なんでわからないの?」と言われてしまった。
♪唄を忘れた金糸雀は
それを聞いた時、衝動的に家を出て、山へと逃げ出した。お母さんにムカついたのではない。自分に嫌気がさして、この世から消えたくなったのだ。
♪いえいえ それはなりませぬ
マーニさんの声。
山の中を進むと、そこは暗くて、怖かった。その上、お腹がペコペコになってしまった。
♪唄を忘れた金糸雀は 柳の
陽が落ち、夜の帳が下りる頃。急に家に帰りたくなった。けど、道がわからない。
♪いえいえ それはかわいそう
マーニさんの声。
夜が明けた頃。お母さんが私を見つけてくれた。「バカ!探したんだから!」と言われ、私はギュッと抱きしめられた。その涙まみれの顔が、頭の中に蘇ってくる。
♪唄を忘れた 金糸雀は
私が見つかった山の入り口は、今は私が吐いた夜の中。これ以上みんなに迷惑をかけない為にも、病気を早く直さなきゃ。
♪象牙の船に、銀の
——あれ。山の中で迷っていたはずなのに、なんで入り口で見つかったんだ?
♪月夜の海に 浮かべれば
確か、誰かに案内され……あれ?
♪忘れた唄をおもいだす
——私、山で誰かに出会ったの?
歌を歌い終わった後。いつのまにか現れていた蚊サイズの青い悪魔が、苦しみ悶えた後に霧散。その光景を見ていたので、気づくのが遅れたのだ。
「ごめんね、小夜。」
ボートの上から飛び降りるマーニさん。突然のその行動を止める事ができなかった。死地へと赴く兵士が、恋人に別れを告げる時のような笑顔を、一瞬だけこちらに向けた後。
♪Elen síla lúmenn' omentielvo
歌いながら、落ちていく。ボートから身を乗り出すと、マーニさんが夜の闇に沈んでいく様子が見える。浮力で逆立った髪の中に見えるのは、三角形の耳。それは明らかに人間の耳ではなかった。それは、まるでお伽話に出てくる妖精の——
それを見てやっと、やっと思い出したのだ。
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