四等星のファンファーレ 3
一階のロビーに降りると雨はすっかり上がっていた。外は濡れたアスファルトが夕焼けの光を乱反射させている。玄関の真正面には、大きな夕焼けがしっかりと輪郭を保っている。いつの間にか部活も始まっていて、グラウンドはまた騒がしくなった。
反対に一階のロビーは閑散としていて、ロビーに併設されている事務室からはやっと定時だー、という声が聞こえる。外が明るい分、ロビーはいつもより暗い。入り口の扉を一枚隔ただけで、世界はこうも違う。
ガラス張りの掲示板には大きく夏休みのテストの順位が張り出されている。順位表には各教科の点数と総合順位が書かれている。一位から三位までの名前は大きく太字で書かれていて、それだけでもう勝てない気がする。心臓がざわざわして、産毛が逆立つ感覚。どんな時でも、自分が何番なのか知らされる瞬間はいつもこの感覚に襲われる。
仲村の姿はもうそこにはなかった。けれどそれでよかった。仲村がここにいたらなんて考えたら、とても自分の順位なんて見ることができない。高校二年生、二百四十人の順位が張り出されているが、仲村はいつもと同じところを見ればいいだけだから時間はかからないのだろう。自分の名前も、すぐに見つけることができた。
うわー、まじかー。今回は結構自信あったんだけどなー。逆立っていた産毛は途端に大人しくなった。やっぱり、ここに仲村がいなくてよかった。
「颯太か」
入口から先生のような声がして、背中と服の間に氷を入れられたように一瞬体が強張る。とっさに順位表を背中で隠してしまう。入り口の方に振り返ると首からタオルをかけている隆也が立っていた。髪の毛はさっきの雨でぐっしょり濡れていて、後ろの夕焼けが濡れた隆也の黒い髪を輝かせている。
「テストか。どうだった?」
真面目な隆也はいつも先生のように話す。
「いや、全然だな。今回もダメだったわ」
元気に笑って見せるが、明らかに力が出ない。隆也にバレていないことを祈る。
「俺もだ。二十位だった。夏休みは思った以上に勉強する暇がなかった」
知ってるさ。お前は全国のピッチを走っていたんだから。俺の結果が良くなかったことと、隆也の結果が良くなかったことは同じ感覚でも全く違う。夏休みをだらだら過ごしてしまった俺と、全国の舞台で駆け回っていたエースとでは、どうしたって埋まらない差がある。俺が今からどれだけ全力疾走したって、隆也に追いつくことはできない。
「そうだ。まだベースは続けているのか?」
首にかけていたタオルで頭をわしゃわしゃしながら隆也が訊いた。
「いや、今はもう、やってない」
「・・・そうか、好きだったんだけどな。颯汰のベース。」
やばい、そろそろ行かないと、またな。と言ってエースは夕焼けの方に駆けて行った。改めて見ると夕焼けは自分の思っていた以上に大きかった。なんとなく隆也みたいだなと思った。あいつは将来、Jリーガーになったりするんだろうな。そう思うとロビーはより一層暗く思えた。
もう一度、順位表に目を移す。
一位、蓮岡 柊。
二位、仲村 穂乃果。
三位、沢村 伊澄。
四位、日比野 颯太。
五位、清水 文美
四位、日比野颯太。仲村さん、俺、別に勉強してないわけじゃないんだよ。
おれは小学生のころ、自分は不死身の天才だと思っていた。自分に解けない問題はなかったし、どれだけ走っても疲れることはなかった。「負ける」なんてことは想像すらできなくて、運動会の徒競走なんかはいつも一等だったし、テストなんて毎回百点だった。加えて自分の髪が茶色で緩い天パがかかっていたことは、自分が特別であるという神様からの贈り物であると信じて疑わなかった。
小学校三年生の時にはサッカーを習い始めた。それは隆也にやろうと誘われたのもあるが、隆也がボールを蹴る姿がかっこよくて、自分にはサッカーが似合うと思ったからだった。隆也と二人でサッカーをしている時は俄然無敵のような気がして、おれから隆也へのパスが決まると必ず得点につながり、いつも大量得点で勝った。
得意技はエジルターンとヴァニシングフリック。
ボールを身体で隠す位置に立ち、右のインサイドでボールを止める。左足の裏でボールを操作しつつ、身体を反転させて一人振り切る。シュートを打つ動きをキャンセルする。後は左のつま先でボールを背面に蹴り上げる。そのボールを右の踵で蹴り上げる。ボールが相手の頭を超えていく。これをやると、相手はそれをただ見ていることしかできない。見た目の派手さと名前のかっこよさだけで習得を決めたけど、これで何度も味方のゴールを生み出した。
中学に入ってからはベースを始めた。
庭にある物置を整理させられている時にたまたまベースを見つけて、「やってみろ、楽しいから」と親父に言われたから始めた。やってみると意外に楽しく、好きなものにはとことん熱中するタイプだったから、部活にも入らず放課後はベースの練習に費やした。勉強も特に難しいと思わなかったから、成績を落とさずに上達することができた。中二の文化祭では、友達でバンドを組んで舞台に上がることにした。サッカーの練習で忙しかった隆也も、「お前となら」と言ってドラムとして参加してくれた。初めてのことだらけで難しいことばかりだったけど、遅くまで音楽室を借りて練習した。本番では自分の後ろでドラムを叩く隆也を見て、サッカーの試合の時のようにまた無敵になれた気がした。本番は緊張のせいでミスを連発したけど、やり切った後は自分が全ての中心にいるような感覚がした。その興奮を、今でも忘れることができない。
おれの人生は、うまくいっていたのだろう。
けれど高校に入ってからは何かが違った。急に勉強ができなくなったわけじゃない。中学三年間をベースに費やしたブランクで運動ができなくなったわけでもない。でも、自分の中で何かがうまくいかなかった。高校には自分より頭のいいやつ、何をやらせても抜群の身体能力を見せるやつ。いろんなやつがいた。もちろん、才能以上に努力を惜しまないやつも。
だらだらと、ただ流れていくだけの毎日。自分の足に何かが絡まっていくような感覚。小学生の頃に比べて一等を取れなくなった自分。自分が努力を積んでこなかったことはわかっている。けれど自分が努力をすればなんとかなるとも思っていた。しかし、世界が変わってしまえば一等など簡単に取れなくなってしまう。あと数か月しかない高校生活で自分は何にも成し得ていないことが、少しずつ、それでも確実に何かを変えていった。
仲村さんは現文トップかー。蓮岡はまた一位だし。隆也は点数下がったって言ってもサッカーで全国行ってるしなー。
おれの知らないところで、誰かが一生懸命頑張っている。俺が想像もつかないような努力をしている。想像もできないような時間を費やして。みんながどれだけ努力をしているのか、見えていないだけで、努力なんてみんなしてる。
「四位なんて、誰も見ていないよな」
心の中で呟いたつもりだったが、自然と声に出ていた。
「そうか? 四位ってすごいでしょ。あたしなんか百十位だよ」
聴き慣れた声がする方に振り向く。背の低い茶色の髪をした、妖精のような女の子が俺と並んで順位表を見ていた。妖精は照らす夕焼けの光を独り占めしているようだった。聞こえてきた順位に目を移す。
百十位、七瀬和希
あ、いた。ちゃんと見てくれている人。
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