零時、ただし正午(1)

 放課後になると昼間は息を潜めていた影が姿を現す。濃く長く伸びた影は、夕日が差し込んで明るくなるはずの廊下を暗くする。放課後の廊下、というものは人の気配はするのに誰もいない。音があるだけだ。グラウンドからは男子高校生ならではの野太い声と、空を切り裂くような金属音が。体育館からはボールが床に打ち付けられる音と、おそらくはバスケ部であろうバッシュが床を擦るキュッという音が。そして、吹奏楽部が鳴らすホルンのやわらかい音と、トロンボーンの長く伸びる中低音が混ざり、どこからともなく途切れながら流れてくる。音があるだけで、人に会うということがあまりない。放課後の廊下はどこか寂しい。そんな時に普段は気にも留めていない相手とばったり会って、つい長話なんてしてしまうと、相手の隠れた魅力を見つけて惹かれ会うなんてこともあるかもしれない。高校生の恋のほとんどは、放課後から始まっていると思う。



 誰もいない廊下を、仲村穂乃果は小走りで駆けていた。ローファーにリュックを背負い、胸には現代文の教科書と抱えている。それでも、掃除を早く終わらせテストの結果を見た私の脚はいつもより軽い。走るなんて小学校の体力テスト以来だったが、その割には中々のスピードだ。今なら自己新記録を更新できるような気がする。



 自分の息が耳元で聴こえる。ピッチを上げるごとに自分の息遣いが荒くなっていくのを感じる。それでも私の脚は止まろうとはしない。次から次へと、脚が前に前に進んでいく。それほどに私の脚は今目的を持っている。目的地に向かってまっすぐ進んでいく。息遣いが荒くなっていく理由も、実は全力疾走が理由ではないことは私がよく理解している。音より速く、光より速く、私は自転車小屋にあるプラタナスの木のところに行きたいのだ。



 階段を二階から三階へと滑るように駆け下り、中庭と体育館に囲まれた通路を抜ける。中庭には夕日に向かってトロンボーンを吹く女の子がいた。まだ一年生で入部して日が浅いらしく、少し吹いてはやめ、楽譜を指でなぞってはまた吹き始めるということを繰り返していた。ぎこちない演奏だったが、そのぎこちなさが心地いいと思えるほど、女の子はトロンボーンに熱中していた。少し離れたところには何をしているかわからない男子が三人いて、女の子を指さして笑っている。



「おーい、楽器カスタネットに変えたほうがいいんじゃねーのー? 」



 一人がさもなぞかけをきめたように言うと、他の二人がケタケタと嗤い出した。どうやら彼女と彼らは知り合いらしく、トロンボーンの彼女は明確な嫌悪感を視線に乗せて飛ばし、彼らから少し離れた。彼女は下手なのではなく、発展途上なのだ。放課後を貪るだけの君たちとは大違いなのだ。



 ここまでくると初めて人がいたんだ、ということに気付く。一生懸命部活に打ち込む生徒も、だらだらと放課後を過ごす生徒も、皆同じ高校生だ。しかし、その二つの生徒の差は学年を経ていくごとに顕著で、残酷なものになっていく。スタートは同じ高校一年生だったはずなのに、日々を積み重ねてきた人とそうでない人ではなにか決定的に違ってくる。手が違うというか、積み重ねてきた人の手は怪我があったり汚れていたりと刻み込んできたものを感じる。そうでない人の手はまるで生れたての赤ちゃんみたいだ。私は、手を見れば大体何年生なのかわかる。



 離れたところからトロンボーンの彼女を見て、男共はまだ嗤っている。私は近くに落ちてあった小石を拾い上げ、男共の足元に投げつけてやった。予想外の奇襲にたじろぐ男共は、辺りを見渡して私を見つける。「あいつだ。」と一人が叫んだ瞬間、三人とも私を捕まえようと走り出してくる。馬鹿め。私には行きたいところがある。今の私に追いつけると思うな。



 校舎の二号館と三号館の間も抜けて、自転車小屋に辿り着く。目的を達成した私の脚がゆっくりと止まる。急に止まったせいか心臓が一気に熱くなり、額から汗が噴き出す。いつもならすぐにでも拭いたくなる汗だが、今は宝石のように感じる。

 


 自転車小屋の近くには幹に額縁が埋め込まれた大きなプラタナスの木が植えられている。ここが私の目的地だ。汗でじんわりと濡れた額が涼しい。プラタナスの木がつけている葉は青々としている。季節は、まだまだ夏だ。

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