Lick-D

本喜多 券

第1話

 頬に液体が落ちる感覚がしてうっすら目を覚ますと、強烈な酒の匂いが鼻を刺し、吐きそうになってむせた。ディックは重たい腕を起こして自分の顔を触るとビショビショに濡れていることに気がついた。雨か。頭の中で鐘がなるような鈍痛を感じる。秋風が濡れた顔にあたり少し寒い。そのまま気怠げに頬をさすっているとべたべたとした感覚に変わっていった。不審に思い手を鼻にもっていくと再び吐き気を催した。


「さ・・・酒?」


 再び頬に液体が落ちる。酒が上から降ってきている?

 目を開くと視界がぼやけた視界の中で川が見えた。鴨川だ。真夜中に鴨川公園のベンチで酒を呑んでいたのを思い出す。そのまま寝てしまったのか。すると再び頬に液体が落ちた。おもむろに顔を空に向ける。


「おおっ!」


 頭上には巨大な影と酒瓶が浮かんでいた。ディックは反射的に右の拳をその影に向かって振り投げる。すると鈍い衝撃の感触とともに地響きのような獣の呼吸が聞こえ、次の瞬間、酒瓶が頭上に落下し鈍痛が走った。


「痛ってえ!」


 酒が体中に降りかかった。しかしそれよりも後ずさりする目の前のものに言葉を奪われてしまった。巨大な体躯。細くて頑丈そうな四本足。そして夜空に向かって広がるた雄々しい角。それは鹿だった。

 とっさに体を起こしてベンチを境に鹿と対峙する。鹿は背後から街灯をあびてうっすら黒く、巨大な影を落としていた。ディックはけん制するように拳を振り投げたが、微動だにしない。風が吹いて木の葉の揺する音が聞こえる。荒く呼吸する口の中に風が入り込み、ディックはのどの渇きを覚えて地面に目を落とす。そこには先ほど頭にぶつかった空っぽの酒瓶が転がっていた。鹿は酒を飲むのかと疑問に思ったが、別に鹿が酒を飲まない道理はないし、ただ自分が知らないだけでそういうこともあるのだろうと不思議と納得できた。おもむろに酒瓶を拾うと鹿が歩み寄ってきた。


「Fucking Deer!」


 思わず酒瓶を振りかざすと、鹿は後ずさりした。やはり鹿は酒瓶に興味をもっているらしい。ディックは先ほど鹿を殴りつけた拳の感触を思い出した。普段トレーニングに通っているボクシングジムのサンドバックや、スパークリングでグローブ越しに相手を打つのとは違う本物の手ごたえだった。ハーフのディックはジムの他の日本人より図体が大きい。相手をするとき、いつも物足りない感覚があった。しかし目の前にいる鹿は背丈こそ低いものの、図体は大きく、獣特有の獰猛さを持っていた。

 ディックはおもむろに酒瓶を鹿に向かって放り投げた。案の定、鹿は酒瓶に近づき鼻を突き出した。そのまま瓶の口を咥え、上に持ち上げたその瞬間、ディックはベンチを飛び越え鹿に殴りかかった。しかし拳は空をきり、酒瓶を放り投げた鹿は大きく後ずさりした。


「来い!」

 ディックは鹿を追いかけた。


 街灯に照らされてきらめく鴨川の水面がむせるようなのどの渇きを強くする。吐き気がして立ち止まると、それに合わせるように鹿も足を止める。ディックはのどが乾いていたが、目の前にいる鹿をなぶりたいという欲望がどうしても静まらなかった。鹿はそれを分かっているのか。何を考えているのか判然としないが、ディックにギリギリ追いつかれないようなペースで逃げ回る。鹿に遊ばれていると思った。それがさらにディックの怒りに油を注ぐ。


 「ここ・・・どこだよ」


 空が白み始めていた。目の前のうまそうな鹿の尻を追いかけながら、何度も立ち止まったり地面に膝をついたりしながら鹿を追い続けた。途中から車道に入り、夜の静かな住宅街を走り、気が付けば山の中にいた。私の鹿に対する欲望は空腹感のそれに近かった。目の前のごちそうを逃すまいと。山道は険しかった。鹿は跳ねるような軽快なステップで登っていく。私は手を地面にかけながら必死に追いかけた。しかし空が白み始めてから途端に疲労がピークに達し、私は斜面に這いつくばるようにして倒れた。倒れた衝動で土がすこし口の中に入る。私は爆ぜそうなのどの渇きを覚え、顔を上げた。


「水?」


右手の先の方に白くきらめく塊が見えた。腰を持ち上げて這いつくばるように進むと、それは予想通り水たまりだった。勢いそのまま顔を突っ込み、水を吸い上げた。口のなかが和らぎ、のどがゆっくり開くように広がった。途中何度かむせそうになったが、気にもならなかった。水たまりがなくなるまで吸いつくすと、私はそのまま地に付した。木々を縫って刺す日の光がほのかに体を照らす。ここはどこだろう。日の光の方向に顔を向けると、まぶしい太陽があった。目を伏せる。すると突如視界が暗くなった。目を開くとそこには鹿の足があった。しかし私にはもはや抵抗する力はなかった。


「冷た・・」


 ざらざらと冷たい感触が首を伝わった。何度かすると今度は髪の毛や耳の方にもきて、目の前に巨大な鹿の顔が現れた。そして長い舌を出し、私の顔を嘗め尽くしていた。


「さけ?」


 私はそこでハッとした。この鹿は私の顔に付着していた酒の残り舐めていた。

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