泣きたい夜に、駆けるぼくら

空井 羊

四等星のファンファーレ 1

 仲村の髪は夜のように黒く、長い。うちの高校は髪を染めたり、巻いたりしているやつが多いから仲村の黒髪はよく目立つ。頭の先から背中のあたりまで真っすぐに伸びるそれは、仲村はここにいるよと知らせてくれる。教室にいても、廊下にいても、食堂にいても。仲村の黒髪は、多分この学校で二番目にきれいな髪をしている。

 一番後ろの席から教室を見ていると、それがよくわかる。


 シャーペンをノックし続けては、芯をもとに戻す。そんなことを続けていたら芯が折れてしまいそうだが、俺は折らない。なぜならこれをもう何千回と繰り返しているから。ノックする速さだってクラス一位だろうし、寝ているふりをするのだってうまい。と、思っているところですべてがくだらなく思えた。だって、授業中なんてそれくらいしかやることがない。


「おい、日比野。この問題答えてみろ」


 数Ⅱの、角刈りで白縁メガネの片山先生が教科書を片手に俺を指さす。俺を当てた理由は、ただ順番が俺だったからでも、俺なら答えられるだろうと思ったわけでもない。お前なにオレの授業でぼーっとしてんだよ。そういう目をしていた。黒板には三角関数の問題が並べられている。


「sinθcosθ=-1/4です」


「・・・ちっ」


 おいおい先生、いくら何でもそれはあからさまだぜ? 生徒がちゃんと授業聞いてたんだからいいことじゃねーか。先生って、いかにも高尚で思慮深いように思えるが、実は人間が先生をやってるんだな、と中学の時に気付いた。毎日こんな、授業を聞いているかどうかもわからないクソガキどもを相手にしてお疲れ様、と思うのと同時に、なんだこんなものかとも思った。片山先生。あんた、話し方を真似されるくらいには馬鹿にされてるぜ。


 三限目の授業って、多分何が来ても面倒くさい。一限目や二限目ほど集中力があるわけじゃないし、四限目のように乗り越えれば昼休みが待っているわけでもない。数Ⅱは別に嫌いなわけじゃないけど、三限目の数Ⅱは嫌いだ。


 教室を見渡す。みんな授業中だというのに思い思いの過ごし方をしている。机の中でスマホを触るやつ。先生にはわからないよう巧みに肘をついて寝るやつ、人目を憚らず机に伏して寝るやつ。もはや怒られることなんてお構いなしに髪を捩じったり、鏡を出して化粧をするやつ。この教室でまともに授業を受けているのは仲村と沢村だけだ。この二人だけはいつどんな授業でも姿勢を崩さない。多分夜は九時に寝ているな。ん? 二人とも「村」ってついてるじゃん。「村」つくやつは賢いのか?


 そして、それらをただ見ているだけのやつが一人。


 目の前の席に座る仲村に目が行く。柱のように真っすぐに伸びる背筋。机と椅子の感覚はちょうど拳一つ分くらい空いている。ほんと真面目に授業受けるよなぁ。この席になってからちょうど二週間が経つ。真後ろから仲村を観察していてわかったことがある。多分仲村はそんなに数学が得意じゃない。他の授業に比べると、数学の時間はすこし集中力がなく、肘をついたり窓の外を眺めたりということが多い。むしろ四限目の現代文のほうが集中している気がする。もちろん、他のやつらと比べると、それでもものすごい集中力なのだが、時間が経つにつれて集中力が増していくことはすごいと思わざるを得ない。


 心の底のほうでうずうずと沸き立つものを感じる。仲村のようにきっちりと積み上げられたものを見ると、トランプタワーを積み上げたときみたくそれを壊したくなる。


「なぁ、仲村」


「何よ」


 片山先生にはぎりぎり聞こえない声で仲村に話しかける。集中力が途切れかけているとはいえ真面目に授業に受けている仲村も、前を向いたまま小さい声で応える。


「なんかあったの? 集中力なさそうだけど」


「ないわよ。すこし眠いだけ。ていうか、あんたに集中力のことは言われたくないわよ」


 とすっ、という音がして心臓に言葉のナイフが刺さる。仲村は夜といっても冬の夜くらいに冷たい。いつもふざけて話しかける俺に、仲村は言葉のナイフを投げてくる。嫌われてんのかなぁ俺。嘘だ、そんなこと思ったこともない。俺はいつも仲村からナイフが飛んでくることを楽しみにしている。


「絶対嘘じゃん。絶対なんかあったじゃーん」


 机の下で足をぷらぷらさせながら、持っていたシャーペンをくるくる回す。俺はこうなると、授業中だということはすっかり忘れて仲村に話しかけてしまう。


「何もないわよ。なんでそう思うのよ」


「うーん、なんだろ。柱が曲がってる感じがする」


「柱? 何の話よ」


 仲村は俺にナイフを投げてくる割にはしっかりと俺の話を聞いてくれる。他の男子とこういう風に話しているところは見たことがない。授業中はもちろん、休憩時間もノートを見返したり、他の人にノートを借りて書き取りをしたりしている。昼休みはどこかに行ってしまうから仲村とゆっくり話す時間は思ったより少ない。だからこうして授業中に話しかけるのだが、俺の休憩時間の感じや話し方からすると邪険にされそうなものだけど、しっかり話をしてくれる。


「おい、日比野。うるさいぞ」


 待ってましたと言わんばかりに、片山先生の目がギラっと光る。どうして俺が目の敵にされているのかは皆目見当もつかないが、こうやって先生のプライドを保つように扱われるのは気分が悪い。前言撤回だな。内容はどうであれ、ちゃんと椅子に座って授業を受けている時点で俺たちのほうが百億倍えらい。


 時計を見て、まだ十五分しか経っていないことに絶望する。自然と目線は窓の外に移る。今日の空は快晴。朝のニュースでお天気お姉さんが「今日は晴れ百パーセントです! 憂鬱な気持ちなんて吹っ飛ばしてしまいましょう!」と晴れさながらの満面の笑みでニュース原稿を読み上げていた。授業中に化粧をしているあの子も、「今日いい天気だから外で弁当食べよう」と、お天気お姉さんと同じ笑顔で言っていた。だから今日は誰が何と言おうと晴れだ。


 机に肘をついて、ぼんやり空を眺める。遠くのほうで入道雲が大きくゆっくり流れていく。九月の空は青くて、広くて、退屈で、憂鬱だ。終わったんだよな、高二の夏休み。夏休みも別に大したことなかった。熱い恋があったわけじゃないし、世界を救う大冒険をしたわけでもない。卒業後は大学に行くつもりだから、人生で夏休みがあと五回しかないと考えると、割とぞっとする。ていうか、ソツギョウゴってなんだ?


 遠くを流れる入道雲は俺にとっては壮大すぎて、いつも途方もない退屈と憂鬱を与えてくれる。あの雲の中には巨大な空中都市があったり、王族に仕えるロボット兵があったりすればいいのになぁ。でも、入道雲はあまりにも遠くに浮かんでいる。絵に描いたようにきれいな入道雲は、あまりに絵画過ぎてはりぼてに見えてしまう。あの空はもはや壁だ。この町から出られないとすら思わせる。きれいなのに遠く、きれいすぎるせいで偽物に見えてしまう。挙句の果てに空中都市やロボット兵は金曜の夜九時、テレビの中にあったりするから、入道雲を目指して生きていく理由がなくなってしまう。どんな名作の映画でも繰り返されてしまえば安っぽくなってしまう。


 普段はそんなこと思わないんだけど、授業中に完璧な青空を見ると余計なことばかり考えてしまう。本当は無駄な授業なんて一つだってないはずなのに、すべてが無駄に思えてしまう。片山先生が教えている三角関数だって将来絶対何かに使うはずなのに、先生の取るに足らないプライドと角刈りを見ているだけで、三角関数なんて一生使わないような気がする。スマホゲームに汗水流しているやつや、校則で化粧は禁止されているのにアイラインを引いているやつのほうがよっぽど意味のあることをしているようにさえ思える。こうなると、真面目に勉強している仲村と沢村のほうが無駄なことをしているように見える。


 無駄なことをしていないはずなのに、無駄なことをしているように見える先生。本当に無駄なことをしているクラスメイト。そいつらのせいで無駄なことをしているように見える仲村と沢村。


 退屈だ。チープでも、あの入道雲から空中都市かロボット兵が出てきたほうがまだましだ。爆発しねぇかな、あの入道雲。あー、今日もあそこに行くしかないなぁ。


 「おい、日比野。何している。ちゃんと聞いているのか!」


 怒っているはずの角刈りの顔はにやついている。仲村と沢村は微動だにしない。

 

 退屈だ。死にそうなくらいに。

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