酒色

明日波ヴェールヌイ

お酒なんかより貴女の全てで酔ってしまいたい……

 ふとパソコンの端に目を遣る。何時もならもう帰っている時間だ。しかし、今日は終わるのが遅くなってしまったので定時を過ぎている。

 パソコンを打つ手が止まった。カーソルが点滅しダークモードに設定した画面には様々な色の文字が浮かんでいる。しばらく画面を見続けたせいか、目が熱くジンジンしていた。瞬きをして目を擦っていると後ろから肩をポンポンと叩かれる。

「お疲れ様」

 聴き慣れた声。振り返るとそこには大学の先輩だった人で上司の一ノ瀬 香先輩がいた。

「先輩、お疲れ様です」

 いつもの呼び方で対応する。この呼び方を言えるのは二人きりの時だけだ。

「ふふっ……いっつもこう呼ばれると大学時代を思い出すなぁ」

 そうやって笑っている先輩の左手の薬指には光を反射して光っている指輪がはまっていた。押しに弱い先輩は親が決めたお見合いの人にプロポーズされたらしい。

 でも、時々漏らす愚痴から、先輩には別に好きな人がいるのだ。でも、それを受け取ってしまった。先輩は笑顔で気丈に振る舞っているが、時々見せる悲しそうな目が私の心に刺さる。先輩には本当に好きな人と一緒になって欲しかった。

 私は先輩が好き、いやそんな言葉で終わらせられる想いではなかった。

 タイムカードを順番に通し、一緒に会社を出る。いつものことだったのに、徐々に変わりゆく現状が心をどんどん締め付けてくる。

「今日、久々に飲みに行こっか?」

 久々の誘いに私はこの好意が終わりに近づいているのではないかと感じる。先輩とは前まで週に一回のペースで飲んでいた。それもここ最近はなかなか行けなかったので、一ヶ月以上は一緒に飲んでなかった。

「いいですね。確かにとても久々感じです。どこ行きます?いつものところでいいですか?」

「そうね、いつものところ行きましょう。もうあまり行けないかもしれないし」

 そんな目をしないで欲しい。もう私のものにならないのに。そんな目をされたらこっちが泣いてしまいそうだった。

 いつも行きつけの大衆的な居酒屋の扉を開ける。ふわっと様々なものが入り混じった匂いが私たちを包み込む。四人がけの机を二人で座り、荷物をおろす。私は横に置いてあるコップに水を注いだ。メニューと睨み合いをしている先輩のそばにコップを置くと、先輩はこちらに笑顔を向けてきた。

「ありがとう。こうやって貰うのもあと何回か、かぁ……」

「もうやめてくださいよ。こっちまで悲しくなりますし。」

 そうだ、こっちまで悲しくなってしまう。あの話を聞いたあと、何回私は枕を濡らしたか。

「お飲み物をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 店員の一人が来て私たちに聞く。

「私はハイボールで。先輩どうされます?」

「うーん、とりあえず生中一つ」

 いつもの注文だ。お酒が弱い先輩はいつも一杯目からかなり酔ってしまう。そこから何杯飲むかによってストレスがどれほど溜まっているかがわかるのだ。

 程なくしてお酒が運ばれてきて、食事の注文をする。揚げ物やツマミ類が多めの注文だ。そのあと、二人でジョッキを当てて乾杯をする。私は少しずつ飲む人間だが、先輩は弱いくせに一口目からぐいぐい飲んでいく。

「美咲ちゃんは好きな人とかいるの?」

 ジョッキを口から離し、もう酔ってるかのように先輩が言う。

「居ない事はないですけど、多分叶わないですね」

 先輩は少しもの悲しそうな顔をして、

「そっかぁ……いるのかぁ……見てみたかったなぁ。美咲ちゃんのタイプの人」

 そう言って、再びジョッキを持ち上げ飲み始める。そんな先輩を見ながら私もお酒を口にする。先輩への想いは伝わらない、叶わない。その事実が私をどんどん飲ませてゆく。

「先輩はいいのですか?好きな人がいたんじゃ……」

 どうしても聴きたかった。先輩はこの結婚を望んでいるのかを。私は勝手に嫌なんじゃないかと思っている。

「うーん……確かに私には好きな人、いないわけじゃないけど……まぁ、この好意は届かないでしょうし。あの人も悪い人じゃないから」

 視線をジョッキの水面に落としながら先輩は答えた。多分私でも先輩は幸せにできない。例え想いを伝えて結ばれても、良くできる自信などない。私にできるのは先輩が幸せになってくれるのを祈るくらいだ。

 少しの静寂が二人を包む。料理が一品、二品と徐々に運ばれるのをお酒を飲みながら口へと運ぶ。私は大切なものがもう直ぐ見れなくなる事が分かっていて、その事実を誤魔化すために飲んだ。ジョッキはあっという間に空になる。次の飲み物を頼もうと思い、店員を呼ぼうとすると先輩が先に店長を呼んだ。

「おお、香ちゃん。どうした?」

 ここの店長とは常連のため仲が良かった。私自身の会社での成長を外から見守っている人間の一人だ。

「てんちょー、キープってまだ残ってたっけ?」

 すると、店長はマスク越しに顎を触りながら、

「あー……どうだったかな……確か半分は残ってたぞ?珍しく十八番を出すんだな?」

「もう、来れないかも知れないからね。一応消費しとこうと思って」

 先輩がいなきゃここには来ない。そんなことを思いつつ私はぼうっと、先輩の横顔を見ていた。

 店長が奥から瓶を持って出てきた。黒いラベルとボトルが店の電球の光を反射し淡く光っていた。店長はいつも一人分のグラスを置くが今日は二人分だった。普段は先輩しかそれは飲まないのだが、先輩が最後かも知れないと言う事だから気を利かせて二人で飲めるようにしてくれたのだ。

 透明な液体がグラスに注がれる。並んだ二つのグラスに同じようにお酒が注がれてゆく。これが家だったら。そんなことを考えていると、グラスの一つを先輩は差し出し

「ほら、飲んで?多分これで最後だから」

「はい……」

 目の前が見えなくなりそうだった。先輩の目も少し潤んできている気がした。それをを受け取るとふわっとアルコール独特の香りがする。私たちは少しグラスを持ち上げ、

「美咲ちゃんの今後への期待と」

「先輩の結婚への祝福を込めて」

「乾杯」

 二人でそう言ってグラスを軽く触れさせる。気持ちの良い高い音が鳴り、中の酒が揺れる。そして私たちはそれを口に含む。その苦さが私の気持ちのように思えてくる。この苦さもいつか慣れて、大人になってお酒が水のように飲めるみたいに、気にしなくなるのだろうか。

 涙をぬぐい先輩を見ると一杯、また一杯と水のように飲んでいく。私も我慢できずに一気に飲み干す。グラスをトン、と置くと先輩が無言で注いでくれた。瓶を置くと、先輩は机に突っ伏す。壁を見つめながら先輩は私に話し始める。

「美咲ちゃんが私の部署に来たとき、嬉しかったなぁ……懐かしくて、久々で……また大学の頃みたいに話せるんだぁって。その時は一年だけだったけど、今度はかなり長くいられるんじゃないかなぁって」

 お酒がだいぶ回っている私はなかなか理解できなかった。ただ聞いている。それについて相槌や想いを言うそんな時間が過ぎていった。

 夜もだんだん遅くなり、あれだけあったお酒もほとんど飲みきった。泥酔している先輩はトイレに行く時も足はフラフラだった。

「そろそろ帰りますよ……先輩……」

 私ももう何も考えられない状況からなんとか意識を保ち、先輩を起こす。もうほとんど意識のない先輩を支え、会計を済ませる。小銭がなかなか取り出せないくらいに酔っている私は諦めて紙幣のみで対応した。

 電車の駅では二人でうとうとしながら電車を待つ。私のほうにもたれ掛かる先輩からはいつもよりアルコールの匂いが強く感じた。少し長めの髪の毛が私の腕に擦れる。先輩が息をするたびに私はその呼吸を感じる。

 電車に乗った後は強烈な睡魔に襲われた。私が先輩を連れて帰らなければ、と言う使命感が私の目を覚まさせている。一方先輩は寝息を立て、私に寄っ掛かり眠っていた。たまに頭が下がり、目を覚ます。それでも直ぐに眠ってしまう。いつもは格好いい先輩の他の一面を見ている私は少し嬉しくもこれからを思い浮かべて辛くなっていた。

 先輩をアパートに送り届ける。部屋の鍵を開け、中へと入る。先輩のいい匂いがする部屋だ、そして今は胸を締め付ける香りだった。ベッドに先輩を寝かせようとすると、首に手を回され、体勢が崩れる。先輩の顔の横に手をつき覆いかぶさるような位置になった。

 少し開いたその目からは涙が一筋流れ、私を写している。奪いたかったあの唇が少し動く。酔っていて意識があるのかどうかはもうわからない先輩は、本音であろうことを言い出した。

「私……本当は結婚したくな……い……だって……私は……」

 無意識に唾を飲み込む。その目が私をしっかりと見ていて、私の視界から他のものを奪う。この近さが私を興奮させ、体を熱くさせる。

「美咲ちゃん……の事が……す……き……だか……ら……」

 そう言って私の首を顔に近づける。酒の匂いのする息が顔にかかる。抵抗する理由なんてない。私の唇と先輩の唇、舌と舌が触れ合い、絡み、引き合っている。意識は朦朧として頭はクラクラしてくる。視界が狭くなり、何も見えなくなった。そして思いを吐きだす。


****


 目覚めると先輩のベッドの上で布団がかけられていた。そして、寝室の外からトントンと何かを刻む音がした。布団を横に退け、私は部屋を出る。音がする方向からいい香りまで漂ってきた。

「あ、起きた?昨日はごめんね。私酔いすぎて何も覚えてなくて……なんか言ってた?」

 いつもの先輩が料理を作っている。私が少なからず期待した光景であった。

「いえ、何も。酔いすぎですよ先輩」

「そっか何も言ってなかった……か……」

 そう言ってまた料理へと視線を戻す。私はなんて強欲なんだろう。先輩のその横顔を奪いたくも困らせたくもなった。

「嘘はダメですよね……先輩……本当は言ってました」

 先輩は静かに顔を上げこちらを見る。その目も、唇も、頬も、体さえ私のモノにしたい。

「なんて言ってた?」

「私のことが、好きだと」

 私はあの時お酒ではなく貴女の全てで酔ってしまっていた。

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酒色 明日波ヴェールヌイ @Asuha-Berutork

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